漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

私の頭の中の傑作について

 何か作品を作る上で、「頭の中にあるうちは傑作」というような考えがあります。最初にこれを何で読んだか聞いたかは思い出せないんですが、子供の頃に既に聞いたことがあった気がするので、きっと昔からある考え方ではないかと思います。そして、それはもしかすると、最初思いついたときには「傑作ができるぞ!」と思って作ったものが、実際に作ってみたらそうでもなかったというようなことを感じる人が昔から多かったからではないでしょうか?実際、僕自身が何かを作ってみたときにも、最初に思いついたときはこれは絶対面白いぞ!と思って作り始めるものの、途中で、何が面白いんだか分からなくなってしまったり、出来上がったものを見て、僕は本当にこれを作りたかったんだろうか?と思ったりすることもあります。

 

 そういう実感があることはいいんですけど、僕が気になるのは、果たして頭の中にあった頃のそれは本当に傑作であったかどうかです。

 

 僕はそれはやっぱり傑作だったんじゃないかなあと思っています。つまり、頭の中にあったそれは確かに傑作なんですけど、それに誰にでも分かるような具体的な形を与えるということには、とても高度な技術が必要なことで、普通はその変換を上手くやることができないんじゃないでしょうか?

 

 ちなみに、なぜ僕が頭の中にある傑作を本当に傑作であると考えるに至ったかというと、それは「なんとなく」という理由です。

 

 今、2月のコミティアに出るぞと思って、そのために漫画でも描くかと思っているんですけど、描きたいことはあるものの、それを上手く形にするにはどうすればいいのかなと思って、具体的な作業がまだ全然進んでいません。完成させたいなら、過去何回かと同じように、四の五の言わずに描き始めてしまえばいいということも分かっているんですけど、自分の頭の中にある傑作を、どうすればよりよい形にできるのかということはちゃんと考えてみてもいいんじゃないかと思うんですよ。

 

 例えば、「おいしい」という感覚があったとして、それは自分の中だけでいいなら確実な正義じゃないですか。だっておいしいんですから。でも、おいしいという感覚を他人に正確に伝えるのは至難のわざです。僕はうどんが大好きなので、「うどんぐらい美味しい!」って言えば伝わるかもしれません。でも、それは僕がうどんが好きだからであって、もしうどんが好きじゃない人がいたとしたら、その人にはそれは伝わらないわけです。そのときに選ばれる例示は、その対象である人がおいしいと思う何かでなければなりません。自分だけが分かればいいわけではないものについては、適切な手段が選ばれる必要があるわけです。

 頭の中にある状態というのは、自分が自分のためだけにでいいということなんだと思うんですよ。あらゆる前提が最初から当たり前に共有されている状態で、ツーと言えばカーと伝わります。文脈がなく、いきなり結果があれば十分です。でも、それを他人にも見えるような具体的な形を与えようとするときに、解釈の主導権は作った自分ではなく、それを見る人側になってしまうでしょう?それが特定の誰かであればまだ分かりやすいかもしれませんが、不特定多数を対象にした場合、それぞれの人のためだけに丁寧にカスタマイズして作ることもできなくなってしまいます。

 ならば、その傑作をより多くの、知らない誰かに傑作として伝えるにはどうすればいいんでしょうね?

 

 もしかすると、誰もが認める傑作を作った人の頭の中にあったものと、同じぐらいの素晴らしい傑作が、その辺にいる人たちの頭の中にもあるのかもしれません。でも、ほとんどの人はそれを上手く外に出すことができないままに一生を終えてしまうのではないでしょうか?

 ただ、自分では上手く形にすることができなくても、それがあるのだとしたら、他の人が上手く形にしたものを見せられれば、それを使って傑作を感じることができると考えることができます。もしかすると、だからこそ人は、誰かが作った作品を見て感動してしまうのかしれません。そうだとすれば、何かの作品に対しての個々人の感動はひとりひとりの頭の中にある傑作の再現であって、厳密には実は人それぞれの別々の体験です。

 

 そう考えると、自分が何かの漫画を描く場合には、読んでくれる人の頭の中にある形のない傑作に期待するしかないのかもなあと思います。ただし、それを刺激するための適切なアプローチが必要なわけですが、技術が拙いので、取りうる選択肢が限られてしまいます。僕が作れるものは、僕に今できることのつぎはぎであって、本当は必要だと分かっている表現なんかも技術が拙いためにそこに再現できなかったりします。技術だけでなく根気なんかも足りないかもしれません。足りないものばかりですよ。だから十分に形にすることができません。ああ、頭の中にある傑作はこんなにも傑作なのに。

 

 僕が作るものは、きっと僕の頭の中にある傑作の不完全な再現です。もしかすると、僕が読んできた他の人が作った傑作についても、本当はその人たちの頭の中ではもっともっとさらにめちゃくちゃ傑作であったのかもしれません。そういうことを考えると、何かを作るということは結局ある種のコミュニケーションなのであって、伝える相手が不特定多数の知らない人であったり、特定の知っている人であったり、あるいは自分から自分へだったりと様々かもしれませんが、その頭の中にある傑作というか、言い換えれば霊感とかクオリアとか環世界(ウムヴェルト)とか、はたまたゴーストとか言ってもいいのかもしれませんけど、どこかとどこかにあるそれら同士を繋ぐための何らかのアプローチだったりするのかなと思ったりしました。

 そういえば僕自身が非常にコミュ障であったりすることを思いだしたりしました。そういうのがへたくそだ、へたっぴだ。

 

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サイヤ人が大猿になる理由について考えました

 ドラゴンボールに登場するサイヤ人は、一見地球人と同じような見た目ですが、なんと尻尾が生えています。そして、満月を見ると大猿の姿に変身してしまうというのです。なので、僕は尻尾が生えた人間が、満月を見て大猿の姿に変身したとしたら、この人はもしかしたらサイヤ人なのでは??と思ってしまうと思うのですが、幸か不幸かまだそのような人には出会ったことがないので、実際にそう思ったことはありません。というか、漫画の中の話を現実と混同するのは良くないですね。

 

 漫画は漫画なので、現実ではないですが、僕は昔から「なぜサイヤ人は満月を見たら大猿に変身するんだろう??」という疑問を抱えています。サイヤ人も生物なので、そこにはそうであるがゆえに生き延びてきたという合理的な理由があるはずだと思うからです。ただ、「合理的」とか言い出したら、人間が大猿に変身するということは質量保存の法則に反していると思うので、その時点で現実の物理法則にてらして考えるのは完全に破綻しているのですが、そこには目をつぶって別の部分で合理的な理由を考えてみたいと思います。なぜなら、今ちょっと時間が空いているからです。

 

