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「弱虫ペダル」の御堂筋くんが好きすぎる関連

 弱虫ペダルで一番好きな登場人物は誰?と聞かれたら断然御堂筋くんなんですけど、どこが好きかというと、セリフひとつに集約されます。

 

 「お前らには絶対分からん」

 

 この言葉が出てくる時点で、絶対に嫌いにはなれないという気持ちになります。

 これは運動も人付き合いも苦手な小学生時代の御堂筋くんが、初めて見つけた夢中になれるもの、自転車についての夢を授業で絵に描いたときの言葉です。そして、自転車の選手になりたいという小さな夢は、同級生たちに馬鹿にされてしまうのです。運動が苦手でひ弱な御堂筋くんが、そんなものになれるはずがないと。

 自転車の選手といっても競輪ぐらいしか知らない同級生たちが、自分の憧れるロードレースについて知りもしない同級生たちが、そんなものにお前のような運動が苦手な人間がなれるはずがないと侮辱してきます。そして、少年の抱える憧れに満ちた夢の絵の上に落書きをされてしまうのです。

 怒った御堂筋くんは体の大きな同級生を押します。でも、その同級生はびくとも動かない。代わりに押したはずの自分の方がこけてしまいます。力のない少年です。力がなくて、自分の意志を相手に追いとおすことすらできません。見下されているわけですよ。むかつくわけですよ。しかし、御堂筋くんは、自分の夢を侮辱した失礼で横暴な同級生に対して、その目をまっすぐ見返すことすらできません。そんな御堂筋くんが、吐き捨てるように言ったのがこの言葉です。

 

 「お前らには絶対分からん」

 

 それは自分と他人の決定的な断絶を意識せざるを得なかった子供の言葉です。それはこの世に誰一人として味方がいなかったとしても、ひとりで戦うことを決意した子供の言葉でしょう?

 そんな御堂筋少年にもたったひとりの理解者がいました。それはお母さんです。自分の気持ちをはっきりと表現することもできない内気な少年を、能動的に理解しようとしてくれた数少ない存在です。御堂筋くんはお母さんにだけは素直です。自分の夢を、望みを、決意を口にします。言葉だけじゃない、態度で、行動でそれを表現します。

 それは、病気のお母さんが入院する遠くの病院に、毎日のように自転車をこいで通い続けた日々の話です。

 

 そして、そんな御堂筋くんは、唯一の理解者であるお母さんすら失ってしまうのです。病気です。不幸です。何もすることができませんでした。お前らには絶対分からんことは、もはや、自分以外のこの世の誰にも絶対分からんことになってしまいました。御堂筋くんの背骨はその孤独でしょう。誰にも理解されなかったとしても、この世で唯一自分だけが自分を肯定するということ、その強烈なエゴイズムこそが、御堂筋くんのペダルを回す駆動力なのだと思います。

 

 弱虫ペダルにおける御堂筋くんの登場は、今泉くんのライバルとしてのものです。主人公の小野田くんを自転車に引き込むきっかけとなった今泉くんは、卑怯なやりくちで自分を負かした御堂筋くんを敵視しています。そして、作中に登場した御堂筋くんの第一印象は「嫌なやつ」です。いや、第一印象ではなく、登場時から今に至るまで、御堂筋くんは一貫して嫌なやつでしょう。

 そしてそれは、自分の目的を果たすためには、誰にどう思われてもかまわないという孤独の現れです。誰になんと思われようとも、「勝つ」という誰の目にも疑いようのない純然たる結果だけが、辿り着くべき場所となってしまっている、強さと悲しさの同居した人間性の発露です。

 

 誰に何と思われようと、自分の中にある一個の宝石が揺るぎなくあるわけでしょう?それを曇らせるぐらいなら、周囲の理解なんて全く無視してもいいということですよ。それが世間一般で正しいというわけではありません。ただ、御堂筋くんがそういう人間だということです。自分の中の大切なものを守り抜くことと、周囲の人々に理解されることが全く釣り合わないような価値観を獲得してしまった人間であるということです。そういう人生を歩んできたということです。

 お話を読み進めていけばいくほどに、御堂筋くんというこの嫌な男が、何にこだわってくるかが分かったような気持ちになってきます。すると、過去の嫌な発言も、嫌な行動も、その全てが理解できたような気持に変化してきます。あんなに嫌なやつだったのに、いつの間にか理解したような気持ちになるのです。

 御堂筋くんにとっては、勝つことこそが全てなのだと。

 その方法にこだわれるほど濁ってはいないわけです。方法にこだわってしまったからこそ、勝利を逃すことの方が恐ろしい話です。だから、勝てる確率を1%でもあげるために何でもします。それが、他人に卑怯と罵られることだとしても、正しくやって負けるより、卑怯でも勝つことの方が御堂筋くんには重要だからです。

 

 普通はこうはなり切れないわけですよ。レースには一握りの勝者と、それ以外の無数の敗者がいるだけです。勝つためには勝たなければいけません。それがどんなに他人に非難されるようなやり方だったとしても、それをやらずに、正しく負けるより、それをやって間違ってでも勝つことを望むことはそんなに悪いことでしょうか?

 それは見方を変えれば、決して諦めないということです。格好よく負けるよりも、無様でも勝とうとすること、それは笑われてしまうことでしょうか?ひょっとしたら、そんな御堂筋くんを笑うことは、小学生の御堂筋くんの夢を笑った同級生たちと同じことをしているのではないでしょうか?

 

 しかしながら、1年生のインターハイの最後、御堂筋くんは負けてしまいます。少しでも空気抵抗を減らすため、シャツもレーサーパンツもまくり上げ、異様に小さな自転車を使って奇妙な姿勢で必死で絞り出すように自転車を漕ぎ続けます。その姿を見た観客たちは、御堂筋くんを気持ち悪いと表現します。でも、それが何でしょうか?どんなに気持ち悪く見えたとしても、それをやらずして諦めなかったわけじゃないですか。最後の一滴を絞り出すまで、いや、それを絞り出し切ったとしても、それでもまだ勝とうとした姿じゃないですか。

 御堂筋くんは、他の選手に対して「キモい」という言葉を使って罵倒します。ひょっとしたら、それは自分自身が気持ち悪いと言われ続けてきたことの裏返しではないでしょうか?自分が言われた罵倒を、自分が他人に使ってしまう悲しみです。周囲の人々は御堂筋くんを気持ち悪いと思うかもしれません。でも、御堂筋くんからすれば、そうではない他の人々こそが気持ち悪いという話です。なぜ勝とうとしないのかと。

 

 かつて御堂筋くんが今泉くんに対して伝えた「お母さんが危篤である」という嘘は、今泉くんにショックを与えてしまいました。それで今泉くんは負け、御堂筋くんは勝ちました。それは卑怯でしょうか?卑怯かもしれません。いや卑怯ですよ。でも、御堂筋くんはそれでも走ったわけですよ。自分のお母さんが、それは嘘ではなく本当の話で、自分の唯一の理解者であったお母さんを失ったとしても、ペダルを漕ぐ力を緩めることなく勝ってきた過去があるわけじゃないですか。

 自分はお前たちとは違うということを御堂筋くんは全存在をかけて主張し続けます。その孤独と孤立こそが、御堂筋くんという存在そのものであるかのように思えます。

 

