漫画皇国

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人間が狂わないようにするためのやり方関連

 人間は狂うときがあると思っていて、ここで言う「狂う」という状態は、その人が狂っていないときには絶対しない判断を、狂っている状態ではしてしまったりするということです。それは例えば、精神的なあるいは肉体的な自傷行為であったり、他人に対する同様のものであったりです。そんなよくないことを、狂っているとしてしまったりするのです。よくないですね。よくないですよ。

 人間は誰しもそのように狂ってしまうことがあると思っていて、自分だって条件が揃えば狂うのだろうと思います。だから、人間はどうにかして狂わないようにしたほうがよい。僕はそういうふうに思っているんですよ。

 

 では、人間はどういうことになると狂うのかというと、その代表的なものが「解決できない問題の前から逃げ出せない状況」ではないかと思います。解決できないのに逃げ出せないと、その解決できないストレスフルな状態から決して抜け出すことができません。そういうときに、周囲の環境が決して変わらないならば自分を変えていくしかありません。状況によって無理矢理自分を変えざるをえない状態は、よくないものであることも多いです。そういうときに人は狂った状態になってしまったりします。

 

 そういう状態の人間を、僕は「哀れだ」と思ってしまいます。こう思うのはジョージ秋山の「アシュラ」の影響ですが、それは共感的な意味合いが強いものです。人は狂ってしまうと、狂っていないときにはしないようなことをしてしまうということが哀れです。そして、それによって周囲の人間との関係性に傷をつけてしまうことで、より深く狂ってしまったりするのです。それは誰しもに可能性があることだと思います。そこにハマってしまうことを、僕は哀れと思うのです。

 

 なので、人間がゴキゲンに生きていくためには、まず狂わないことが肝要です。狂わないためには、解決不可能な問題の前に居座らないことです。しかしながら、世の中には、仮にそれが解決不可能な問題であったとしても、向き合う姿勢を見せないと怒る人がいます。そういう人は、ある人を解決できない問題の前に縛りつけるので、人を狂わせてしまう人です。そういう人に対して従順な感じでいると、自分が狂ってしまう可能性が高まっていくので、よくないことだと思います。

 

 こういうことは仕事の現場などでよく目にします。例えば金がない、時間がない、人が足りない、スキルがないなどの理由により、容易には解決不可能となっている問題は多々あります。それに対して、「なぜできないんだ?やれ!」というだけの指示と、罰を提示することによる脅迫しかしない人がおり、そういう現場にいると、その場所にいる人たちが段々狂ってくることがあります。これは、上司や経営層の問題であることがありますし、お客さんの問題であることもあります。

 僕は「お客さんである自分には現場の事情なんて知ったことではない、どんな事情があろうともやれ!」という主張をする人にかなり嫌悪感がありますが、それはこういう理由です。そういう詰められ方をすると人が狂ってしまう可能性が高いからです。僕は人間はできるだけ狂わない方がよいと思っているのです。

 

 とはいえ、一見不可能そうな課題に取り組むこともお仕事では必要です。その前から逃げ出せないのであれば、重要なのは、解決できない問題を、解決可能な種類と大きさのものに分割してしまうことです。

 大きなお仕事はひとりではできませんから、チームで対応することになります。その際には、大きな仕事を小さな仕事に切り出すというお仕事が発生します。これがマネジメントのお仕事のひとつだと思います。上手くすると、解決不可能そうな問題を見事解決してしまい、それによってお金が貰えたりします。

 ただし、その切り出し方がマズいと、各メンバーに対して、その人では解決不可能な仕事を割り当ててしまう失策が生じる場合があります。そういうときにメンバーがだんだん狂った状態になってしまい、お仕事の進捗が悪くなったりします。

 

 メンバー側からの対応で言えば、この問題は自分だけでは解決できないと申告することが重要と思います。指示者の側からの対応で言えば、各人のお仕事の状況を見て、そういう状況になっていないかを把握し、適切に再配分することが重要と思います。これができないときに、そのお仕事全体が段々狂ってきてしまうと思っています。これは、僕が今まで参加したことがある狂った現場で得た経験則です。

 この条件を仮定すると、真面目な人、あるいは与えられた仕事が自分には出来ないと言いだせない気弱な人は狂ってしまう可能性が高いです。そして、管理者が各人がどういう状況かを把握しようとしない場合もそうなります。ただ、仮にそれぞれの人の特性を把握し、どのようにお仕事をしているかを把握できるたとしても、そこに適切な解決策が打てないとダメになります。人に合わせて仕事の種類を解決可能なものになるように分割してみたり、単純に分量が多い場合には分担してみたりをするというような対応をする必要があります。

 

 この考え方によれば、十分な人数がいない現場は狂う可能性が高いです。なぜなら、仮に自分にはできないと分かったお仕事でも、他にしてくれる人がそもそもいないからです。こういう状況はとても厳しい感じになります。そんな厳しい状況でも、人が狂うことを代償に、なんとか完了したりするのが、世の中の業の深いところだったりします。

 ここでややこしいのは、場合によっては、その厳しい状況の中で人間が適切に成長し、解決不可能と思われた問題を解決可能にしてしまうということもあり、これは割とよいことと思われることです。これは無視できないことだと思っていて、お仕事を割り当てるときは期待する伸び代を加味しないと効率が下がりますし、その見立てが間違っていると狂わせてしまったりするので、良い結果に繋がったり悪い結果に繋がったりが紙一重になることもしばしばです。