 サイヤ人について分かっていることを羅列します。原作漫画準拠です。

  • 戦闘民族である
  • 戦うために若い期間が長い
  • 髪の色は黒で、伸びたりしない(髪型が変化しない)
  • 地球の10倍の重力の惑星ベジータで生まれた
  • 尻尾が生えている
  • 尻尾は握られると力が抜ける(鍛えることもできる)
  • 満月照射されるブルーツ波を目で見ると尻尾が反応して大猿への変身が始まる
  • ブルーツ波は1700万ゼノという強さを超えていなければ変身しない
  • ブルーツ波が1700万ゼノを超えるのはどの星でも満月のときだけ
  • 王族は1700万ゼノを超えるブルーツ波を照射する人工満月を作れる
  • 人工満月は、パワーボールを酸素と混ぜ合わせることで作られる
  • 大猿化すると理性が失われる
  • エリート戦士は大猿化しても理性が失われない
  • 死にかけた状態から復活すると強くなる
  • 自分でわざと死のうとしても強くはならない(ベジータ談)
  • 千年に一度スーパーサイヤ人が現れるという伝説を持っている
  • 穏やかな心を持ちながら激しい怒りを持つことでスーパーサイヤ人になれる
  • スーパーサイヤ人は目が青色、髪の毛が金色に変化して逆立ち、金色の気を纏う
  • スーパーサイヤ人の変身にはより強くなるための複数の段階がある

 

 今回はこの辺をこねくり回すことで適当な説明を付けたいと思います。

 

 注目したいのは、惑星ベジータの重力が地球の10倍にも関わらず、巨大な大猿に変化するという点でしょう。なぜならば、同じプロポーションのまま体長が2倍になると、その体積は2の3乗=8倍になるからです。つまり、体が大きいほどに重力の負担が大きくなるという事情があります。地球上でも体の大きな動物は、その巨躯を支えるために、骨の断面積が大きくなったり(象)、海の中で生活することになったり(鯨)します。この事実が示しているのは、惑星ベジータという環境が、常に大猿として生活するということには不利ということです。

 ちなみに、サイヤ人は元々は惑星サダラで生まれた種族で、惑星プラントに移り住み、ツフル星人から奪ったという事実が割と最近明らかになりましたが、そのあたりに何かしら謎が隠されているのかもしれません。

 

 さて、では、動物が巨大化するのはどんなときでしょうか?例えば地球上ではベルクマンの法則というものがあります。この法則が示しているのは、寒冷地になるほどに動物の体が大きくなるという傾向です。なぜこういうことが起こるかというと、巨大な身体の方が熱を生み出す体積に対して熱を放出する表面積を小さくすることができ、恒温動物が体温を保つ上で有利であるからという説明がされています。しかし、惑星ベジータは温暖な気候でした(原作漫画には特に描写はありませんがアニメにはある)。なので、そういう意味においても大きくなることが生存上有利ということもありません。

 

 また、主人公の孫悟空を見る限り、サイヤ人は大食漢であると思われます(ただし、サイヤ人が一般的に大食漢であるという描写は原作漫画内にはなかったように思いますが)。そして、より巨大な身体を保つにはそれだけ多くの食料を必要とします。地球上では、象や鯨のような大きな動物は、その身を維持するために一日中何かを食べています。地道な農耕を行っていたとは思えない戦闘民族であるサイヤ人が、もし、巨大な猿のまま食事を続けた場合、単位面積あたりに生存できるサイヤ人の数は極小であると考えられます。それはきっと生存上不利でしょう。

 

 このように、惑星ベジータに住むサイヤ人が、大猿の姿を維持するということはデメリットばかりであるように考えます。しかし、実際にはサイヤ人は月に一回大猿に変身できるという能力があります。サイヤ人が小さな体であることは正しく、大きくなる必要はないように思いますが、にもかかわらず、大猿になれるのです。では、その生存上のメリットとは何なのでしょう?

 

 月に一回というところから雑に考えると、それが発情期とリンクしているという可能性が考えられます。交尾のために巨大化するということです。でもわざわざ交尾のために巨大化するというのもおかしな話です。では、こういう仮説はどうでしょうか?「サイヤ人はもともとは大きな猿の姿をしていた」というものです。

 

 仮にこれを「サイヤ原人」とします。戦闘民族の祖となるサイヤ原人は生存競争の中で体をより巨大化し、より強い雄になろうとします。しかし、前述のように、惑星ベジータでは巨大な身体は生存上不利となります。そこで、発情期のみ巨大な身体を持ち、それ以外の時期は体を小さくして生きるという方向に進化したのが後のサイヤ人となる一群であるということです。最初はここまで極端ではなかったかもしれません。比較的体の小さな個体が、発情期に差し掛かって体を大きくし、より有利な条件で雌の奪い合いに参加します。惑星ベジータの過酷な環境の中で、その発情期と発情期の間をエネルギー消費の少ない最小限の体で越してきた一群だけが適者生存してきた可能性があります。

 

 では、そのきっかけが満月を目で見ることであるのは何故でしょうか?ここには「人間が洞窟に適応した」という説を当てはめてみましょう。洞窟適応は、人間が他の猿と比べて体毛が少ないことを説明する上で出てくる仮説で、紫外線から身を守るために発達した体毛は洞窟の中では必要なく退化するというものです。人間が他の猿と比較して体毛が少ない理由は、諸説あるので(サバンナ説や水辺説など)、この説を選んだのは、僕がこれから描くことに都合がいいからというだけですが、つまり、洞窟の中で進化したサイヤ人が、満月を見ることなしに大猿化できたとすると、洞窟の中で大きくなり過ぎて身動きがとれなくなり死んでしまうからという理屈をつけたいということです。となれば、空を見上げられる場所でのみ大猿化できるという意味で、「満月を見る」ということに合理性が生まれます。

 

 そして、尻尾がないと大猿になれない理由は、あの尻尾は尻尾に見えて内蔵の一部ではないか?と考えることにします。暗闇で過ごしてなお毛が生えているという時点で、また刺激に弱いという時点で、それが例えば生殖器のような大切な部分であるということが想像できます。つまり、尻尾の中にある臓器が、ブルーツ波という外界からの刺激に反応し、何らかの内分泌を促すことで、大猿化が始まるということです。

 

 だいたい説明ができたような気がしませんか?しないなら仕方がない。

 

 まとめると、かつて巨大な猿の姿をしていたサイヤ原人は、惑星ベジータという過酷な状況に適応し、より少ないエネルギーで生存するために、小柄な体躯を手に入れました。普段、洞窟の中で暮らした彼らの体毛は退化し、残ったのは変化しない頭の毛と、確認していませんが性器、そして、大切な臓器である尻尾を守るための体毛だけです。彼らは巨大化しても問題ない外にいるときだけ、返信する能力を手に入れました。それは、満月のブルーツ波による刺激に尾を反応させて巨大化するという方法です。彼らは大猿の姿で異性を獲得し、交尾することで生存してきました。そのように進化してきたのがサイヤ人なのではないでしょうか?