 御堂筋くんは京都伏見高校の自転車競技部を1年生でありながら乗っ取りました。他の部員を自分が優勝するための道具として使い、使い終わったらポイ捨てして、それでも勝利を目指します。そんな御堂筋くんと最後まで走ったのが3年生の石垣くんです。彼は自分たちがやってきた部活を乗っ取った御堂筋くんに思うところがあるでしょう。代々受け継がれてきた部活を、たったひとりの男の野心のために台無しにされてしまったからです。

 しかし、そんな石垣くんは、御堂筋くんと走りながらこう思うようになります。

 

 「お前は純粋やな」

 

 それは、誰よりも勝ちたいと願った御堂筋くんを理解した言葉です。ただ勝つということ、それだけのために動く穢れのない存在です。仲間と仲良くやりたいだとか、格好よく思われたいだとか、そういった穢れを何一つ持たず、ただ一心、勝つという目的のためだけに行動する御堂筋くんのことを、お母さんの次に理解した存在じゃないですか。

 石垣くんは自分たちの勝利への願いを、御堂筋くんに託します。そんな御堂筋くんの返答は「いややキモい」です。そう、それでこそ御堂筋くんです。誰かの思いを継ぐことが、勝つために役に立つのならやるかもしれません。でも、そうではなく、それは余分なものです。それらを全て捨て去って、最後に残る純粋な勝つという欲動こそが御堂筋くんの全存在じゃないですか。

 

 その、この世でたったひとりの我が存在していることこそが、この世の中では最も尊いと思うわけですよ。

 

 誰に何をどう思われてもいい、ただ勝とうとしたということは、実際なかなかできません。世の中に少数の勝者と多数の敗者がいるなら、多くの人が考えるのは、もしかしたら、いかに格好よく負けるかじゃないですか?無様でも勝ちに行こうとすることができる人はそうそういないんじゃないかと思います。そして、そんな必死な人を、多くの人は嘲笑うじゃないですか。

 そんな世の中で、御堂筋くんの無様な敗北にはとても価値があるものですよ。勝とうとしたんですよ。そして、2年目のインターハイでは、その日の完全勝利もやってのけますからね。観客たちは現金なものです。どんなに口が悪く、どんなに横暴に見えても、その勝ったということ、勝つために何でもしたということを、勝ったという事実が肯定していきます。その心情の変化は1年目の御堂筋くんを見ていた、読者のものに重なるはずです。

 

 別にそれが正しくはないわけですよ。でも、御堂筋くんがそうやって御堂筋くんであり続けるということで、僕はとても救われたような気持になります。それはきっと、御堂筋くんほどにはそうは成り切れない自分を自覚するからでしょう。

 自分の大切なものを理解してもらえなかったとき、それでも、それを自分だけは一生大事にすると思いたくて思いきれない自分がいます。だからこそ、どう思われようが自分の中の大切なものを守り切る御堂筋くんの姿勢に憧れてしまうことは仕方がない話だなと思ってしまいます。

 2年目のインターハイも最終局面、先週のチャンピオンの最後のページでは、箱根学園と総北高校の一騎打ちのように見えたレースにとうとう御堂筋くんの京都伏見が追いつきました。でも御堂筋くんは主人公じゃないんですよ。でも、でも、もしかしたら勝つかもしれないじゃないですか。だって御堂筋くんは勝つために走っているんですから。

 くそう勝ってほしいな!そう思いながらお話を追います。

 

「キャッチャーインザライム」と言葉による自己表現関連

 「キャッチャーインザライム」はスピリッツで連載している女子高生のラップバトル部のお話です。最近1巻が出ました。僕はラップのバトルについて全然詳しくないので、上手い具合に韻(ライム)の踏み方を脳内再生できず、ぎこちなく読んでいるところもあるんですけど、読み進めていると、おっ、踏んでるなというのが最初よりはわかるようになってきました。この漫画では、韻を踏んでいるところを太字で表現してくれているので、それも分かりやすいですね。

 

 さて、主人公の眼鏡の女の子、皐月ちゃんは、自己表現が苦手なタイプで、僕もまたそういう感じなので、思っていることが分かるような気がすごくしています。僕は自己表現が苦手なんですけど、そういうことを言うと、僕のお喋りなところを知っている人は、そんなことないだろうと言うこともあり、一方、あんまり喋らないところを見ている人は、そうだろうなと思うかもしれません。

 僕は地の部分は喋りたいことをたくさん抱え込んでいて、お喋りな人間なような気がするんですけど、喋りたいことはあっても全然喋れなくなるときがあるんですよね。それは、コミュニケーションにおいて、場に「正解」が規定されているときです。厳密には、本当に正解を言わないといけないかどうかは関係なく、僕自身がそう感じてしまい自縄自縛に陥ってしまっているときです。

 

 相手が求めている言葉を返さなければならないと思うとき、自分が今から発しようとする言葉が、その流れにおいて正しいかどうかを考えてしまいます。それによってどうしても頭の中で余分な一手が増えてしまいますから、それによって喋るタイミングを逸してしまったりして、上手くいきませんし、上手くいかないことを重ねると喋るのが不得手だなと思ってしまいます。

 文字ならまだいいんですよ。読む相手との間にタイムラグがありますから、十分に検討して返すこともできます。それが即時性を求められる声でのやりとりになるとき、どうしても自分の遅さが気になってしまいます。この少しの重さが会話のテンポを崩しますし、それが円滑なコミュニケーションを阻害します。

 

 実際のラップバトルの映像とかを見ていて想像してしまうのは、僕が同じ場所に立ったとしたら、何も喋れなくて黙りこくってしまうだろうということです。あるいは、喋ることをあらかじめ決めてきたことをなぞるだけになり、無視してしまったり、相手の言ったことに上手く返せず、ぱにくってしまうかもしれません。

 自分が今から発する言葉が正解かどうかを過剰に気にしてしまうために、それを発することができなかったり、それを発したとしても反応を見て、失敗したなと思うと、その巻き返し方が分からなくて困ってしまったり、もはや相手の反応など関係なく喋り続けたりしてしまいます(そして後で襲い来る強い後悔)。

 

 自意識過剰なだけかもしれません。でも、そうだったとしても、それは簡単に直るものじゃないじゃないですか。

 

 キャッチャーインザライムはそういう性質を女の子が、自分も声で言葉を発したいと思うような始まり方をしています。黙っているということは、自分の中の正解よりも、他人の中の正解を優先するということです。また、それらがぶつかることを避けているということです。僕もそんな感じに生きていますから、それだってひとつの選択だろうと自己肯定的に思うんですけど、そう思っているからこそ、つまり、逃げててもそれでいいやという自分と付き合っているからこそ、自分にない部分に対する憧憬もあるわけじゃないですか。そう、言葉のキャッチボールを上手にやれるということにです。

 

 ラップバトルは双方向でこそ生きるものなんじゃないかと思います。なんか偉そうなことを言っていますが、僕はよくわかってないので、よくわかってない僕から見て、ラップバトルに対して憧れを抱く部分がそうだということです。自分が言いたいことを自分勝手に言うだけではダメで、目の前の相手が言うことを汲み、それを踏まえて上回ることに意味があるわけでしょう?違いますか?違ったらごめんなさい。

 

 「何でも2回言ったらウケますよ」

 

 これはあらびき団におけるライト東野の言葉です。同じことを2回言ってスベるネタをやるガリガリガリクソンが、「あれ?吉本の養成所で何でも2回言ったらウケるって習ったのに!」と言ったときにライト東野がしたコメントです。