 人数が少ない現場で成長したと答える人も多いのはそういうことだと思っていて、人数が少なく、他を頼れず、解決不可能そうな問題に孤独に正面から向き合わないといけない場合、人は成長して乗り越えるか、狂ってしまうかの二択を迫られるのだと思います。成長するのはよいことかもしれません。ただ、僕の経験則では狂う人の方が多いような気がしますが。

 

 僕が人に指示したりをすることが増えてきて思うのは(対人恐怖症をテクニックで抑え込んでそれをやってるの、社会の中で生きる努力をしていて偉いと自分で自分を褒めています…)、人に対する適切な種類と分量の仕事を与えることの難しさと、それがその人に解決不可能そうだと気づいたときにどのように再配分するかの、方法とタイミングを判定することの難しさです。

 僕が関わっている現場は、あまり狂わないように頑張っていますが、なんにせよどこでもそうであるように、金がなければ時間もなく人もいません。今はどうやってそこの帳尻を合わせているかというと、僕があぶれたお仕事を一手に引き受けてやっているので、なんとかなっているという感じです。おかげで、僕自身が狂わないようにしなければならないというのが目下の課題です。

 

 思うに、お金は儲けなければなりません。金が儲からないと、人を十分雇えないからです。採算性の向上は年々目標が上がる世の中ですし、売り上げが伸びなければ、コストを削減するしかありません。コストを削減するということは、基本的に関わる人を減らすということです。人が減れば、お仕事の再分配の選択肢も狭まります。再分配ができなければ、メンバーの人にその能力を超えたお仕事を割り当てざるを得ない状況が生じますし、それによって人が狂ってしまう可能性が高まると思っています。

 人をなんとか狂わせないためにはお金を儲けなければなりません。なので、僕はそれをしようとし続けている感じです。

 

 ただ、世の中は、安いものの方を喜ぶでしょう?安いものの方を喜ぶだけならまだいいですけど、高いものを売ってる方をぼったくりとか言って冒涜的に侮辱する人だっていますよ。僕が目下のところ、乗り越えないといけないと思っているのは、そういうものです。胸を張って高い額で出しても、買ってもらえるものを提供し続けなければならないということです。

 それが、僕と、僕の周りにいる人が、狂わずにゴキゲンに日々生活できるための必要な条件だからです。

 

 というようなお気持ちの文章を、どうにも量の多い仕事が終わらず、突発的なトラブルもあり、それらをやってたら終電も逃したので、仕方なくそのまま働き続けていましたが、手元のお仕事が粗方終わったので、始発を待っている今書いているわけですが、色々大変な感じですがどうにか狂わずにやっていきましょう。

(結局始発では帰らず、他の人が仕事場に出て来たらすることも出来たので、昼前までお仕事をして、帰ってきて寝て、起きて、在宅でお仕事をして、今一段落したという状況です)

死んだイヌはイヌじゃない、イヌの形をした肉関連

 「死んだイヌはイヌじゃない、イヌの形をした肉だ」というのは、「寄生獣」の主人公である泉新一くんの言葉です。

 謎の寄生生物にその右腕を喰われてしまった新一くんは、その後、自分の右腕を模したその寄生生物、ミギーとの奇妙な同居生活を始めることになります。そんな同居生活を始めてからしばらくして、新一くんは、ある不幸な事件から命を落としかけます。ミギーによる命をかけた救護行為により、新一くんの命はどうにか繋ぎとめられるものの、その代償として、新一くんは寄生生物の細胞とより深い融合を果たしてしまうのでした。その出来事をきっかけとして新一くんは変わります。弱々しかったその姿は、寄生生物由来の運動能力の獲得も相まって、より強いものに変化していくのです。

 

 「死んだイヌはイヌじゃない、イヌの形をした肉だ」という台詞は、そんな新一くんの変化を象徴するような言葉です。交通事故で死につつある子犬の最期を看取る優しい姿を見せながらも、息絶えた直後のその子犬を、なんとゴミ箱に捨ててしまうのです。ガールフレンドの村野はそんな新一くんの様子を見て、とても驚いてしまいます。なぜなら、ついさっきまで、か細くとも生きていた命あった存在を、その命の炎が消えた瞬間に、もう物と同じように扱ってしまったからです。その切り替えの速さが理解できないからです。。

 人間的な感傷を持たず、合理的に行動するその姿はある種の強さと言えるかもしれません。しかし、それは多くの人間が持ち得ない、異様な強さです。そんな自分の行為を咎められた新一くんは、理由が分からずきょとんとしてしまいます。しかし、その後思い直し、犬の死体を木の根元に埋め直したのでした。

 

 この台詞は、とてもインパクトが強く、新一くんの異様な変化を表す重要なものです。しかしながら、新一くんはなぜそんなことを言ってしまったのでしょうか?寄生生物の細胞との融合や、長く続く寄生生物との同居生活、あるいは、寄生生物と神経レベルで繋がっているという影響もあるかもしれません。その結果、新一くんは人間でありながら、人間ではない別の存在になってしまったようにも思えます。

 ただ、僕はこの物語を読んでいて別の解釈もできるのでは?と思い至ったので、今回はその話を書きます。

 

 注目すべきは、新一くんがこの変化に至る前にどのような経験をしたかということでしょう。新一くんの母親は、不幸なことに旅先で、ある寄生生物に襲われ、殺されて頭を乗っ取られてしまいました。自宅に帰ってきたのは、母親と同じ顔をした寄生生物です。そして、その寄生生物に新一くんは殺されかけてしまいます。

 前述のように新一くんの命はからがらミギーに助けられました。生き延びた新一くんがすることは、残された父親を寄生生物の手(頭?)から守ること。そして、母を殺したその寄生生物への復讐です。ひょんなことから人間離れした運動能力を獲得してしまった新一くんは、母親の姿をした寄生生物と戦うことになります。