 

 ここで、エリート戦士は、理性を失わず、人工満月を作りだすことができます。しかし、もしかすると、これは因果関係が逆なのかもしれません。理性を失わず、人工満月を作りだすということは、群れの個体を調整する上で非常に有利な能力です。また、小型化を選ばなかったサイヤ原人たちとの戦いでも有利に働いたことでしょう。つまり、これらの能力を獲得したサイヤ人が、リーダーとしてその能力を利用することで生き延び、後のベジータに繋がる王族となったのかもしれません。

 

 なるほどー、サイヤ人にはこんな歴史があったんですね(ありませんね)。

 

 あとスーパーサイヤ人とは何か?という雑な理屈も考えたんですが、空き時間が埋まってしまったので、これはまた別の機会に。

お話が進むと怖さが減りがちなホラーのジレンマ関連

 ホラーの難しいところなんじゃないかと思うんですけど、物語が始まってすぐのあたりが一番怖く、お話が進むにつれてそれほど怖くなくなってしまうケースがあるんじゃないかと思います。

 

 例えば「双亡亭壊すべし」は、双亡亭という不思議な建物の中で巻き起こる、恐ろしい現象から話が始まります。それはそれはとても怖い描写で盛りだくさんなのです。

 しかし、お話が進むにつれて、その現象の背後にあるものが何なのか?それの正体と弱点が徐々に明らかになっていくことでその捉え方も変わっていきます。あれらの恐ろしい現象が実は何だったのかが判明していくこと、つまり、その不可解が可解に変わる過程はとても面白く、そしてその結果、今までどう戦えばいいか分からなかった者たちとの適切な戦い方も分かるようになっていきます。お話としては依然として面白いと思うんですよ。ただ、それによって、僕が感じる恐怖という点においてはだんだんと薄れているように感じました。

 恐怖というものが、未知や理解不能と強い関わりがあるのならば、もしかすると、それが既知や理解可能となってしまうと薄れてしまうものなのかもしれません。

 

 他の例で言えば、「進撃の巨人」でも、連載初期に巨人に対して存在した恐怖感は現在ではかなり薄れていると思います。それはきっと巨人側が理解可能な領域に足を踏み入れてしまったからでしょう。巨人たちがどういう事情で何を考えて襲ってきたのかを理解してしまえば、それまでそこにあった恐怖は薄れてしまうと思います。

 初期の巨人はとにかく不可解でした。例えば巨人は人を襲って食いますが、生きるために食べるわけではなく、全て吐き戻してしまったりします。生きていくために人を食う必要がある存在ならば、それはそれで怖いですがまだ理解できます。しかし、そうでないなら意味が不明です。意味が不明なものには対処のしようがなく、それゆえに恐ろしさは倍増してしまうでしょう。

 ここにも不可解からか可解への転換があるわけです。謎が明らかになることの面白さの代償に、それまでそこにあった恐怖は薄れてしまうのではないかと思います。

 

 このように、お話が進むことで恐怖の対象との向き合い方が分かりさえすれば恐怖は減退し、その適切な対処の仕方が分かればさらに恐怖は減退し、打ち勝てる方法が分かればきっともう恐怖はなくなります。

 

 また、恐怖の根源のひとつには、「抗いようがない」ということもあるのではないでしょうか?例えば、山の上からママチャリで降りるときは、バイクで降りるときよりも強い恐怖が生じます。なぜなら、ママチャリのブレーキの性能は低いので、下りの勢いによってはすぐにコントロールできない速度になってしまう可能性があるからです。バイクの場合は、ブレーキの性能が高く、エンジンブレーキもあるので、自転車ならば恐ろしいと感じる速度であっても平然としていられます。人は自分にコントロールできないものと向き合うときに、強い恐怖を感じてしまうのではないかと思います。

 

 この意味において、ゲームの「バイオハザード」はとてもいい塩梅だったと思っていて、ゾンビに溢れた洋館から始まり、理由も分からないまま襲い来るそれらから逃げ、生き延びなければならないという恐怖がまずあります。入手できる武器も、セーブできる回数も制限があるため、目の前にいるゾンビを全て倒して進むことができません。倒し尽くすことができない未知の敵と対峙すること、その恐怖があったと思います。

 この場合も、ゲームが進むにつれて、ゾンビ化が起こった原因が明らかになり、より強い武器も入手できるようになります。それにより、相対的にゾンビへの恐怖は段々と薄れていきます。一度通った場所ではゾンビの配置もある程度分かるようになるため、想定して避けることもできるようになります(それを逆手に取られてびっくりすることもありますが)。進めるほどに恐怖が薄れてしまうのです。しかし、そのようにゾンビの恐怖が薄れ始めたときに、より強い生物兵器たちが登場することで、今度は別の種類の恐怖が生まれます。

 それは例えばハンターと呼ばれる生物兵器のような、油断すると一撃でやられてしまうような強敵です。未知に対する恐怖が薄れた段階で、敵の強さに対する恐怖にシフトしていくのが面白く、ラスボスのタイラントはこんなやつを倒せるのか??と逃げ回りながら、戦うはめになり、最終的にはあれがあれして勝てるわけですが、リメイク版ではさらにそれも逆手にとったびっくり展開があって、びっくりしました(遊んでご確認ください)。

 バイオハザードシリーズはナンバリングが進むごとに、十分な弾薬や武器が手に入り敵を倒せるゲームにシフトしていったように思います。そしてそれゆえ、最初持っていた未知への恐怖は薄れていったようにも思います。しかしながら、7では原点回帰で未知への恐怖を描くゲームになったと聞いており、そのため、怖くてまだプレイできていません(怖がりなので)。でも、完全版みたいなのがそろそろ出るらしいので、そろそろ遊ぼうと思っています。

 

 このように、ホラーにおける未知への恐怖というものは、その解明がお話の中に組み込まれている場合、それを怖いまま維持することが難しいものではないでしょうか?

 ただし、その対策は既に色々あって、例えば「後遺症ラジオ」があります。後遺症ラジオは、過去にあったある出来事がきっかけで現在にまで連なって巻き起こる恐怖を短いページで描いていく物語ですが、物語の時系列がバラバラで描かれるということで、読者の理解をあえて妨げるような語られ方がされています。

 物語を頭からバラバラに読んでいくと、あるシーンが違う時系列の別のシーンと繋がっているいうことには気づくのですが、頭の中だけでは綺麗に並べ直すことができず、分かるようで分からないという状況が継続していきます。また、ある出来事と別の出来事の間に、まだ描かれていない別の出来事もあるかもしれないので、新しい話を読むことで、また時系列を組み直して認識しなければいけないかもしれません。

 ここでは、確かに未知だったものが既知として描かれているのにも関わらず、それが上手く理解できないということが恐怖を途切れされないために作用しているのではないかと僕は感じています。

 

 また他には、小説であり映画化もされた「リング」などもあります。同じビデオを見た人たちが死ぬという現象の原因が、貞子という女性にあることが分かり、その出自について、お話が進むにつれて解明されていきます。しかし、遂に理解したと思っても、そこで惨劇が終わらないという、理解したつもりが、実は理解していなかったという恐怖があり、未知の恐怖の二段構えになっていました。

 

 多くのホラーが、ヒットして続編が作られるたびに、その恐怖の種類が、未知への恐怖から、パニックやスプラッタの方面にシフトしていきがちではないかと思います。場合によっては、それをベースにしたギャグになってしまうことすらあります。シリーズものという時点で既知のものになってしまうからです。難しい話です。ただ、このようなジレンマについては、色んな人によって色んな対策が考えられているので、そういう作品に接すると、そういう方法があるのか!と驚き、そしてビビりながら見ている感じです。

 