 そう、何でも2回言えばウケるわけです。僕もそう思います。そういう意味で言えば、韻を踏むということは同じ事を2回言うみたいなことじゃないですか。そして、相手の言ったことを受けて、それを踏まえた言葉を返すのだって2回言うことですよ。ウケたいなら2回言うしかないじゃないですか。それは自分自身とのキャッチボールと、目の前の相手とのキャッチボールの複合技ですよ。上手くやれるなら絶対ウケるやつじゃないですか。僕はそれが上手くできない。上手くできたい。

 

 自分の言葉が正解じゃないんじゃないかという恐怖は、他人とのコミュニケーションに対するモチベーションを阻害する要因です。でも、他人とのやり取りが少ない分、自分とのやり取りは多いはずです。今書いてるこれだってそうで、僕が読んで思ったことをだらりと書きなぐっているわけですが、これは自分と対話をしているわけです。根暗で陰湿な人間であるからこそ、ひとりでいる時間で、人と喋るとき用の話を大量に考えておくことができます。

 そんでもって、このように自分の中で対話を済ませておくことが、僕にとってのコミュニケーションを楽にする方法なんですよ。なぜなら、必要に応じて、既に考えたことのあることを返せるようになるからです。その場その場のインスピレーションで上手く話ができないような人間は、あらかじめ大量に話すことを考えておいて、必要なときにそこに合致するものを引き出してくるしかないと思っていて、そういうことをしています。

 

 キャッチャーインザライムの中でも、韻を踏める言葉を毎日考えている描写がたくさんでてきます。家でも、授業中でも、放課後でも。1巻に収録されているものでは、それを物量で見せられる見開きがあるんですけど、それがめっちゃくちゃいいんですよね。

 その場その場で観念的に反射神経でよい言葉を生み出せる人もいるのかもしれないですけれど、そうでない人だって言葉を発します。それは実は人に聞かせるまでのあいだに無数に一人で繰り返し考え続けていたものかもしれません。とっさにいい返し方ができない人が、無数のパターンをあらかじめ考えておいて、ようやく辿り着ける適切な一言です。

 それだって発するのは怖いわけですよ。だって、実際に発してみるまで、それが適切かどうかなんてわからないじゃないですか。それでも発しようと思ったのがこの物語だと思っていて、そこがとにかくよいなと思うわけなんです。

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 人と喋るとき、自分が正解を喋っているかどうかが気になってしまう人は、人とちょっと喋るだけでほんとしんどい気持ちを抱えてしまい、異様に疲れながら人と接してしまったり、それに疲れ切ってしまってひとりで過ごしたりします。というか僕がそうなりがちって話なんですけど、それでも、人と上手く話したいじゃないですか。自分が喋るだけでなく、相手の喋ることも上手く受け取って、キャッチボールをしたいわけですよ。じゃあそれはどうやったらできるようになるのか??

 わかりません。

 ただ、それは諦めたらゼロになってしまう話だと思うので、そこを繋げようとする漫画の中の皐月ちゃんの姿勢を見て、なんだかすごく勇気づけられるような気分になるんです。

記録と記憶と人生の一貫性について

 人間が80年生きるとして、生まれてから死ぬまでに音を32kbpsぐらいで残したらどれぐらいになるのかな?と考えてみると、

 32kbps × 60(秒) × 60(分) × 24(時間) × 365(日) × 80(年)= 約10TB

 になります。今は10TBのHDDが5万円ぐらいあれば買えそうなので、意外と量的には簡単に残せるなと思いました。

 

 生まれてから今まで自分が聞いてきた音が全部残っている世界になったとしたら、生活はどうなるでしょう?記録が残っているということは便利な部分もあり、同時に、記録が残ってしまうということの辛い部分もあるんじゃないかなあと思います。

 機械に記録した情報は正確なまま残りますが、人間の記憶は時間の経過とともに劣化するものだと感じています。そして、思い出すたびにその劣化した部分を補うように修正されていき、そのうちテセウス船のように同じ船の形のまま全ての部品が置き換えられてしまうかもしれません。

 いや、テセウスの船の思考実験が想定しているようにその部品が全て正確に置き換えられるのではなく、その場その場の都合に合わせたいい加減な部品で補修され、いつの間にか全く見栄えの違う船になってしまっていることも多いのではないでしょうか?記憶は特にそんなところがあるように感じていて、自分の記憶を他の何らかの記録を照合したとき、全然違うものに変わっていたことが分かるというような経験もしばしばです。

 

 人は忘れることができます。それだけでなく、自分にとって都合がよく過去の記憶を置き換えることもできます。しかもそれは、記憶を置き換えた人自身が意識せぬままに行われることもあるのです。それが人間の良いところであり、悪いところでもあるのではないかと思います。

 

 自動車に搭載するドライブレコーダーは、最近では一般的なものになってきました。それは記録を残すということが重要なことだからでしょう。事故が起こったときに、その事故は何が原因で起こったことなのか。人間による曖昧な語りを元に事実を追い求めることよりも、記録を確認した方が正確で間違いがありません。

 音の記録が残ったとしてもそうではないでしょうか?あの時、誰が何を言ったのか?あるいは、例えば何か機械が故障する前に異音がしていたりはしなかったのか?それらは何かが起こったあとに記憶から引っ張り出して思うよりも、実際の記録を確認した方が間違いのない話でしょう。

 そして、記録が残ってしまうということに対する恐怖もあるのではないでしょうか?なぜなら、一度口から出てしまった言葉は記録に残り、それを消すことはできなくなってしまうかもしれないからです。自分の言葉に後悔することなんてままあるじゃないですか。ウケると思って言ってスベってしまうこともあります。何気なく言ったことが他人を傷つけてしまうこともあります。肝心の場面で全く上手く喋れなくて、いやもっとちゃんと上手く喋れたはずなのに…と頭の中をぐるぐるさせながらトボトボと家に帰ったことも何度もあるわけですよ。それらが全て、正確に記録に残っていることは恐怖です。記録を確認するたびにその体験と向き合わなければならないからです。

 そう考えれば、人は忘れることで前に進めるということもあるのではないでしょうか?忘れられなければ、歩けば歩くほどに体にへばりつくフジツボのような後悔がそのうち歩みを止めてしまうかもしれません。

 

 年齢を重ねれば考え方に変化も生まれます。そんなとき、過去の自分自身ほどに意見の合わない相手もいないでしょう?なぜならその過去は、今の自分がよくないと思って捨て去ったものだったりするからです。今では否定し、捨て去った過去が、記録の中から甦ってずっと自分を追いかけてくるということは生きにくいことなんじゃないかと思います。

 僕が思うに、人生の整合性なんておいそれととれるものではありません。ある立場のときに主張していたことが、別の立場になったときに真逆の主張に変わることだってよくあります。それは整合性がとれないことですが、人間は基本的にそんなもんじゃないですかって思います。そこを無理に整合性をとろうとすればするほど、自分を追い込んでいくはめになったりします。人生をそのように縛りプレイしたいのでないのならば、人間の生き方において整合性はとりにくいものだということを受け入れ、一生を一貫して生きるなんてことを本当にやれる人はごく限られたすごい人だけだと思っておいた方が楽な気がしています。

 

 そして、自分もまたそうであるということは、他人のそういう振る舞いに対しても寛容になりやすいということではないですか?僕はそういう人間関係が楽だと思って生活しています。