 寄生生物は、ゴムのように伸縮しながらも、鋼鉄のように硬くなることもできるような生物です。その肉体は、ちぎれても融合すればまた元通り、一見弱点は無いように思えます。そう、確かに寄生生物の細胞自体には分かりやすい弱点はないのです。あるのは、それ以外の部分、つまり、首から下の人間から奪った体の部分です。

 

 寄生生物は人間の内臓を利用して生きています。そこから得たエネルギーなしでは、単独で生存することができません。高度な知能を有する田村玲子という寄生生物は、自分たちを評してこう言いました。「我々はか弱い」。寄生生物は人間の肉体なしでは生きられません。つまり、寄生生物を倒すには、人間の肉体を破壊しさえすればいいのです。

 そして、新一くんの目の前にある憎い敵の弱点は、人間の肉体の部分であり、つまりは、彼の母親の肉体です。

 

 新一くんの母親は既に死んでいます。なぜなら、首を斬り落とされ、寄生生物に乗っ取られてしまったのですから。目の前にいる存在は、どんなに上手く母親の顔を擬態し、見た目が似ていたとしても別の存在です。それは戦う形態となった寄生生物のグロテスクな見た目によって、よりいっそう明らかになります。

 ただ、その肉体はどうでしょうか?それは母親の肉体なのです。頭はなくとも、体の細胞は生きています。それは頭を除けば、生きていた頃の母親と全く同じです。内臓は食べ物を消化し、心臓は動いて栄養を含んだ血液を体の隅々に送り届けます。その一部は寄生生物が消費しているかもしれません。でも、その手も、足も、頭を除く全身の全ての細胞はまだ生きているのです。

 

 新一くんの母親の腕にはやけどの跡があります。それは子供の頃の新一くんを助けようとしてできた傷跡です。母親は死んだかもしれません。じゃあ、その時、新一くんの目の前にあったそれは何なのでしょうか?その腕に刻まれた傷跡は、何を物語るのでしょうか?

 

 それは母親ではなく、母親の形をした肉なのでしょうか?

 

 結局、新一くんにはその肉体を破壊することができませんでした。内臓を破壊すれば勝てることが分かっているのに、そこを避けて、首と胴体を切り離すことにこだわります。そして、遂に止めを刺せるというタイミングで、目の前に掲げられた傷跡のくっきり刻まれた腕に、新一くんの目は留まってしまうのです。そして、その戦意を喪失してしまうのです。

 結局、新一くんに代わり止めを刺してくれたのは、宇田さんでした。宇田さんは、寄生生物にアゴに寄生されてしまった、新一くんと似た境遇の可哀想な男です。そんな宇田さんは言います。こいつは新一くんの母親ではないけれども、それでも、新一くんがやっちゃいけない気がすると。

 

 新一くんの変化が目に見えて現れるのはこの出来事の後のことです。死んだイヌを、イヌの形をした肉と言い放った新一くんは、果たして非人間的でしょうか?母親の形をした肉を、それがもう母親ではないと分かっているのに傷つけることができなかった新一くんの心が、果たして非人間的だったと言えるのでしょうか?それは実は、むしろあまりにも人間的な行為なのではないでしょうか?

 

 新一くんは母親の復讐のために、まだ血が通い生きている母親の肉体を、自分の手で殺さなければならないという状況に追い込まれました。それを乗り越えなければならなかったわけですよ。確かに、実際に止めを刺したのは宇田さんです。でも、新一くんは自分が殺したと思っていたのでしょう。なぜならば、思い悩む新一くんにある占い師が言った、その胸の穴を塞ぐためには、それをあけた相手にもう一度会わなければならないという言葉に対して、新一くんは「その相手ならもう殺したよ」と答えたのですから。

 そう考えれば、新一くんが殺したのは母親ではない方がよいのです。あれは母親の形をした肉でしかないのです。そう思うしかないでしょう。新一くんが手にかけたのが母親であっては辛いじゃないですか。あのとき、そう思い切れず、その肉を破壊できなかった自分を乗り越えなければ、前に進めないのではないでしょうか?

 そう考えるべきなのだとすれば、死んだイヌはなんでしょうか?それはもう、イヌの形をした肉でしかないのではないでしょうか?

 

 このように考えれば、新一くんのこの台詞は、母親の死というものを乗り越える過程における、心情の混乱と捉えることもできます。それは、胸の穴とも言えるかもしれません。強くなったように見えたのは、実は弱く傷ついた心を守る為のものであったのかもしれません。非人間的と思えたのは、むしろとても人間的な反応であったのかもしれません。

 もちろん、これはただの解釈のひとつです。正しい読み取り方ではないかもしれません。

 

 というような話を、数年前に僕が喋っていた録音データがあったのですが、最近聞き返してみて、僕自身そのときにこういうことを思ったことを完全に忘れていたので、僕が喋っているのに、僕が知らないことを喋っている!と思ってびっくりしてしまいました。

mgkkk.cocolog-nifty.com

 僕は喋るそばから思ったことを忘れていくので、録音データが残っていたり、こうやって文字にして残しておくと役に立つっぽいなと思った次第です。

「サンダーボルト」の感想と完結編が楽しみな話

 最近漫画を描いてコミティアに出たりもするようになったんですけど、そもそも僕がコミティアに毎回行くようになったのは、欲しい漫画がそこにあるという感じになったからです。なので、今回はその欲しい漫画について書きます。