 さて、こんな感じに書いてきましたが、そもそもこのようなジレンマに当てはまらないホラーもあります。例えば、ホラーは別に理由が解明されずに、恐ろしいシーンが出ただけで終わっても平気です。ミステリの物語でトリックが明らかにならなければ、読者は不満を抱くでしょうが、ホラーの場合はそうでもありません。その理由が分からなくても、とにかくゾッとするような描写があればお話が成立するという独特の文法があり、そこが面白いところではないかと思っています。

 また、逆に理解を深める恐怖が増大するような物語構造もありえます。一見何の変哲もない描写がされているのに、それが実は変哲があるものであることが最後の最後で分かるとき、それは逆に理解することで最大の恐怖が訪れることになります。

 ホラーには様々な物語の在り方があるので、上記は一概に言えることではありません。

 

 そして、「双亡亭壊すべし」も「進撃の巨人」も、恐怖が薄れてきたと書きましたが、ここから再びまだまだ怖くなる可能性だっていくらでもありますからね。

 

 そういえば、僕はめちゃくちゃ怖がりなので、夜のお墓とかを歩いているとめちゃくちゃ怖くなったりします。別に幽霊が存在することは全く信じていないんですが、それでも怖いんだからしょうがないって感じです。以前、女の友達が、夜道が怖いからと電話をかけてきたのを受けて話していたとき、「そうやね、幽霊とか怖いからね…」などと言ったら、「幽霊が怖いわけないでしょ!」って馬鹿にされたんですが、「え…僕は幽霊がめっちゃ怖いが…」と思ったことがありました。

 そんな感じに怖いわけですが、怖すぎると怖すぎるせいで漫画も読めないしゲームもできないので困ります。でも、それでもなんか怖いやつが好きだったりもして、怖いのを読んだり遊んだりしたいれど、怖いからしたくないというよく分からない感情の反復横跳びをよくしている感じですが、これもまた別のジレンマですね。

人間は30年先を考えて生きられるものなのか?

 以前、マンション投資の電話が頻繁にかかってきていた時期があり、電話を繋いだままで適当に話を聞いてみると、大体こういうことだそうです。

  • 僕が銀行から借金をしてワンルームマンションの部屋を買う
  • その部屋に入居する人の家賃をローン返済に割り当てる
  • 30年後にはローンが完済されるので、その部屋が実質無料で自分のものになる

 

 マンション投資の斡旋会社がやってくれるのは、その部屋に入居者が入ることを保証してくれることだそうです。入居者が入ることが確約されているのだから、30年後に無料でワンルームマンションが手に入ってお得でしょう?とのことです。場合によってはそうかもしれません。

 僕の場合は、築30年のマンションが30年後に手に入ることに全く魅力を感じないため、お話ありがとうございます、ではさようなら、と断りました。あと、入居者が常に入るということも信用できません。だって30年ですよ、30年。30年前から今に至るまでにあった出来事と同じような量とバリエーションのことが、ここから30年でも起きるんじゃないかと考えると気が遠くなってしまいます。色々あったのに、まだ色々あるのかよと。個人的にそんな先に、今想像したようなことがずっと続くとは全く思えないので、30年先のことを考えるのは時間の感覚として僕には無理だなあと思います。だって、創業10年を迎えられる企業だって1割以下じゃないですか。

 

 人によってはこの投資をありだと思うかもしれません。でも、僕の中ではなしでした。

 

 思うんですが、豊かさとは時間感覚のことなのかもしれません。人間はなんらか得をしたいと思う人が大半だと思いますが、その中でも、どれぐらいの期間の中でトータルで得をしたいと考えられるかという差があるんじゃないかと思います。30年で得をしたいのか、1年で得をしたいのか、3日なのか、5分なのか、時間が長いほど豊かで、時間が短いほど貧しいと言えるような気もします。

 つまり、30年先に得をすることを考えて、今多少損をしてもいいと考えられるのは豊かということなのではないかということです。そして、5分後に損をすることが分かるのに、今この瞬間だけ得になることをしてしまうのは貧しいというなのではないかということです。

 

 ここで注意しないといけないのは、「30年先を想定した行動をすること」自体が豊かというわけではなく、「30年先まで見通せると思い込めるぐらい今まで安定して生きてこれたこと」が豊かということです。

 現実問題として30年先のことなんて正確に見通せるわけがありませんし、仮に見通しが当たったとしてもきっとたまたまです。その過程で無数の不確定要素があったとしても、それを乗り越えらえれると思える豊かさは、とても豊かなことだと思います。

 

 豊かであれば短期の損を許容し、長期の得をとることができます。貧しければ、短期の損に耐えられないので、短期に得をするような選択肢しかなく、それはもしかすると長期では損かもしれません。

 

 例えば、貧しい人の考え方では、他人との取引は個別に割に合うものでないといけません。なぜなら、一回の取引失敗が致命的だからです。一方、豊かな人の考え方では、ある程度の失敗を見込んで複数回の取引を行える余裕がありますから、ある部分で損をしても、全体で得をしていればいいという選択肢が生まれます。

 これは例えば、他人に親切にしやすいかどうかということと関わるかもしれません。ある人に親切にしたときに相応の感謝や返礼がなければ、人付き合いをやめてしまうのが貧しさで、いずれ得になるだろうと考えて一回一回の親切には見返りを求めなくて済むのが豊かさです。

 

 これらの違いは人間性の問題というよりは、その人が持つリソースと、その人が今までやってきた環境の問題ではないかと思っています。現状、豊かに見える人も、その人の持つリソースを奪い、環境が変われば途端に貧しい考え方になってしまうのではないでしょうか?まず与えることができるという豊かさには、一定損したとしても平気であるというリソースの潤沢さと、そして、長期の取引をしていけば、相応のリターンがあったと思える今までの成功体験がきっと必要です。

 豊かさにかまけて与えすぎてしまったせいで、貧しくなってしまった人もいるでしょう。それは、そういう環境だったという不幸です。そして、まず与えることが当たり前ということを疑わずに生きてこれた人は、そういう人たちが互いに与え合うことで効率よくやってこれたという奇跡的な環境だったはずです。

 

 世の中は基本的にどんぶり勘定で上手くいっていれば、効率がよいわけです。それは喩えるなら、材料を持ち寄る鍋会のようなもので、みんなが同じぐらいの額だけ材料を持ち寄り、同じぐらいだけ場で働くなら、最後精算をする必要がありません。でも、材料を全く持って来なかったり、一切手伝わずに食べるだけだったりする人が出てきたりします。そうなれば、やる人とやらない人の間に不公平が生まれてしまい、それが誤差と無視できないぐらいになってしまうと対策が必要になります。つまり、材料費を割り勘にする手間や、仕事の割り振りやその監督などをする手間が生まれます。公平さのために細かく管理するというめんどくささが生まれ、全体の効率は落ちてしまいます。

 豊かな人がいれば効率のよい鍋会を維持し続けられ、貧しい人だけになれば効率の悪い鍋会になります。そして、世の中はだいたい最終的に効率の悪い貧しい鍋会になりがちだと思います。だって、何かに参加する人々の間で公平さを確保するために、とても沢山の手間をかけているじゃあないですか。

 

 興が乗ったので適当に書き進めていたら話が逸れてしまったのですが、そもそも言いたかったのは、僕は30年先を見通して、今のこのままずっと同じかそれ以上ででやっていけると思い込めるほどの豊かさを持ち合わせていないということです。