 人間の人生がゲームの逆転裁判と同じシステムであったなら、相手の矛盾を追及していればいずれ真実に到達します。しかし、人生はどうやらそうではないのではないのかな?というのが僕の認識で、逆転裁判こそが人生の仕組みだと思い込んだ先にあるのは、矛盾できないがゆえに本来とるべきだった自分が得できる選択肢を封じられてしまう、悲しく辛い人が増える世の中のように思えます。僕はそういうのを悲しいなあと思ったりするんですよ。

 

 記録が残らなければ、知らないふりをできますから、そういうごまかしがやりやすいですね。しかしながら、一方、今はインターネットに無数のログが残っていたりします。ある人が強く主張しているものと大きく矛盾する過去の発言が検索によって掘り出されてしまうかもしれません。自分も同じことをしていたのに、他人が同じことをすると怒るのかよ?という指摘はそこそこ正当だと思いますし、そこそこ正当だからこそ、人の発言を封じるための便利な道具として使われます。

 そういうとき、記録が残っていなければよかったですね。なぜなら、記録が残ってさえいなければ、誰もそれを指摘できないからです。逆転裁判でも証拠がひとつもなければ、それを発言につきつけることはできません。

 

 記録は便利ですが、人間から矛盾を禁じる用途に使われがちで、窮屈でもあるんじゃないかと思います。そしてまた、記録が残ることで、自分の過去発言の統計もとれるかもしれません。つまり、自分が同じ話を何度しているのか?ということで、そして、もしかすると話すたびに細かい部分の言い方が変わってたりするのも可視化されてしまいます。

 これは音声が残れば、すべて正確に記録され数え上げられてしまうものです。厄介ですね。しかし、今既に文字情報でも個人的に可視化されてつつあって、弱った気持ちになったりします。

 

 例えば、Twitterです。僕は10年ぐらいやっている気がしますが、自分の人生で他人に話しても大丈夫なエピソードって増える量より、話す量の方が早い気がするので、一度も話したことのない話の量ってだんだん減ってくるのではないかと思います。となると、同じ話を何度もしてしまうわけですよ。自分の発言を特定のキーワードで検索すると、自分が定期的に同じ話を何度もしているのが目に入ります。そういうとき、この人は既にボケているのでは?と感じたりします。

 おかげで、最近ではもう一度書かずに、過去の発言を自分でRTして再掲するみたいなことをしたりもします。これが極まってくれば、人生において言うべきことは全て過去に発言済みで、それを再掲だけすればあらゆるコミュニケーションが終わってしまう可能性がありますね。人生が完成してしまいます。

 

 あらゆる音声が記録に残っていれば、一度言われたことは二度言ってもらう必要はありません。なぜなら、記録を聞き返せばいいのだから。でも、二度言いたいんですよね~。自分の好きな話は三回も四回も、無限にしたいみたいな気持ちがあり、ああ、こいつ同じ話をその自覚もなく何度もしまくってるな!という残念な気持ちになりつつも、でも、したかったんだよね~わかるわかるよって自分に思うわけですよ。

 この矛盾を避けるためには、記録は残っているわけですが、別の過去を振り返って検索とかしなければいいなって思うんですけど、つまり、あらゆる記録が残っていたとしても、結局そういうところに収束していくのかもしれませんね。何か特殊な目的があるときでない限り、過去の記録を全部振り替えるほど人生はあまり長くないのではないかということです。

 

 そういえば、僕はインターネットで自分の喋った音声を配信するという遊びを続けているので、過去11年分ぐらいの自分が喋った音声が残っているという特殊な状況です。この期間は僕の人生の三分の一近い長さわけです。でも、これはもう聞き返す気持ちが本当にないです。分量としては数百時間分はあると思うので、下手すると寝ずに聞き返しても一ヶ月とかかかる量なわけですが、そんな時間が人生にありますか?そして、前述のように過去の自分の発言なんて、下手すると最も嫌なものだったりするわけですよ。そんな記録が残ってしまっています。

 多分昔の自分は今の感覚で考えたら良くないこともたくさん言っているんだろうなあという気もするんですけど、幸い音声は検索対象にまだあまりなっていないので助かっているという気持ちがあり、僕が何かを発言するたびに、矛盾する音声を検索して抜き出してつきつけられたら、きっと完全に負けてしまいます。

 

 ああ、人生が逆転裁判ではなくてよかった(ゲームとしてはめちゃ好きですが)。

 

 さて、インターネットでは、ときおり上述の僕の音声を全部聞ききったという人と出会うことがあり、量を考えると結構びっくりしてしまうという気持ちと、たぶん初対面だが既に色々知られてしまっているというもう隠し事のしようがないという感じが生まれてしまい、なんか不思議な気持ちになるんですよね。

 でも、ありがたいというか、それを全部聞ききれた時点で、かなり僕という問題をたくさん抱えた人間を受け入れられる素養があるので、稀有だし、仲良くしてもらいたいというような気持ちも生まれますね。

 

 こういう経験を通じて、もし、あらゆる人が、自分の人生の記録を残すような世の中になったとしたら、自分が大切に思った人との思い出の記録の交換などをするのかもしれないなと思いました。相手がどんな音の中で生きてきたのかの追体験です。

 何も隠し事をせずそれを実際にできるのだとしたら、そこに全てを見せ合える、見せ合っても問題がないというような健全性があるような気がしていて、そして一方、そのため過去に不健全であったということが許されないのでは?記録さえ残っていなければ適当にごまかして上手い具合に隠蔽しているはずのものを、隠す余地がなくなるのでは?という恐ろしさも同時に感じてしまいます。

 それは良いことなんでしょうか?とはいえ、おそらく世の中は沢山の記録を残すように動いていくような気がします。最近流行りのAIスピーカーも、以前なら家庭の中で閉じて消えていたはずの音を、少なくとも遠くのサーバまで届けているわけじゃないですか。

 

 インターネットに情報を載せることで、皆さんの多くも何かしら情報を残してしまっているでしょう?その辺どう感じているでしょうか?

「児玉まりあ文学集成」について

 コミティア123で三島芳治さんの「児玉まりあ文学集成」という本を入手したのですが、めちゃくちゃ良かったので、読んだあとスペースに再度来訪し、他の既刊も全部ゲットしてきました。全部で7冊入手しましたが、全部よかったです。

 

 「児玉まりあ文学集成」はたった2人の文学部のお話です。より正確には、たったひとりの部員である児玉まりあさんと、入部希望者である笛田くんの2人のやりとりで物語が進行します。

 物語の冒頭、児玉さんは「木星のような葉っぱね」と、何の変哲もない葉っぱを木星に喩えました。その喩えの意味を笛田くんが問うと「意味はなかった。でも今私が喩えたから、この宇宙に今まで存在しなかった葉っぱと木星の間の関係が生まれたの。これが文学よ」と答えるのです。

 

 この台詞がばばーんと心に響いて、一気にのめり込んでしまいました。

 

 現実には存在し得ない関係性を、文学は生み出すことができます。それは言葉の上のことだけかもしれませんが、人間の心は認識はそのような言葉に影響を受けてしまうじゃあないですか。例えば人間の愛を物理現象として計測することは困難ですが、人は愛を認識し、愛を語ることができます。これも文学なのではないでしょうか?言葉が関係性を作り出し、認識し、語ることは、人間の営みにおいて重要な位置を占めていることなのではないかと思います。

 

 喩えるということにはとても強い力があります。何を何に喩えるかによって、仮に無からでも関係性を創出することができるからです。それによって、あるものに何かしらの認識を付与することが可能になります。でもだからこそ、何かを何かに喩えるということには、注意深さが必要なのでしょう。なぜなら、大いなる力を振るうことには、大いなる責任が伴うからです。

 

 児玉さんは笛田くんに「喩え」に関する例示とレクチャーをし、最後に文学部への入部試験としてあるものを喩えさせようとします。それはつまり、その対象と別の何かの間に関係性を生み出させるということです。そして同時に、それを喩えて生み出そうとする笛田くんとその対象の関係性を認識することでもあるのではないでしょうか?