 この人が新刊を描いたら絶対ゲットしたいと思っている人が色々いるのですが、その中のひとりがタオルまるめちゃおさんです。僕はタオルまるめちゃおさんの「サンダーボルト」というシリーズがすごく好きなので、その話をします。

 

 

 サンダーボルトは、自作の衣装を着て、自作の電撃の武器を手に仕込み、ヒーローになろうとする女の子のお話です。主人公のみっこちゃんは、子供の頃にダンボールで作った鎧を身にまとい、ごっこ遊びをしたイナズマ仮面を、高校生になった今リファインしてサンダーボルトとなり、現代の街にはびこる悪い奴らと戦います。

 

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 でも、このお話は、戦うべき悪とは何か?というお話なんじゃないかと思うんですよ。そして、そんな自分の正義とは何か?というお話なんだと思うんです。

 

 みっこちゃんの原点は小さい頃のヒーローごっこ遊びの最中に、友達が不良に襲われたことです。みっこちゃんは怖くて怖くて、戦えずに怯えて隠れてしまいます。それは決して悪いことではないと思うんです。小さな女の子が、年上の男たちとまともに喧嘩して勝てるはずがないんですから。

 でも、そこが原点なんです。大切な友達が暴力に晒されているときに、仮に負けることが分かっていたとしても、それを助けに行くことができずして、何が憧れた正義のヒーローだって話ですよ。その気持ちが、心の中に楔として残ってしまったみっこちゃんは密かに体を鍛え、武器を作り、衣装を作り、再び悪い奴の餌食になりそうになっている友達を救いに向かいます。

 かつて、立ち向かえなかった自分の乗り越え、今度は立ち向かう話です。それは簡単な道ではありません。殴られれば痛いし、殴るのだって痛いです。そんな思いをしてまで、なぜ戦うのか?っていうお話なんじゃないかと思います。

 

 世の中には暴力で解決できることはさほど多くありません。いや、厳密に言えば暴力で何かを解決しようと思えば色んなことができますが、暴力は基本的に振るった瞬間に悪と認定されてしまうものです。例えば、お金がなくて困っているから、暴力で他の人から奪ったとしたらどうでしょう?悪ですよね?つまり、そのような悪の汚名を着ることなく、暴力で物事を解決することはとても難しいということです。正義と認定される暴力には、逆説的に、ちょうどいい悪の存在が不可欠なのです。

 暴力が正しさを帯びることができるのは、別の暴力と相対するときだけでということです。悪いやつら、つまり自分たちの欲望を暴力的に満たそうとするやつらから、弱き者を守る、そんなシチュエーションでしか暴力行為を肯定することは難しいものです。正義であるためには、目の前にちょうどいい悪が、ちょうどよく弱者を蹂躙しようとしていることが都合がよいわけです。しかしながら、そんなシチュエーションがどれほどあるでしょうか?もしそれがなければ正義のヒーローになれないのだとしたら、果たして正義のヒーローとは何でしょうか?

 

 みっこちゃんのヒーロー活動は、そんな意味で多難です。彼女は戦う力を鍛えますが、世の中には戦う力では解決できないこともたくさんあるからです。特に最新の3話は、そんな話だと思っていて、目の前に確かな問題があることは分かっているのに、それを上手く解決するための方法が見つからないみっこちゃんの葛藤が描かれています。

 どうすればいいか分からない中で、行動し、空回り、それでも行動するみっこちゃんの姿は、最終的に優しく問題に寄り添い、完全な解決はできなくても緩和に導きます。ただし、それはサンダーボルトとしての活動ではありません。覆面をかぶらない、みっこちゃん本人としての活動です。

 ならば彼女にとってサンダーボルトとは何なのでしょう?彼女は何のためにサンダーボルトを続けようとするのでしょう?だからこそ、次の最終と予告されている4話において、彼女がいかなる結論に辿り着くのかをとても楽しみにしています。

 

 意地悪なのは、この「暴力を振るうことに対する葛藤」とは裏腹に、アクション描写はとても軽快かつ軽妙なんですよ。継ぎ目なくうねるように展開するバトルの様子が読んでいて本当に気持ちいいんですよね。

 そこにはある種の快楽もあるはずです。人体が動き、強い力を振るい、敵を倒す快楽です。でも、それが必ずしも正しくないという相反する状態の重みが、意地悪な感じで胸をざわつかせます。

 

 タオルまるめちゃおさんの漫画は、人物描写もまたすごくいいんですけど、3話ではメガネのテコンドー使いである黒沢さんがとてもよかったです。彼女の何を考えているのか分からない感じが、相対するみっこちゃんの素直さと対照的で、黒沢さんが何を思い、どうしてほしいのかが分からず、でも、言葉や行動の端々に、彼女が何かを投げかけていることだけは見て取ることができます。

 そのとっかかりに、よく分からないままでも手をかけようとするみっこちゃんと、その繰り返しによって変化が見える黒沢さんの態度がすごく良いわけなんですよ。ひとつ間違えれば、誰かを悪者として断罪できもしそうな人間関係において、人と人との心のぶつかり合いが、少しの変化をもたらし、そんな少しの変化が重なっていくことで、登場時に想像したものとはまるで異なる結末に心が転びます。その感じが、本当にすごく良かったんです。

 

 ということで黒沢さんの絵を描きました。

 

 本ですが、コミティアの会場に行けばゲットできるし、以下でもゲットできそうですが…今は購入不可になってるっぽいですね(2017/9/11現在)。

(2017/10/1追記)

 今は買えるっぽいですよ!!!