 現実問題としては、1年先ぐらいまでしか考えずに生きています。なので、今の状態が続くなら、この先自分の家を買うにしても、30年ローンみたいなものはきっと組まないでしょう。可能な限り一括に近い形で買うと思います。また、その場所に一生住むということを前提にせずに買うでしょうね。

 僕は一年先には今手元にあるものが全部失われて、今とは全然別のことをしてても生きていけるようにしたいと思っていて、その考え方が自分に合っていると思っているのでそうしています。

 

 この考え方には意図的に辿り着いたんですけど、それは、ずっと先のことを考えて行動しても結局思った通りにするのは難しいと感じたことに端を発しています。

 例えば、5年先に最適な結果が出るような動きと、1年先に最適な結果が出るような動きはきっと異なるでしょう。そして、5年先を考えて判断した今の最適な動き方は、1年先の最適と比較して、きっと効率が悪いと思うんですよ。つまり、今我慢して、1年先にまだ損をしていても、5年先になればきっと得をしているはずだ!と思い込めるかという話です。なんせ、そんな先の結果は保証されていないわけです。結局、5年先の結果が思った通りの地点に着地しなければ、最終的に1年後も損をして、5年後にもさらに損をしているかもしれません。そうなると嫌だなあと思うんです。

 

 今まで生きてきた中で、僕が自分に関することをなんとか思った通りにコントロールできると感じたのが1年先ぐらいまでだという実感があったので、1年先に上手い具合になる程度の貧しさを、自分の最適なところだと定めることにしました。

 このように30年先を考えて、30年先に最適になるように生きられるほどの豊かさを僕は持ち合わせておらず、自分には1年先ぐらいまでの貧しさが最適だと思っているんですけど、おそらく子供がいる人なんかはそうは言ってられない人が多いんだろうなと思います。子供が自分の元から巣立っていくまでのおそらく20年以上、計画的に、育てるために必要なものを確保し続けなければならないからです。

 ちなみに僕も何年か前まではそういう状態で、沢山いる弟妹たちが独り立ちできるようになるまで、学費や生活費を保証してやらなければならないと思っていました。仮に、大黒柱である父が急に亡くなったとしても、彼ら彼女らたちがお金の心配をすることなく世に出られるようになってほしいという願いを持っていたんですよ。だから、僕はそのために安心できるだけのお金を稼がないといけなかったし、そのために、そこそこしんどい状況からも逃げずに、取り組んでしがみついてきたという経緯がありました。豊かでもないのに、豊かに生きようとして無理をしてきたのです。

 

 今の自分の状態はそこから解放された反動という感じで、何年も先まで、お金の心配をしなくていい状態を頑張って無理矢理作ることをしなくてよくなったら、日々生きることが異様に簡単で楽になってしまいました。それが異様に楽な気持ちなので、その状態でずっといたいと思ってしまうんですよ。

 

 前述のように今は1年先ぐらいまでのことを考えて生きているんですけど、本当はそれをもっとどんどん短くして、最終的に5分先ぐらいまでに短くできたら最高だろうなという気持ちがあります。

 ただ、普通は5分先に最適になるように行動したら、10分先には損をしたりするじゃないですか。電車賃として160円だけ持っているときに、10分先に電車が来るものの今のどが渇いているので、そのお金でジュースを買ってしまったら電車に乗れなくなってしまいます。でもじゃあ、のどが渇いたまま電車の来る10分を待たないといけないのか?という話ですよ。電車に乗ったあとものどは乾いたままじゃないですか。

 理想の生き方は、そのときに軽率にジュースを飲んでしまいつつ、10分後の電車も何故か乗れてしまうというようなことです。しかし、何もコントロールせぬままにそうなれるのは神の領域では?という気もします。でもいつかそうなりたい。そうなれば、たぶん毎日どころか、人生の全ての瞬間を楽しく生きられそうだと思うからです。

 

 30年先を見込んで行動できるような豊かさは持ち合わせられないなあという気持ちがあり、自分に合った貧しさの中で生きていければいいなという考えが今はあります。しかし、もしかすると1年先はもうないかもしれません。なぜなら、僕は1年先ぐらいまでのことしか考えていないからです。

カイジの石田さんに見る物言わぬ弱者関連

 「賭博黙示録カイジ」に登場したおっちゃん、石田さんのことをたまに思うけど、石田さんのことを思うと悲しくなる。それは作中で、石田さんの死に接したカイジが思ったことと同じだと思う。

 石田さんはなんでもないおっちゃんで、とにかく人に騙されやすい。帝愛の開催するギャンブルは、無重力空間のようなもので、そこで浮上するにはそれだけの反作用が必要だ。つまり、上に行くには誰かを蹴落とさなければならない。人が善く、騙されやすいのは、そういうギャンブルには向かないと思う。どこかで誰かに騙されて蹴り落とされ、どんどん下に落とされてしまう。下にあるのは強制労働で、さらにその下にあるのは死だ。

 石田さんは死ぬ。死因は人の善さだろう。人の善さが美徳であるのは、人の善さが良い結果を招く限られた場所だけの話で、そうでない場所では、それがむしろ自分の首を絞める。だから、人が善い人は、それが良い結果を招く良い場所から外にでるべきじゃないし、そうでないことになってしまった時点で、破滅的な未来しかなかったのだろう。あるいは、人の善さを捨て、悪になるという方法もあったが、人の善い人はなかなか悪になれないからこそ、人が善いのだ。

 人が善いというのは人を簡単に信じてしまうということだ。海上の船エスポワールで開催されたギャンブル「限定ジャンケン」で、石田さんは仲間を信じてイカサマに手を貸した。しかし、それで勝てた仲間は、自分のために動いてくれた石田さんを簡単に見捨てた。助ける理由がないからだ。

 人と人の信頼関係は、普通はすぐに確立できるものではない。短期的な信頼関係は、実質的に利害関係となりがちだ。助けるだけの利益があるならば助けるけれど、それがないなら見捨てた方がよい。その方が利益があるからだ。石田さんはそれを見誤った。自分をきっと助けてくれるだろうと簡単に信じてしまった。それが人の善さだろう。それが人が奈落に落ちるための、一押しだろう。

 

 カイジはそんな石田さんを身銭を切って助ける。それは人の善さだろうか?きっとそれもある。カイジはどうしようもなく人が善い。ここで言う「人が善い」ということは、悪になりきれないという意味だ。カイジはいつも悪になりきれない。それで、稼いだはずの金を何度も失う。自分を石田さんと同じように利害で見捨てた悪なる仲間に対するあてつけのように、カイジは大金をはたいて石田さんを助けた。自分を見捨てた理屈に、同じく身を任すことが許せなかったのではないだろうか?