 喩えることは愛情の表明にもなれば、強烈な呪いにもなり得ます。人が何かを何かに喩えるということ、そこにはその人間における人間の部分が表れてしまうのかもしれません。

 

 また、「児玉ありあ文学集成」は2冊あり、もう一方の方でも笛田くんと児玉さんの別のお話が書かれています。そこでは、児玉さんの姿は、実は目の悪い笛田くんが想像したものであるということが語られています。ロングヘアーの美少女の姿は児玉さんの客観的な姿そのものではなく、目が悪く児玉さんの姿をよく見ることができない笛田くんの心が投影された形であることが分かります。

 つまり、笛田くんが児玉さんを綺麗に見るということは、笛田くんが児玉さんを綺麗と思っているということの表明であり、その美しさの源泉は笛田くん自身の心であるということが分かるわけです。

 それは、他人を自分に都合がよく見るという身勝手な行為でもあると言えるかもしれません。でも、世界を美しく見る能力というものには、現実に囚われ過ぎないということも大切なのではないでしょうか?笛田くんは現実をくっきりと見ることができないがゆえにそこにはないものを生み出す文学的な素養を持ち得るのかもしれません。

 

 三島芳治さんの漫画は人間の思う力と現実の関係性における繊細な繋がりが強く描かれているように思えて、例えば「原子爆弾ノーツ」では、架空の世界における原子爆弾の誕生の秘密が描かれています。それは、原子爆弾が実際に生まれるよりずっと前に、スイスに原子爆弾という存在を想像した少女がいたというお話です。何かが世の中に生まれる前には、その前にそれを想像した人がいるということ、それ自体には、科学的に因果関係を見いだすことが困難でしょう。しかしながら、この本の中ではそれが事実として語られます。つまり、これもきっと文学だということです。

 

 文学によって、なかったはずのものがあるようになりました。

 

 僕も人の認識やそれを他人に伝わる形に表現する言葉に力はあると感じて生きています。しかし、その力は人間の認識の範囲に影響を及ぼす力でしかなく、直接その外の世界に影響を与えられるものではないとも感じてしまっています。いかに強く思い、願ったとしても、それをどれだけ言葉にしたとしても、無力であることも多いじゃないですか。思いによって人間の肉体からは無限の力は湧き出てはきません。どんなに強い願いも、綿ぼこりひとつ舞い上げることもできません。それは息を軽く吹けばくるくると飛んでいくようなものなのに。

 物語の中で量子力学が取り上げられやすいことは、人間が認識するということそのものが物質に影響するということを描くきっかけになりやすいからではないでしょうか?他にも例えば、赤ちゃんの手に、熱した火箸と思い込ませた鉄の棒を押し付けると、火ぶくれのようなものが浮き上がったという話が漫画などの中でよく引用されています。僕は明治期のオカルト本でもこのエピソードを読んだことがあり、つまりこれは百年使われているお話なのです。これも「思う」ということが「現実に影響を与える」という内容だからではないでしょうか?

 人間の精神は、とてつもない力を秘めているのに、それが現実に影響を及ぼさないなんて我慢がならないと感じる人間の思いが、それらを物語の中に取り込み、そこには科学的には証明されていない部類の関係性を生み出していきます。

 物語が現実に負けてなるものかという感じです。

 

 はじめに言葉ありきだそうです。人間の見る世界は、もしかすると素の世界そのものではなく、何らかの文学を通した世界かもしれません。であるならば、言葉の在り方は人間の営みと密接に関わります。文学を読むということは、そのような誰かが作った人間の営みを、自分の頭の中で再生するであるとも言えるかもしれません。

 というか、僕が言いたいことは、この本を読んで、自分の頭の中でそれを再生させてみてくださいよということで、とにかくそれが心地よく感じるということです。

 

 ここでゲットできます(児玉まりあ文学集成は2つありますが、最初に取り上げたのは2の方です)。

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軽い気持ちでえらいことが起こってしまう関連

 世の中で起こる重大なことのきっかけは、誰かの軽い気持ちでやってみたことであったりすることがある。軽い悪ふざけのつもりが、人の生死に関わるような事故を引き起こしてしまったりする事例も多々ある。そういう事故について、反省会のようなものに参加していて思うのは、それは軽いことではなく重いことなんだということを自覚しろというような論調が存在することで、それはそれで正しい認識だとは思うものの、やらかしてしまった当人の中では本当に軽い気持ちでしかなかったのだろうともまた思ってしまうことがある。

 

 それらの軽い気持ちで行われることについては、結果的に運よく事故に繋がらないことも多いからだ。むしろ、事故にならないことの方が多いだろう。本当はちゃんとすべきことをちゃんとしなくても何も問題がないということを繰り返すことによって、ちゃんとすることが馬鹿らしく見えてしまうかもしれない。そして、ちゃんとしていたって事故を確実に防げるとも限らない。ちゃんとしていたことで守られるのは、あらかじめ共有されていたルールを守っていたということによって、それらが個人の責任ではなく、集団のルールの責任であると転嫁され、個人がある程度免責されるということだけだ(なお、ちゃんとしていない組織では、たとえルールに準じた行動であっても個人の責任を強く追及されることもある)。

 

 前から時折書いていると思うけれど、世の中は保存則を適用すべきでないところにも保存則を見出しがちだ。「ああっ女神様っ」にも「幸運量保存の法則」というものが出てきた。幸運があれば、それに対応した不運が存在してしまう。「HUNTER×HUNTER」にも制約と誓約という能力の強さを縛るためにそういうのリスクを背負わされる仕組みが出てくる。何かを得るにはそれに対応した犠牲が必要と考えてしまうことがある。無から有は生まれないと考えてしまう。でもそれは何らかのルールによって閉じた系でなければ成り立たないことじゃないだろうか?