COMIC ZIN 通信販売/商品一覧ページ

ロールプレイングゲームとしてのドラクエ雑感

 ドラクエ11をクリアしました。すごくよかったです。感想を具体的に書くとネタバレの話になってしまいそうなので、今はまだその時ではないなと思っており(身近にもまだクリアしていない人がたくさんいる)、それはまた今度にします。今回はドラクエ11を遊びながら、ああ、ロールプレイングゲームをやっているなあと思った話を書きます。

 

 ロールプレイングゲームとは読んで字のごとく、役割を演じるゲームのことだと思います。この、「役割を演じる」ということがどういうことを意味するかというと、個人的な感覚では、ゲームの中に存在する役割が「現実の自分じゃない」ということが重要なんだと思うんですよね。自分ではない役割を演じる、そうであることがとてもいいんじゃないかと思っています。

 

 先日完結した「シャッフル学園」という漫画があります。この漫画はいわゆるデスゲームもので、閉鎖された空間に閉じ込められた少年少女たちが殺し合ってしまうという内容です。特徴的なのはタイトルにあるとおり、彼らの人格がシャッフルされてしまうということです。登場人物たちは人格と肉体が分けられシャッフルされることで、誰かの精神が別の誰かの肉体に入ってしまいます。そのような状況において、見た目だけでは中身が誰であるかを判別できない同士で、誰を信じればいいのかどうか?ということが試されたりします。

 このシャッフル学園で描かれていたことのひとつが、人間の精神の自由度はその肉体に強く束縛されてしまうということだと思います。例えば、ひらひらした可愛い格好をしたいと思っていても、ごつごつした男の肉体であれば、似合わないと感じてしまうかもしれません。ならば、他人の目や自分自身の目を気にすれば可愛い格好をしたいと思ってもできないわけです。それは自分の肉体がそうである以上、どうすることもできません。
 しかしながら、精神と肉体が分離してしまえば話は変わります。違う人の肉体に精神が入り込むことで、そのとき初めて解放される欲望なんかがあるのではないでしょうか?若くて可愛い女の子の肉体に入れば、好きなだけ可愛い格好をすることができます。それはもともとのごつい男の肉体であったとしたら、誰にも知られぬまま、死ぬまで抱え込んでしまっていたようなものかもしれません。

 その欲望を表に出せるか出せないかは肉体の在り方に左右されてしまいます。もちろん肉体だけではなく、社会的な立場や、金銭や技術などによる環境面の影響なども様々あるでしょう。人間の精神はそれらを乗り越えて、ただあるがままに自由でいられるほどまでには力強くはないわけです。

 

 さて、ロールプレイは、そのような不自由な精神が、普段は肉体や環境に抑え込まれている部分を解放することもでき得る遊びではないでしょうか?自分ではない誰かの中に入り込み、そこで与えられた役割を演じて完遂することで、初めて得られる感覚があるはずです。

 それはともすれば、普段の生活の中では決して生まれなかった感情であるかもしれません。例えば、ゲームの中では自分の力で世界を守ることができます。それは現実ではなかなかできないことでしょう?なぜならば、そんな立場も能力も、普通は持ち合わせていないからです。

 

 ドラクエロールプレイングゲームの中でも、あまり自由度が高くないゲームだと思います。これは「自由度」という概念をどのように解釈するかという話でもありますが、例えば、ドラクエでは決められた物語の筋を変えることができません(まあ、ドラクエ以外もそうであることが多いですが)。

 選択肢を与えられたように見える場面でも、「はい」か「いいえ」のどちらを選ぶことになるかは、ほとんどの場合ゲームの側に決められているのです。何度も「いいえ」を選択したところで、「はい」を押すまでは話が先に進まなかったりします。その場合、プレイヤーに自由があるとしたら、その時点でゲームを放棄してやめてしまうことぐらいしかありません。やめないならば、ゲームの作者が用意した選択肢を選ぶしかないのです。

 

 では、これは意味がないことでしょうか?少なくとも僕は意味がないと思いません。つまり、そのとき僕は「はい」と選ぶ役割を演じているわけですよ。現実の僕であれば「いいえ」と選ぶような判断をする場面であったとしても。

 

 自分の意志のままに様々な選択できるような高い自由度のロールプレイングゲームがあったとして、その高い自由度は逆説的に弱いロールプレイと言えるかもしれません。なぜならば、そこで行われるプレイヤーの判断は、ゲームの中であるのに、現実で行われるものと似通っていると思われるからです。

 一方、自由度の低いロールプレイングゲームでは、実質的に選択肢はなく、決まった道を歩むしかありません。目の前で起こる悲劇も、それを自分の力で変えるという選択は与えられません。変えられる場合は、予め変えられるという物語の道筋が敷かれているときだけです。つまり、プレイヤーはゲームに設定された誰かの人生を歩まざるを得ないというわけです。それはもしかすると、そうすることで初めて見えてくる自分の中の何かがあるのではないでしょうか?