 利害だけで動くならば、人の行動は御しやすいはずだ。なぜなら、利害で動く人はきっと、一番利益があり一番害がない選択をするだろうからだ。しかし、経済学でそう考えても、実体的には人間はそうは動かないこともよくある。なぜならば、人間の視界には金銭的利害以外の他にも見えているものがあるからだろう。その意味でカイジはあまりにも人間だ。人間だからこそ、カイジは石田さんを助ける。

 

 そんなことで命が助かった石田さんが、再びギャンブルの地に現れる。のちのちに分かることだが、それは借金を抱えた息子のためだった。金が必要だが、金を作る能力が石田さんにはない。いやあった。それがギャンブルだ。

 

 人間が他人に対して残酷になりやすくなるきっかけがあると思う。それはその他人が自分を傷つけてこようとするときだ。自己防衛のためならば、緊急避難のためならば、人殺しすら情状酌量で理解可能となる。カルネアデスの板だ。

 今度のギャンブルは、ビルの間に渡された鉄骨の上を渡るだけのレースで、そこで重要な勝つためのテクニックがある。それは、前を歩く人間を突き落すことだ。誰かがそれを始めると、一斉にそれが始まってしまう。なぜならば、それをしなければ、追い越し不可能な鉄骨の上では勝つことができないからだ。そして、自分もまた後ろから来る人に突き落されるかもしれないからだ。

 目の前を歩く人間は、既に別の誰かを突き落した人間だったりもする。誰だってやっていることだ。自分もやられるかもしれないことだ。なら、自分が目の前にいる人を突き落すことは果たしてそんなに悪いことだろうか?なぜならば、そうしなければ、自分もそうされてしまうかもしれないのだから。

 

 他人を傷つけるということは、実際結構なストレスがかかることだ。だからそれをするためには、そのために十分な言い訳が必要だ。賞金のために誰かが誰かを突き落す、悲惨な鉄骨渡りレースでは、その条件は満たされているのではないだろうか?そう、目の前にある人間を押してもいい。そこは、それが許された残酷で無慈悲な空間だ。

 そして、そんな空間でカイジは「押さない」と言う。ボロボロ泣きながら、自分はそれでも決して目の前の人間を押さないと言う。だから、他の皆も押すんじゃないと投げかける。それは金銭の利益を考えれば不合理な行動だ。だからこそ、その場において、カイジだけが人間だったと言っていいかもしれない。カイジが人間であることで、他の人たちの中に人間が帰ってきたりもする。

 

 石田さんはそんなカイジをますます信頼してしまう。人を信じやすいおっちゃんなんだから、自分を助けてくれた人をより強く信頼してしまうのは仕方がない。馬鹿なおっちゃんは、馬鹿なりに金を得ようと奮闘する。そして、そんなおっちゃんがやっとのことで手に入れた賞金の引換券はとんでもないところで交換されることが知らされた。その場所は、さきほどとは比べ物にならない高層に渡された鉄骨の先で、落ちれば確実な死である場所にある勇敢な者だけが歩ける道だ。

 いや、それは本当に勇敢だろうか?彼らは金が必要であるがゆえに、そこを歩かざるを得ない。金があったならば歩かなくてよかった危険な道を歩かざるを得ないことに勇敢という言葉はやはり不適当かもしれない。それはただの悲惨だ。

 

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 その鉄骨の上で起きた出来事、石田さんの死の際のことを思うと、いつも泣いてしまう。臆病で人の善い、なんでもないおっちゃんの死に際はまるで無だ。何もない。何もないのが何故かというと、何も言わなかったからだ。何も言えなかったのではなく、意志をもって言わなかったのだ。自分が道半ばにして力尽き、鉄骨から落ちて死んだという事実がカイジに動揺を与えないために。物音ひとつ立てず、少しも悲鳴を漏らさず、石田のおっちゃんはいなくなった。その直前にカイジに賞金の引換券を託し、義務を果たしたように、ただいなくなった。

 何にもできなかったおっちゃんがせめて、自分の信頼した男、カイジにだけは何も迷惑をかけたくないと思って、無言で消える。僕はそのときの石田さんの気持ちを思うと、泣いてしまうけれど、それは果たして美徳だろうか?

 

 これは物語の話だけれど、実際にも似たようなことはよくある。誰にも迷惑をかけたくないという人が、自分の欲求を口にすることすらできなくなるということだ。辛い状況にいるのに誰にも何も言わず、全て自分の中に飲み込んでしまったり、自分だけで解決しようとしてしまう人を目にするし、それで上手く行けばいいけれど、上手く行かないと悲惨なことになる。

 「助けを求めればいい」という言葉が出てくるのは、助けを求めることができなくて悲惨なことになってしまったあとのことが多いと思う。まだ頑張れる余地があるときには、簡単に助けを求めずに自分で頑張れ!とか言われてしまうんじゃないだろうか?少なくともそう追い込まれてしまう人の中では、そう言われるに違いないと思い込んでいることもしばしばだと思う。

 

 弱者には助けを求める権利があるだろう?と問われれば、その通りだと答えるかもしれない。でも、助けを求めないままに何も言わずに消えてしまった弱者を良い人だったと思ったりしないだろうか?といつもひっかかってしまう。

 「あなたには権利があるが、権利を行使しない状態を一番評価してあげよう」という態度は、それをきっと助長するだろう。それが誰かに迷惑がかかる行為だとしても、それで自分がどうにかなってしまうのであれば、きっと声をあげるべきだと思うんだよな。

 

 石田さんはダメだけどいいおっちゃんだ。でも、そんなダメなおっちゃんがせめて迷惑をかけないようにと無言で消えてしまったことはたぶんいい話ではない。それは、きっと悲しい話だ。石田さんは理屈が通らず無様に泣きわめいて、自分が生きたいと主張したってよかったはずだ。その方がきっといいと僕は思う。

 

 そして、ワンポーカー編の最後の和也はそうだった。あんなにもあまりにも傲岸不遜で自信満々だった和也ぼっちゃんが、ギャンブルの負けの結果の死の際で、あまりにも無様であまりにも格好悪く泣きわめき、助けを求め、理不尽に怒り狂う様子を見て、少しほっとした。そうだ、人間はこうでなければならない。無様に生きることを求めたっていいじゃないかと思った。

 あのとき、何もできぬまま気づかぬままに石田さんを失ったカイジは、今度は同じく落ちようとする和也を助けることができるわけでしょう?それはもしかすると、和也の命だけでなく、あのとき無力だった何もできなかったカイジの心をも救ったのかもしれないじゃないですか。

 なんかそういうことを思ったわけですよ。

「甘い水」におけるエントロピー増大に抗う力関連

 僕は、全ての人間は与えれた環境にその能力の範囲で順応して生きていると思っています。人間がその環境に対して能力が足りなかったり、能力があるのに環境がそれを許さなかったりする状況においては齟齬が発生し、その結果、悩み苦しんだりするものではないかと思っているのです。

 僕が思うに、自由意思というものは、もしあったとしてもとても小さいもので、多くの場合は環境に選ばされているのだと思います。医者の家の息子は、子供の頃から「将来は医者になる」と言うかもしれませんが、それはその子の選択というよりは、周囲の家業を継いで医者になって欲しいという期待に応えているだけであることも多いのではないでしょうか?