 世の中で起こる事実関係の認識は、それを認識する人間の解釈によって成り立つものであって、その中では辻褄があっていても、別の視点からすればそうでないものだと僕は感じているのだ。

 例えば、何か悪いことをしたとき、その後に何か悪いことも起こってしまうと、「バチがあたった」と考えてしまう。これは一見保存則のように思えるけれど、実際は人間の認識の問題でしかない。何か悪いことをしたという後ろめたさに対して、たまたま起こった不運を繋げて認識してしまっただけだ。そこに因果関係が存在しなくてもそう思ってしまう。悪いことをしたあとにたまたま幸運があっても、それらを繋げて捉えたりはしない。なぜなら、それらは釣り合わないからだ。

 

 つまり、「軽い気持ちで起こったこと」が、それらは実は「軽い気持ちで行っていいことではなく実際はとても重要で重大なことだったんだ」という認識は、実際に起こってしまった事故などの大きな不幸によって支えられているということだ。だから、実際はまだ一度も起こったことはないけれど、それはヤバいのではないか?というようなことをやっている人に対しては、その言葉はなかなか届かない。

 それらはヤバいことなのだけれど、軽い気持ちで行われてしまう。なぜなら、それによってまだヤバいことが起こったことがないからだ。起こってもないことを想像して危惧して、その重要さを説くことは、往々にして笑われてしまう。

 半面、一度でも何かが起こってしまった限りは、それが延々何かをする際のリスクとして繰り返し語られてしまう。世の中で一度失敗したものが通りににくくなってしまうのは、それがダメな理由が説明しやすいからだと思っていて、どれだけリスクへの対策を行っていると説明したところで、「でも実際事故は起こったじゃん」という現実の強さには抗いがたい。

 

 こういうことを書くと、「ぼかしているけどアレのことを言っているんだな」と思ってしまう事例が1つや2つは出てくるのではないだろうか?でも、僕はそんな話をしていなくて、もっと一般的な話をしている。それでも、そう認識してしまうのならば、まさにそれこそが僕が今書いていることで、「何か不幸が実際に起こってしまった」ということはそれだけ強い力を持つということだ。

 

 結局何が言いたいかというと、それが大きな不幸を生み出してしまったからといって、そのきっかけになったことは本当に軽い気持ちで行われてしまったことであって、そして、それらを本当は重要なことだと思って日々行動しろというのは、正しい意見だけれど、あまり強い力を持つことはできないんじゃないかということだ。

 それらが重要なことだと考えることができるのは、実際に何かしらの不幸が起きてしまったときだけで、それ以外ではそれが重要なことであると認識するのも難しい。起こってしまった時点から遡って、軽いことが重いことだと指摘され、断罪されたとしても、それを実際にしてしまった過去の時点ではやはり軽いことでしかなかったのだ。

 それでもそれによって重大な事故は起こりうるし、そうであったとしてもそれが起こることを防がなくてはいけないというのが、人間の安全に対する取り組み方なのではないかと思う。

 

 軽い気持ちと、重大な事故を結び付け、それらは軽いことではないと認識するのは、責任追及のためのテクニックのひとつであって、それをそのまま世界に適用しようとすると、世の中には重要で重大なことが増えすぎてしまい、ルールで雁字搦めになってしまう。実際に経験のある人も多いのではないだろうか?100回あるうちの1回を防ぐために、残りの99回についても、面倒で厄介な手続きが増えることになる。にもかかわらず、その1回は依然として起こっているというようなことを。

 

 一度起こってしまった不幸には、それを防ぐためのルールが付きまとう。それを場当たり的にやっていると、無数のルールが生まれてしまう。ルールが厄介すぎて、ルール違反が常態化することもある。そしてルールを無視したことで、さらなる事故が起きてしまい、ルールがより強化されてしまうこともしばしばだ。

 何のために作られたルールであるかも、運用する人たちが忘れてしまったようなものもある。でも、そのルールを無視すると、何かしら起きてしまう可能性が高まるのではないか?と考えると、おいそれとそれをなくすことはできない。

 長く運用されているものはこのように複雑化し、それらをシンプルにするために、新しく作り直すとしても、無数の零れ落ちが生まれてしまう。それによって、なんだ新しく作ったものは、あれもこれもできないし、ボロボロで移行するに値しないじゃないかと評価されたりもする。かくして、その無数のルールで雁字搦めになった物の中に多くの人が留まり続けるのを目にしてはいないだろうか?

 

 いつか、自分たちが生み出した無数のルールの海の中で、窒息死してしまいそうになることを危惧しながらも、守ってくれるルールの乏しい新しい海に漕ぎ出すことができないでいる時間、それが苦しい(水中、それは苦しい)。

 

 これは、僕が2月11日に開催予定のコミティア123に申し込んでから、12月後半に漫画を描き始め、1月後半には50ページ分の漫画が大体できていた僕の反省の記録である。それは沢山のうっかりが重なりまくってしまったせいで、入稿の予約をしようとした2月2日の夜に元データが完全に消失してしまった漫画だ。

 それが完全に消失してしまったのには、沢山の理由を考えつくことができる。漫画を描き始めてから、一度もパソコンに繋いでバックアップをとらなかったこと。ネット上にも自動バックアップをとる設定を入れなかったこと。あの日は何となくBluetoothのキーボードを持ち歩いたこと。そして、その電源を切ったことを確かめずにカバンに放り込んだこと。Bluetoothのキーボードがカバンの中で勝手にiPadのパスコードを入力していたことに気づかなかったこと。パスコードは連続して間違うと、1時間の入力不可があるにも関わらず、それをカバンにいれたままで何時間も寄り道して家に帰ったこと。その間、一度もカバンの中を確認しなかったこと。パソコンのiTunesに接続すればパスコードは解除できるはずだったのに、パソコンが何をしてもiPadを認識してくれなかったこと。それはもしかすると、iPad側のOSをiPadのみでアップデートして使っていたからかもしれないこと。そして、もしかしたら、何とかすればまだ解除できる可能性はあったのかもしれないけれど、もういいやと諦めて、iPadをバックアップに復元し、自分の手で全てを消去してしまったこと。

 

 こまめにバックアップをとっていればよかった、それは皆が考える重要で真っ当な考え方だ。それをサボるのはよくないことだと皆が同意してくれるだろう。でも、用もないのに、パソコンに接続してバックアップをとるということが面倒だという軽い気持ちだったんです。それが悪い、重大な悪いことだと全てが消え去ってから言われても、そのときはそうは思わなかったし、実際それが一日遅れていれば、入稿のためにデータを取り出すためにパソコンに繋いでいたわけで、同時にバックアップが作成されるわけで、何も問題がなかったと認識できていたかもしれないということなんですよ。

 なあ、皆さん、僕がバックアップもとらずに漫画を50ページ描いていたことは、そんなに悪いことだったんだろうか?僕が思うに、悪くはない…悪くはないけれど、実際にデータはなくなってしまったし、新刊はでないということだけが事実だ。まあ別に、新刊を楽しみにしてくれていると言ってくれていたのは何人かだけだと思うので、期待してもらったのにすまんすまんで終わる話かもしれない。ただ、一か月かけて描いたものが、完全な形では誰の目にも触れぬまあ虚空に消え、もはや僕の思い出の中にしかその物語は存在しないということに何かしら思うところはある(不幸中の幸いは、進捗をネットに上げていたので、下描きは45ページ分Twitterに残っていることだ)。

 僕はこのうっかりな自分を責めないように、再発を防止する手立てを考えるということをしようと思う。また、アレは描きこみ過ぎたネームと認識することにして、そのうちまた原稿にします。

 

 ということで、2月11日のコミティア123に参加しますが、既刊と昨日描いた4ページの漫画をコピー用紙に印刷したもの(無料配布)があるのみなので、ろくにお渡しできるものがありませんが、暇してると思うので、僕の笑顔だけでも見に来てくれよな!!ということをお伝えしたい!スペース番号はC19bです。

もし、全ての漫画が定額読み放題になっちゃったら?