 

 つまり、それはある種の不自由を強制されることで、現実に生きている中では決して動かない心の回路に通電される可能性があるのではないか?ということです。

 

 ドラクエのように、自分には物語の筋を変えることができないゲームプレイにもかかわらず、それでも選択を求められるということに僕は意味があると思っています。主人公が頑なに喋らないことにも意味があると思います。なぜならば、それはゲームの中の彼が、ゲームの中における僕の依り代であることを強く意味するからです。

 物語はゲームの中で起こっていて、僕がいるのは画面の前です。干渉する方法は手にもったコントローラだけです。画面を覗き込む僕の感情はゲームの中の人々に直接届くことがありません。僕の心が鎖国した江戸幕府だとするならば、画面の中の主人公は出島です。貿易をしたいじゃないですか!貿易をしたくてコントローラを動かすわけじゃないですか。

 ゲームの中で主人公という立場と特別な能力と人々からの期待を得たとき、現実の立場と能力と人々からの期待を得た場合とは、全く別の自分が生まれたりするんじゃないかと思います。彼は一生懸命強くなり、世界の各地で人々を助け、あるいは助けられない悲劇も経験し、遂には悪の親玉を倒して、世界に平和をもたらします。

 彼は勇敢なる者です。現実の僕は勇敢ではないにも関わらず、ゲームの助けを借りて、ゲームの中では勇敢なる者になるわけですよ。

 

 自分ではない者になることで、自分の中に実はあったのに、自分が自分である限り一生眠ったままであったかもしれない部分が開くことがあるんじゃないでしょうか?僕が感じているところでは、ドラクエはその部分をずっと大切にしているように思います。

 今回も最後のボスを倒し、世界に平和をもたらしたあとの気持ちは、普段の生活では味わえない種類のものだったように思いました(素晴らしいものだったんですよ)。

 

 ドラクエはパッと見た感じ、全く新しく画期的なゲームメカニズムが投入されたゲームというわけでは別にないと思います。しかしながら、遊んでいる間、このように自分の中に眠っている特別な部分を引き出して、すごく心地よい時間を過ごすことができるゲームだと思います。

 なので、僕は新作が出続ける限りやりたいなあという気持ちがあるのでした。

個人的な逃げなかった話と逃げ続けている話

 中学生の一時期いじめを受けていた。

 内容は悪口と暴力と性的な嫌がらせで、きっかけは、僕がクラスのある女の子と仲が良かったことだったそうだ。どうやら、その女の子のことを好きな別の男の子がいて、いつからか、その男の子と同じ部活の人たちからの僕に対するいじめが始まった。いじめが始まってからは、そこには関係なかった人たちからもなんとなく避けられるようになった。

 

 僕は小学校のときは上手くやっていた方だったと思う。いじめがない学校だったわけではないけれど(というか色々あったと思うけど)、僕はその対象になることはなかったので特に気にすることもなかった。僕はみんなと仲が良いつもりだったし、自分は誰とでも仲良くできる人間だと思っていた。ただ、中学生になって、事情でみんなとは違う学校に通うことになったことで、「誰とでも仲良くできる」というのは、その時その場でたまたまそうであっただけ、ということを理解する。

 新しく通うことになった中学校には、その地域の人間関係が既に存在していたので、僕はできあがった関係性の中に急に割り込む形となった。それまでのように当たり前のこととして周囲の人たちと仲良くしようとしたけれど、小学生のときのようには上手くいかなかった。当たり前のようにそうしようとしたことが一部の人たちとの間に軋轢を生んでしまい、排除しようという動きになったんじゃないかと思う。それは感情として分からない話でもないし、そうだったことを特に恨んでもいない。それは、どこにでもよくある話だから、気に留めるほどに大したことでもないと思う。

 

 いじめが始まってから僕がやったことは、単純でしょうもない話だけれど、ひたすら「良いやつ」で居続けることだった。学校生活のあらゆる側面で、他の人たちに当たり前のように親切に行動しまくった。日本は良い国だと思うので(外国がどうかはよく知らないけど)、自分に親切にしてくる人に酷いことをし続けられる人はそうはいない。いたとしても、ごく一部の変わった人だけだと思う。僕は良いやつでい続けることでどうにか学校の中に居場所を確保し、居場所が確保できればいじめもそのうちなくなった。

 

 なんだか個別具体の話を隠していい感じに終わった話として書いてしまったけど、そこに至るまで殴り合いとか、口喧嘩みたいなものも実際は色々あった。廊下でズボンとパンツを無理矢理下げられたりしたときは、別のクラスの女の子たちに見られて笑われたりして、結構ショックを受けたと思う。

 でも、僕はそれをなんでもないことのように強がって「5000円払え!払ったら許してやる!」みたいなことを言い返した。なぜ、これをよく覚えているかというと、前段のショックはもうどうでもいいけれど、その後、担任の教師に「お前がやったことは恐喝だぞ!」と僕だけ怒られたことに当時すごくムカついたからだ。これは思い出すと今でもムカついている。

 

 色々あったけれど、僕は毎日学校に通っていたし、学校に行かないという選択肢はなかったと思う。それが何故かは思い出せないけれど、ただそういうものだと思っていただけかもしれない。いじめを回避するために不登校になることを「逃げる」と表現するのだとしたら、僕は逃げなかった人だ。でも、当時「逃げるという選択肢もあるんだよ」とアドバイスされていたら、僕は逃げただろうか?

 

 人間に対する個人的な雑感だけれど、目の前に解決不可能な困難があったとして、その前で解決しろと言い続けられると壊れてしまうんじゃないかと思う。解決しないといけないのに、解決はできないからだ。矛盾を抱えたままで過ごすのはとてつもないストレスだし、そのうち解決できないようなことを解決できないという責任をとらされるような状況になってしまったりする。それはとても辛い。

 そういうとき、正面から向かってもしょうがないから、一旦後退して、何らかの違う条件のもとで解決可能な問題に作り変えたり、別の問題に向かうことで先に進んだりすると思う。これは見方によっては「逃げ」だけれど、このような解決できない問題に正面から挑むことをやめることを単純に「逃げ」と呼ぶのは違和感が拭えない。ただ、その道ではなく別の道を歩くことにするだけだ。結局はなんらかの手段で先に進んでいるのだから、逃げたのではなく、ただの方向転換だ(しかし、使い分けが面倒なので、以下は逃げると表現する)。