 一方、「せっかくだから俺はこの赤い扉を選ぶぜ」というような、他の何かの根拠があるようには全く思えない選択もあって、もしかすると、そういうのは自由意思なのかもしれません。

 

 「物語」という概念を定義するには色んな方法があるでしょうが。僕の持っている印象のひとつは、「環境」と「能力」と「自由意志」に齟齬が生じた状態から、徐々にそれが解消していく過程を描いたものというものです。不安定な状態が安定した状態に移行するということです。自然現象と同じです。エントロピーは増大します。

 

 悩みや苦しみは、「こうありたい」と思うことと、しかしながら、「そうはなれない」ということの差から生まれるものだと思いますが、そういった不安定な状態は、時間が経てばそれは大体解消されるものです。たとえ、それが最良の形ではなかったとしても。というか現実には最良の形ではないことの方が多いでしょう。多くの人は、自分の意志と能力と環境に折り合いをつけてそれなりに生きているのだと思います。齟齬に反発をし続けられるほどのエネルギーを持った人もときにはいるのかもしれませんが、諦めたり考え方を変えて受け入れたりする人の方が多いのではないでしょうか。

 

 思春期というのは、その意味で物語に満ちています。なぜならば、その時期には誰しも能力が変化し、環境も変わることが多いからです。それゆえに周囲との軋轢が生まれやすく不安定になります。そしてそれは多くの衝突を経つつ、自然の流れに沿って安定した状態に解消されていきます。

 

 さて、本題ですが、松本剛の「甘い水」はそんな思春期の物語だと思いました。この物語の中で少年は少女に出会います。少年には夢がありました。狭く閉塞的な田舎町を出て、遠い世界(タンザニアの自然保護)に行きたいというものです。しかし、少年にはその能力がありませんし、環境が許しません。なので、少年の心には不満がありました。一方、少女には諦めがありました。親に強要されて体を売らされていた少女は、そのどうしようもない環境と、そこから逃れる能力がないために、そこを飛び出るということを諦めてしまっていたのです。そんな少年と少女が出会うことで、新しい環境が生まれます。少女は自分の閉塞感を打破する手がかりを少年に求め、少年は叶うあてのない夢を少女に打ち明けます。

 

 少年と少女の関係性は完璧です。欠けたものを補い合うような関係だからです。しかしながら、そこには不安要素がひとつありました。それは、少年は少女の境遇を知らないということです。そして、それがバレてしまえば、その補い合うような関係性は破壊されてしまうであろうと予想されることです。少女の期待を全て受けとめるには少年は幼すぎ、そして少女はそれを察するがゆえに隠そうとします。砂で出来たお城は美しくとも、外からの波で容易に壊されてしまうのです。

 

 この物語では秘密が最悪の形でバレ、その砂のお城が崩壊してからが本番だと思います。少年の意志は混乱しますし、少年には大した能力もありません。そして、取り巻く環境はそれらでは手に負えないほどに強固に立ちふさがります。世の中は大体どうしようもありません。僕の経験では、大きな流れに抗っても疲弊が進み、力尽きたところで再び流されます。それはどうしようもありませんが、ならば抗うことに意味はないのかということです。流れに一石を投じたとしても、上流から下流へ流れるということは変わりません。でも、少しはその軌跡が変わるかもしれません。

 時間とともに収束するであろう物語を、少しでも自分の思ったとおりに変えようとすることは、仕方のないもので溢れている世の中であるからこそ、強く求めてしまうのかもしれません。

 

 少年と少女のボーイミーツガールのお話は一般的に綺麗な物語です。しかし、甘い水の物語の中では他人の幸福に配慮しない、無思慮な他人たちのせいで、その綺麗なものが傷つけられてしまいます。綺麗な場所に汚れたものを置くと、そこは汚れた場所に変わってしまいますが、汚れた場所に綺麗なものを置いても、そこは汚れた場所のままです。つまり、綺麗なものを綺麗なままにしておくためには、そこから汚いものを徹底的に排除する必要があります。

 それは言うなれば暴力であり、綺麗な物語というものは、それを邪魔する汚いものを排除する暴力をもってしてしか成立しないのではないでしょうか?綺麗なものを守るためには、そこに暴力的に抗うしかなく、戦わなければなりません。

 

 松本剛の漫画を読んでいてとても良いと思うのは、その過程のそれぞれの登場人物の感情の解像度です。微細な心の動きが、言葉と絵でさりげなく、しかしくっきりと綴られます。甘い水の主人公である少年と少女の繊細な心の動きが、ままならない環境の中で、思い通りに動かないもどかしさと、喜びと悲しみと、期待と不安と衝撃と絶望とが、ただただ描かれ、読者の僕はそれを咀嚼することになります。

 なぜ人間は物語を読むのだろうかということは前々から考えているのですが、これだ!という答えにはまだ辿り着いていません。しかし、確かなのは読みたいから読んでいるということです。それが、嬉しく楽しい話だけでなく、悲しく辛い話であったとしてもです。物語を読むということは、とても個人的な行為だと思っています。作者にはその作品を通じて、何かしら伝えたいことがあるのかもしれませんが、あらゆるコミュニケーションがそうであるように、それが100%伝わることはとても難しいです。

 なので、読者はある種の勘違いをしながらその物語を読んでいて、それは、もはや作者の手を離れた個人的な体験です。漫画で言えば、あるコマとあるコマの間には差分がありますが、そのコマ間に込められたものは、描かれてはいないので自分で埋めるしかありません。最近の考えでは、その隙間を自分で埋める行為こそが、物語を読み進める原動力ではないかと思っていて、物語を読むという状況に合わせて必要なピースが自分の中に沢山の生まれてくるという状態に快楽を得ているのかもしれません。

 

 甘い水は、語り出しの時点から、その結末が別れであることが示唆された物語です。それは猥雑に安定してしまった大人になってから振り返られる青春のひとときです。様々な大人たちの事情によって汚されてしまうものの中から、ほんの僅かな時間だけでも、暴力的にでもそれらを排除して生まれた、つかの間の綺麗な場所の記憶であるように思います。

 気を抜けばすぐに猥雑になってしまう世の中において、少年と少女が作り出した、一瞬の綺麗な場所がそこにあり、そして、それが永遠に続くわけではないという儚さを思うわけです。誰しもがどうしようもなく埋もれてしまうような増大するエントロピーに、その一瞬抗う力が存在したということを感じるために、この物語を読んだような気がしました。

個々人が持つ情報量は絶対値をとれば大差ないんじゃないか関連

 人間の認知には限界があるんじゃないかと思います。

 目にするもの耳にするもの、その他色々な方法で体験するもの、ひとそれぞれあるでしょうけれど、時間は誰にでも平等ですし(重力に極端な変化がない限り)、様々な感覚器から得た情報を処理できる量も大差はないのではないでしょうか?つまり何が言いたいかというと、何かを詳しく知っている人は、それを知る代償として他の何かを知らない可能性が高いですし、あらゆることについて全て詳しい人なんて存在し得ないのではないかということです。

 人間は「自分が知っていることを他人が知らないこと」には敏感ですけど、「自分が知らないことを他人が知っていること」には鈍感というか、そもそも知らないんだからその人が詳しいことにも気づきにくいんじゃないかと思います。そう考えると、「自分は知っているのに相手は知らない」ということにばかり気づいてしまい、周りにいる人たちは自分より何も知らない人ばかりだ!!と思ったりしてしまう可能性が高い。