 免責:これから書くのは仮定に仮定を重ねたすごく雑な話です。

 

 漫画の著作権を無視った違法サイトに対抗するには、より安くて利便性の高い正規のサービスが必要!みたいな考え方があります。これって実際やるとしたらどうなるのかなあと思ったので、ちょっと考えてみます。

 日本の漫画の国内市場規模について、最新の数字を僕は知りませんが、把握しやすいようにざっくりとした数字で以下のように仮定します。

  • 紙の単行本:2000億円
  • 紙の雑誌:1000億円
  • 電子の単行本:1800億円
  • 電子の雑誌:200億円

 

 紙の市場が計3000億円、電子の市場が計2000億円という仮定です(年間)。

 さて、この5000億円を例えば月額500円のサービスで割ってみると、国内で8300万人の会員が必要です。あまり現実的とは思えない数字ですね。

 

 もちろん市場規模がそのまま継続されるべきであるという条件が間違っている可能性があります。例えば市場規模の1割が漫画家に印税として支払われていると仮定して、それだけを保証したいなら、500億円あればよいことになります。しかしながら、ここに、編集やデザインにかかる費用、システム維持費や個々の決済にかかる費用などを上乗せしていけば、どう低く見積もってもその3倍はかかるでしょう。それで1500億円、必要な会員数は2500万人です。これでもまだまだ厳しい。

 参考までに例えばニコニコ動画における月額540円の有料会員は230万人ほどです。この10倍ぐらいですね。ニコニコ動画は有料会員数が減っているサービスなので、他に例えば携帯電話ショップにおける強い勧誘力のあるdTV(月額540円)であっても会員数は500万人超、2500万人に到達するのはなかなか困難な道ではないかと考えさせられます。

 なぜ、このように全てを定額サービスに置き換えるのが困難に思えるかというと、大量に読んでいる人からも払って貰えるお金の上限が500円になってしまうからです。薄く均等にというサービスでは、気の遠くなる数の人間が参加しないことには、たくさんのお金を使う強い人がいる市場と同等の規模を維持することができません。

 

 このように、あらゆる漫画がすべて低額で読み放題になるというのは、すぐには達することができない高いハードルであるということが、数字の規模感だけをぼんやり考えてもわかると思います。なら違法サイトがなぜそれをできるかというと、漫画作品を生み出す上でかかわった人たちに1円も支払う必要がなく、個別に課金する必要がないため、そのための必要な手続きを省くことができるからです。

 例えば会社に、1円も給料を請求しない優秀な従業員が無限に供給されるなら、経営はよほど簡単なものになるはずです。でも、それは違法なわけです。そんなものを仮定してはいけないよなあというのが僕個人の考えです。

 

 では、たくさん払ってくれる人にはそのままたくさん払って貰いつつ、そうでない人だけ定額読み放題に入ってもらうという方式ならどうでしょうか?これであれば、必要な有料会員数は少なくてもよい、あるいは、ひとりあたりにかかる金額を下げることができるようになります。しかしながら、懸念事項もあります。例えば、漫画にたくさんお金を使ってくれる人は、なぜ使ってくれるのでしょうか?それは決して無償の寄付のようなものではないはずです。つまり、欲しい本が定額読み放題の中には含まれていないから個別で買うしかないというのが重要な理由となるのではないでしょうか?

 となれば、誰もが欲しがる人気の漫画は読み放題に含まれず、そこまで人気ではない漫画だけが定額読み放題に含まれるという形になります。では、その人気の漫画が除外された定額読み放題にわざわざ入りたい人というのは誰なのでしょう?読み放題会員になるには、読みたい本が個別に買うよりも安く読めるからというのが一番の理由になるはずです。その読みたい本が読み放題の中に含まれないとき、会員数を伸ばすのは難しくなるはずです。

 

 さて、どんどん考えることが増えて難しくなってきましたね。そして、タイトルの全ての漫画が定額読み放題になるという条件は既に破綻してしまいました。

 

 利益を最大化するためには、何を読み放題にして何を読み放題にしないかという判断が必要になります。なぜ利益を最大化しないといけないかというと、少なくとも今と同じだけの利益を生み出さないことには、今と同程度に漫画家さんが漫画を作るために必要なお金が生まれないからです。

 現状既に存在する読み放題サービスでも既に色々な考え方で何を読み放題に含めるかが試行錯誤されています。人気作の最初の数巻だけを読み放題にしたり、あるいは、最後の1冊だけは読み放題にしないなど、様々なやり方が試されています。キャンペーンなどで一時的に普段は読み放題ではない作品が読み放題になることもあり、僕が思うには落としどころはこの辺だろうなという気持ちになります。

 つまり、読み放題のサービスの中でも人気作を読むことはできます。しかし、それは限られたタイミングのみでの話で、いつでも自由に読みたいなら、個別に買う必要があるというあたりです。

 

 これは見ようによっては、雑誌と単行本のモデルに近いかもしれません。そういえば、既にフィールヤングコミックゼノンなど、読み放題サービスに雑誌自体を含めている雑誌も存在しますね。あるいは、ゴーゴーバンチのようにバックナンバーのみ読み放題にしている雑誌もあります。各誌、色々試行錯誤をしている段階なのだと思います。

 

 ただの読者である僕の目から見ても、漫画をどのように読者に届けるかには、既に様々な試行錯誤が始められています。難しいのは、今やっている人たちがきっちり食えつつ、次の構造に移行していかないといけないということでしょう。心臓を動かしたまま心臓の手術をするようなものだということです。

 でも、日本には有能な人が山ほどいるので、何年かはかかるでしょうが、きっちり新しいビジネスモデルに移行できるんじゃないでしょうかね?そのように楽観的に考えています。そして、提供のされ方は変わったとしても、漫画自体はきっとあり続けるでしょう。なぜそう思うかというと、なんとなくです。

 

 ここまで、総額については考えてみましたが、ここからは個別の漫画がどれほどの利益を得られるかについて考えてみます。

 完全な定額サービスの辛さですが、会員数が飽和すればそれ以上に市場が成長することができません。つまり、上限が決まった中で再分配をしなければなりません(海外にさらなる成長余地を探すという話はある)。ここで考えなければならないのは、読み放題に含まれるのは、新作だけではなく、過去の全ての漫画作品が含まれるはずということです。

 そのような無数の漫画が存在する環境で、一作が一回読まれたということに対して支払われる額は現状よりも上がるでしょうか?下がるでしょうか?僕には下がるとしか思えません。なぜなら金額の上限は決まっているのに、より多くの漫画を読みやすい環境になるからです。この場合、1巻で完結する作品よりも、長大な作品の方が多くのお金が貰えるでしょうし、1回読んで終わりの漫画よりも、何度も繰り返し読まれる漫画の方が多くのお金を貰えるでしょう。それがいいのか?という問題もあると思います。

 例えば1億人が月額500円のサービスに加入したという状況があったとして、そのうちの3割が漫画家に還元されるとします。原資は150億円です。1人の会員が月に平均15冊読んだとしたら、1冊あたりの読み賃は10円です。これは500円の単行本が売れたときに、1割の印税で貰える50円の5分の1です。同じ人が5回読むか、5倍の人に読んで貰わないといけません。

 これによって月に30万円稼ぐには、3万回読まれなければなりません。過去から現在に至るまで数多の漫画がある中で、1人が月に平均15冊しか選ばない中に自分の漫画が食い込まなければならないわけです。それはきっと、そう簡単な話ではないでしょう。