 

 僕が逃げずに済んだのは、僕が持っていた人間の強さなどではなく、ただ目の前の問題が、道を変えなくても解決できそうな程度の大きさだったというだけだろう。方向転換をすることの方がよほど面倒だという価値判断だったということだ。つまり運が良かった。

 人生のそこかしこで困難にはぶつかってきたけれど、だいたい方向転換をせずに、なんらかの方法で目の前にある壁を乗り越えたり、くぐったり、部分的に壊したりしながらやってこれた。それはとても幸運なことで、どこかで決して解決できないほど大きな困難にぶつかっていたら、そこで道が途切れていたかもしれない。

 

 僕は逃げなかったけれど、もしかすると逃げた方がよかったのかもしれない。逃げた方がいいのか、逃げない方がいいのか、それは時と場合による、としか僕の中に答えはない。ただ、逃げない方が色々な効率はよいと思う。踏み均された道の方が歩きやすいからだ。ただし、その踏み均された道の上で解決不可能な問題に遭遇しないで済むかどうかは運の問題だ。遭遇してしまったら、当たって砕けるか、道を変えるしかない。

 

 当時のいじめの中心人物であった男の子とは、のちのちその事実がなかったものであるかのように接するようになった。2年生の修学旅行では同じグループになったし、その頃の一時期は何故か気に入られているような雰囲気になって、晩ご飯を2人でテーブルを囲んで食べたりした。その子だって別に悪いだけの奴じゃないということが、話をしていれば分かってくる。あまり他人のプライバシーについては書かない方がいいと思うけれど、彼は父親があまり家に帰ってこない父子家庭で、妹のために晩ご飯を毎日作っているというような話を聞いた。彼には彼の良いところがあって、彼なりにしんどい状況の中で生きているんだなと思ったりした。

 いじめに加担していた別の男の子との場合は、当時「お前が学校のみんなに嫌われてるんだよ!」なんて言われたりもしていたけれど、いつからか学校から2人で帰ったりもするようになって、どういう流れだったかは忘れたけど、「将来、自分に子供ができたら、お前みたいに育ってほしい」なんてことも言われた。そのとき、僕も単純なので、彼も別に悪いやつじゃないなと思った。

 存在自体が全て悪のような人がいなくても、いじめのような悲しいことは起こるし、なんとなくの空気がそうさせるので、起こった事実の責任を誰もとらない。僕のいじめが終わったあとも別の人がいじめられているのも見たし、不登校になった子も同じ学年に2人ぐらいいたと思う。いじめの対象は生徒だけではなく、先生でもそうで、授業が崩壊していて、国語の先生が授業中に泣きだしたりしたこともあった。

 別に誰かに明確な悪気がなくてもそうなる。正しいことや楽しいことをやっているつもりでも、簡単に悲しいことは起こりうる。僕が受けたいじめも、彼らなりの正しさがあったから起こしたことだろう。それは、僕にとってはただ厄介なことでしかなかったけれど。

 

 中学生というのは、僕が初めて人間関係の困難さに接した時期で、自分なりの処世術を編み出した時期でもあると思う。自分に対してともすれば悪意を持っている人とも、なんとなく上手くやっていくような成功体験もあったし、それでも、どうしても仲良くなれない人もいた。

 ただ、この辺りから仲の良い人間関係を維持することがどんどんしんどく感じるようになっていき、ひとりで過ごす時間も増えた。もともとひとりで過ごすのは苦ではなかったけれど、より没入するようになったように思う。意識して他人と上手くやるには、その人のことを沢山考えなくてはいけない。そうしていると自分の中が色んな他人でいっぱいになってしまい、行き過ぎるとあらゆる価値判断から自分の意志が消えていってしまう。それはつまり、自分の行動を自分で決められなくなってしまうということだ。

 そんな中では僕自身がいじめの加害者にもなってしまうかもしれない。いや、明確に自覚していないだけで、きっと様々ないじめに僕自身が荷担していたこともあっただろう。それは正しかったことや、面白かったことや、他人に合わせるためにやっていたことのような形式で記憶されているけれど、視点を変えれば誰かにとってのいじめだったりするのだと思う。

 

 いや、ちょっと日和ったことを書いてしまった。自覚があるケースもある。僕は間違いなくいじめる側にも荷担していたことがあると思うし、前述の授業崩壊なんかも僕がそこに出席していた以上、関係はしている。なんで日和ったことを書いたかというと、いじめる側にいたとか書くとそこをどこかの誰かに責められるかな?とか思ったので、「自覚がなかった」とか言って自分に全く非がないように装い、適当にごまかそうとしていただけだ。よくないことだ。

 僕はいじめられたし、いじめを見過ごしたし、いじめたのだ。そこには自覚的でなければいけない。でなければ、非がないような顔をして、同じようなことに何度も荷担し続けてしまうと思う。

 

 さて、困難があっても、どうにか方向転換をせずに今までやってきたものの、僕が何かから逃げずにきたのか?と言えば、めちゃくちゃ逃げていることがある。僕はずっと密な人間関係から逃げている。

 中学生のときのいじめの経験は、自分のものごとの捉え方に少なからず影響を与えたと思っていて、僕は過剰に他人と上手くやろうと思ったりする。しかしながら、だからといって実際に上手くやれるとは限らなくて、それがどんどん自分自身を疲弊させてしまう。なので、ひとりになるとすごくホッとする。本を読んでいるときや、ゲームに没頭しているときもそうだ。自分の人生に他人が入り込む余地がないときがとても落ち着く。これをしたら目の前の他人にどう思われるだろうか?と沢山思ってしまうことがしんどいので、その状況から逃げて逃げて逃げまくっている。