 あるいは、情報について自分の都合で重みづけをしてしまうこともあります。つまり、「自分が知っていることは重要だけれど、相手が知っていることは重要ではない」と考えるやり方です。ある人は、「漫画に詳しくても何も役に立たないので意味がない」と考えるかもしれませんし、またある人は「野球に詳しくても何も役に立たないじゃないか」と考えるかもしれません。学問的な情報であれば、重要と考える人が多いかもしれませんが、学校の勉強なんて社会では役に立たないと言ってのける人もいます。

 相手がよく知っていることについては大した価値のないこと、自分がよく知っていることについては非常に重要なことというような重みづけをすることで、総体としての情報量は実は同じぐらいだったとしても、物知りと物知りでないということに実際以上に大きな差を感じることができるようになります。

 

 このようにして、本当はそれぞれの人が持っている情報量の総体には大差がないのに、自分は普通の人よりも物知りだと思い込んでしまうということはよくあることなのではないでしょうか?その逆に、自分が知っていることなど大した価値がないと思い込み、他の人たちはなんて役に立つことばかり知っているのだろうか…と自信を無くしてしまうなんてタイプの人もいるでしょう。

 実際に、それらの情報が、仕事上の稼ぎに繋がりやすいかという指標ももちろんあります。お金に変換しやすい情報もあるでしょうし、まったくそれには向かない情報もあるでしょう。だとしても、それがお金として評価しづらいものであったとしても、あるいは、他人の注目を集めるような面白いものではなかったとしても、それでも、その人の持つその情報がユニークで、そこにしかないものであったりするということも事実だと思っています。

 

 さて、時間は平等と言いましたが、不平等な場合もあります。例えば、単純に年齢差がある場合です。早く生まれた人は、遅く生まれた人よりも人生が長いので、そのぶん多くの情報を持つことができます。

 小さな子供と接すれば、その子が知っているようなことは自分は全部知っていると感じることもできるかもしれません。ただ、子供が知っているようなことを自分が知らないことも多々あり、「大人なのにそんなことも知らんの?」と子供にバカにされたりもします(かわいい)。昔、妹にポケモンの名前を全然知らないことで馬鹿にされたことがあったので、くやしくて「ポケモン言えるかな?」の歌詞を覚えました。

 これはまさに前述の効果で、その子が知っているその子にとって重要なことを僕が知らないことで、僕が物を知らない人と判断されてしまったケースです。その子が知らないで、僕が知っていることについては、その場において考慮されることはありません。

 

 人間は自分に価値があると思いたいわけじゃないですか。というか自分に価値がないと思いながら生きるのは辛いってことですよ。だから、自分に価値があると思える理由を探すわけなんですけど、その理由の分かりやすいもののひとつが「自分は他人より優れている」ってことなんじゃないかと思います。優れている自分には価値があるぞ!って思いたいわけですけど、これを物知りかどうかの分野でするとして、僕が思うようにあらゆる人がもつ情報量には実は大差がないとすると、そう思うことは難しいということになってしまいます。

 だから、自分より時間的に不利な若者を見て、このような若者はあれも知らないこれも知らないと、自分が知っていて若者が知らない話をしようとしたりしてしまう人がいるんじゃないでしょうか?そして、相手が自分と歳が近かったり自分より年上の人である場合は、自分が得意な分野を意味があるものとして、自分が得意ではない分野を意味がないものとして、自分が有利になるように都合の良い重みづけをすることでそれを達成しようとしてしまうんじゃないでしょうか?

 

 それをすることが良いか悪いかは分かりませんけど、自分に自信を持つためにそうしてしまうのだとしたら、それはある程度仕方のないことなのかもしれません。

 僕も少なからずそういうことをして生きているんだと思うんですけど、仮にある分野で自分が他人より何かをよく知っていたとしても、その他人はきっと自分が知らない何かを知っていて、それはその人にとって重要な重みづけをする何かだったりするんだろうなというお互い様的な考えを持つことは意識しています。

 

 僕は漫画は結構読んでいる方なんじゃないかと思うので、すごく詳しいと思われたりすることもたまにあるんですけど、実際はちっともそうではないなあと思っていて、僕が読んでいなくて、他の人が読んでいる漫画の方がずっと多いと思います。でも、実際会話をしていると、僕が読んでいて他の人が読んでいない漫画の話になることが多かったりするんですよね。それはきっとそういうとき、話題の選択の主導権を僕が持っているだけってことだと思います。

 主導権があるならば、必然的に僕は僕が知っている漫画の話ばかりをしますし、それは僕が知っていることは確実なのに、相手が知っているとは限りませんから、結果的に僕が実態以上に沢山の漫画を網羅的に知っている人というような雰囲気になってしまったりします。そういう空気にしばらくいると勘違いして、僕はすごく詳しい人だぞ!!みたいな気分になってしまったりしてた時期もあるのですが(二十代前半ぐらいのとき)、年齢を重ねて冷静に自分を見るようになってくると、全然そんなことはないことが分かるわけですし、沢山知っていて詳しいから価値がある人であるぞよ~みたいな感じに自分を見るのは実態として間違っているし、そういうところに自分の大事なものを置くのは危う過ぎるなと思ってやめてしまいました。

 

 この関連、自分を省みるとほんとよくないと思っていて、自分はその分野で詳しい人であるぞよ~みたいな認識を維持しようとし続けると、場合によっては自分が知らないものを「読む価値がない」などと貶めることが最適解になったりします。自分が読んでいる漫画は価値がある漫画、自分が読んでいない漫画は価値がない漫画ということにすれば、自分は常に価値がある漫画に詳しい人でいることができます。こういうのはもちろん漫画に限った話ではないです。

 僕も既に若者ではなくおじさんなので、オタクの老い方みたいなのをたまに考えるようになってきたんですけど、なんでも貪欲に読む元気やそのための空き時間がなくなってきたにも関わらず、自分が一番詳しいんだ!と思おうとするのは、やっぱり辛いですよ。そう思い続けられるようにするなら都合よく認識を歪めていくしかないですし、歪めていけばいくほどに、他人にケチをつけるばかりの人になってしまいそうです。そうなると、相手がたまたまケチをつけられて喜ぶタイプの人でないならば、きっと会話を積極的にしてくれなくなってしまうでしょう?なぜなら自分の趣味にケチをつけてばっかりくる嫌な人だと思われるだろうからです。

 

 そのような考えによって、僕は自分がオタクとして良い感じに老いていくには、その分野にすごく詳しい人であるということに価値を見出すようなことはすべきではないなと思うようになっていて、自分が知っているのはすごく広い全体のごくごく一部であって、でも、そこがすごく好きなんだなあという気持ちを大切にしていくことだなあと思っています。

 そして同時に、他の人にもその領域があるわけじゃないですか。それが仮に自分の領域とは全く交わらなかったとしても。自分のその領域が素晴らしいと思うように、他の人のその領域も同様に素晴らしいものだと思うわけですよ。

 少なくとも今現在はそういう気分なので、そういうことを忘れずにいたいですね。

 

 ※この文章は、僕という人間が「すごく感じのよい人だな」と思われたいというような気持ちによって書かれました。できればそう読んでください。