 もちろん、こんなものは数字の仮定のしかた次第でどんな結論でも導けるものです。ただ、ここで気づくのは、現在の新作漫画は、過去の漫画の大半が書店から姿を消し、収益化に対して非常に不利になるという状況に助けられて選ばれているのではないか?ということです。

 

 次々に新作漫画が生まれ、総数が増えていったとき、過去の無数の名作と同じ土俵に上がるのなら、新作漫画を描くということはそれだけで食っていくことがなかなかできないものになるかもしれません(既にそうなっているという見方もあります)。この場合、今までの環境で何十冊、何百冊ものできあがった本を抱えている漫画家が有利という状況になります。

 この辺を権利だけ買い集める業の人も生まれるかもしれません。というか既にある漫画読み放題サービスを眺めてみると、昔の漫画を取りまとめてサービスに卸している業の人がいることを確認することができます。

 

 ルールが変われば、それに合わせた新しい業態の人が出てきます。新しい時代が来たなら、それに合わせて漫画家の収入を確保するやり方も変わっていくかもしれませんね。

 なお、その中には過渡期だけに通用するゲリラ的なやり方でお金を稼ぐ人も含まれるでしょう。それだってひとつのやり方です。100人のうち、99人がAというやり方をする中で1人だけがBというやり方をすることで儲けられることもあります。ただしそれは、残りの99人もBをやろうとしたときに決定的に破綻するものかもしれません。100人いれば100人が儲けられるCというやり方に到達する前に、そういうBをやるのはそれはそれで賢いことです。

 

 ごちゃごちゃ書きましたが、結局、食っていけるだけのお金を稼ぐことができればいいという身もふたもないのが僕の感覚です。法を犯さなければ、何をやってもいいはずです。だから、それで食っていけているのなら、その誰かのやり方が間違っているわけでもないですし、やり方なんて無数にあっていいじゃないですか。

 世の中はたったひとつの正解だけを規定しようとする人がいるのが気に食わないと思っていて、その考えは、それに合致しない他の無数のやり方をただ間違いと貶めるだけなんじゃないかと思うわけですよ。色んなことをして、今後も漫画をやっていってほしいですね。僕は変わらず好きな漫画を何らかの形で買い続けます。

料理漫画に慣れ親しんでしまった厄介な我々関連

 料理漫画には色々な料理のテクニックが出てきますが、それが汎用的なものであればあるほどに、ネタかぶりしてしまう可能性があると思います。ある漫画で大々的に登場した料理のテクニックや蘊蓄を、既に別の漫画で読んでしまっているときに、そこには驚きを感じることは難しい。

 

 子供の頃に「将太の寿司」を読んでいた頃には、玉子焼きに山芋を入れるとふわふわになるというテクニックを知らなかったため、思い出の玉子焼きに入れられているのが山芋と分かったときに新鮮な驚きがありました。しかし、現代の漫画において、それらは既に通り過ぎた場所です。料理漫画を読むことを繰り返してきたことで、今となっては「魔法の玉子焼きを作ると手が痒くなる」と読んだ瞬間に「山芋でしょ?」と思ってしまいますし、「山芋だった!」と分かったとしても、ほら山芋だった…と思うだけです。これは辛い。僕らは料理漫画をたくさん読んでしまったせいで、料理漫画を新鮮に楽しむ力が落ちてしまいました。

 

 これは僕が中学生ぐらいのときに既にあって、例えば「中華一番」で麺にすごい弾力を与えるための添加物として登場したのが「カンスイ」だったというときに、それは知ってるよ…と思いました。その辺のスーパーで売っている麺の組成表示を確認すれば、カンスイと書かれていたりします。もっと僕の知らない何か別のものなのかな?と思ってしまったがために、知っているものだったと判明して新鮮に驚くことができませんでした。

 

 これは由々しき事態ではありませんか?

 

 料理漫画には謎かけの要素もあります。出されたお題の条件に合致する、みんなの知らない答えを料理として提示することで、驚きと納得を両方簒奪するようなものがありがちな料理漫画の構成です。でも、料理に対する蘊蓄やテクニックが広く共有されてしまったら、驚きをもって迎えることができるものがどんどん減ってしまうではないですか。

 

 世の中には長期連載された寿司の漫画もあります、ラーメンの漫画もあります、カレーの漫画もあります。丼であったりダシであったり、他にも隙間を縫うような沢山の漫画もあります。それらの料理の基礎的な内容については、そこで既に描かれてしまっています。では、次に新しい同ジャンルの漫画を描くとき、そこで描かれたようなことを、同じように描くことは難しくなるのではないでしょうか?なぜなら、それらは既に描かれてしまっていることだからです。

 かといって、そこに登場したものを当たり前の前提知識として取り扱うことも難しいでしょう。誰もがこれまでの料理漫画を既読とは限らないからです。読者の中に知識のギャップがあるとき、どこに合わせるかということを考える必要があります。

 

 しかしながら、料理に関する漫画は今なお増えています。そこにはどんな工夫があるのでしょうか?ここれは4パターンをほど挙げてみます。

 

(1)もう料理は作らない

 分かりやすもののひとつは、料理を作る側から、料理を食べる側に描く対象を変化させたものでしょう。そこでは、各料理を食べたときにリアクションに表現対象が特化され、作る側が構造的に抱えてしまう困難さを省略することができます。

 

(2)新しい料理技術に挑む

 新しい料理技術が登場すれば、そこに新しい料理のテクニックが登場することでしょう。そこに未踏のフロンティアが存在します。「鉄鍋のジャン」シリーズでは確か真空調理などの新しく登場した技術を使う人々が登場したりしていました。「めしにしましょう」では、低温調理用の機械を使った料理が取り上げられています。

 過去から現代にかけて料理が様々変化してきたように、現代から未来への料理も様々な変化を迎えることでしょう。そこに活路があるのではないでしょうか?

 

(3)現代の日本じゃない場所で料理をする

 料理を行う場所が現代の日本でなければいいというのもひとつのやり方です。場所が異なれば、材料が変わりますし、必要とされる技術も変化します。そこにはまだ既存の漫画で描かれていないものがあるに違いありません。

 代表的なものでいえば「ダンジョン飯」です。ここで描かれる料理の技術は、これまでの漫画でも描かれているものも多いでしょうが、材料がダンジョンのモンスターであることから新しい驚きが生まれます。

 もうひとつ好きな漫画で例を挙げるとするなら「銀平飯科帳」があります。これは古井戸を通じて現代の日本と過去の江戸を行き来することができるようになった男が主人公の漫画で、登場する料理の技術は江戸のものです。主人公はこれらのまだ描かれていない料理の技術を現代風にアレンジすることで、驚きを生み出します。

 

(4)いっそ過去の料理漫画を引用してしまう

 この前の「めしにしましょう」で登場したのがこれです。作中に登場した料理は「クッキングパパ」に登場したレシピをアレンジしたと書かれていました。これだけ料理漫画が存在する以上、いっそのことそれらの料理漫画の内容を当たり前のように引用して取り扱ってしまってもいいのかもしれませんね。

 

 整地が進み限界があるかと思った料理漫画は、まだまだ様々な方法で未踏を舐っていたり、既踏をアレンジしたりとバリエーションが増えています。しかしそれは無限に続くものでしょうか?ここからさらに二十年とか経ってしまったとしたら、そこにある料理漫画はどのような内容になるでしょうか?みなさんも想像してみると面白いかもしれませんね。