 今まで生きてきた中で、この人にこう思われたらどうしようと、びくびくしないで済む人たちと出会うことには成功していて、その人たちのことを友達だと思っている。それはごく限られた人たちで、そんな僕の友達関係は数年に一人ぐらいのペースでしか広がっていない。ただ、インターネットを見ると、自分と同じような感性を持っている人が目に入ることも増えて、その人たちとも別に仲良くはできてないのだけれど、見ていると安心するような気持ちがある。

 

 人間関係においては逃げっぱなしでちっとも立ち向かっていないわけです。このまま老いていったとき、孤独な老人になるのでは?というようなアドバイスを貰うこともあり、そうなりそうな雰囲気もすごくしているけれど、じゃあだからといって、人との繋がりを求めて、どこかの輪に入っていこうとするかと言えば全然する気がないわけで、「逃げてばかりでいいんですか!?」と聞かれたら、ダメかもしれない…と思うけれど、やっぱり今のところは逃げっぱなしになっているのであった。

 逃げっぱなしの状態でいるときに考えてしまうのは、「本当に立ち向かわなくてもいいんですか?」ということで、そこでもし立ち向かって乗り越えられれば、今このように「立ち向かうべきではないのか??」というような迷いを時折考えなくても済むので、精神がすっきりする可能性がある。でも、もしかしたら正面からぶつかったことでぶっ壊れてしまうかもしれないじゃないですか。そこが曖昧なので、今のままが楽だということで、逃げたまま、楽なままで日々過ごしている。

 

 困難に遭遇したときに「逃げるべき」とか「立ち向かうべき」とかは一律には決まらないと思う。時と場合によるし、どうも逃げっぱなしでいると悪いことになりそうだと思っても、なかなか動けないものじゃないですか。一方、立ち向かってみても、場合によってはただただダメージだけを受けてぶっ倒れてしまったりもしますよ。そういうことをぐだぐだ言い訳つけながら、日々生きています。

 なんにせよ大切なのは、自分がどのような状態でいられれば調子よいかということだと思う。僕はこの先、寿命まで調子よく生きていきたいと思うので、そのために時と場合によって逃げたり立ち向かったりを使い分けていくつもりです。

 そんな感じで生きていきましょう、と思っています。

コミティア121参加報告

 以下、これの話です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 寝坊しつつ、ギリギリに会場に着いたら、頼んでいた本が到着していたので嬉しくなってしまいました。デジタルの画面でしか見ていなかった絵が、物体に変換されていたので、印刷所の人に感謝の気持ちしかありません。あの人たちひょっとして魔法使いなんじゃないだろうか。

 

 

 人!人が来てくれました!来てくれた人に、1冊あたり400円頂いて本をお渡ししました。400円って言ったら少年誌の漫画が買えるに近い額なので、大したもんじゃないですか。漫画をお金を出してまでちゃんと読んでもらえることというのは、そこに至るがとても大変な世の中だと思います(今回描いた漫画にも、そういうことをちょびっと描きました)。

 まず目に留まらなければいけないし、興味を持ってもらわないといけないし、開いてみてもらわないといけないし、そこでなんらか引っかかるところがないといけないし、そこから中身を最初から最後まで読んでもらわないといけないじゃないですか。期待が高ければ読む前に買ってもらえるし、期待が低くても読んでもらって良いと思ってもらえれば買ってもらえます。そして、そうでなければそうでなかったということになります。

 

 僕はちょっとお得なところがあって、インターネットで活動してきたことによって得た信用力みたいなものを変換することで、内容関係なく手に取ってもらえることもあるんですよ。でも、であるからこそ、面白いと思ってもらえるものを渡せればいいなと思います。ただ、そこを上手くできるほどの器用さが少なくとも今はないので、同人活動は続けるつもりなのでおいおい頑張ります。

 

 印刷を頼んだ数のだいたい半分が里子に出ていってくれました。既刊を含めると新しく印刷を頼んだのと同じぐらいの数が里子に出て行ってくれたので、プラマイゼロになり、家に在庫が増えなかったので、刷る数を間違えなかった気がしてよかったです(じゃないと活動を続けるたびに、家に本の在庫が増えていってしまうので)。

 

 フルタイムで働いていて、残業も月40~50時間ぐらいはしているんですけど、そこからたくさんの漫画を読んでゲームをしてるのに、なんで漫画とかを描く時間まであるんですか?みたいなことを後輩に聞かれたんですが、答えは単純で、みんながしているようなことを僕が全然していないからです。それが何かというと「人付き合い」です。

 僕は人付き合いが嫌いか?というと、そういうことはなく普通に好きなんですが、人付き合いは楽しいので、頻繁に人と会っていると、それだけで時間が過ぎていってしまうじゃないですか。何年か前にちょっと病気したことがあって、その時にちょっと無理した生活をしているなと自分でも思ったので、人付き合いをごっそり減らして、自分が好きに過ごせる時間を作ったので、今はそういう状態になっています。人付き合いを減らすと言っても、誘われたらほぼ行くので、自分から誘って他の人を会うのをめったにしなくなっただけです。そうすると会う人が8割減るということが一般的に知られています。

 

 そういう感じなので、コミティアという人が沢山いるところに出てきてみると、人だー!!という気持ちになり、気持ちが大きく内面を広がり過ぎるので、まぎらわすためにスマホをいじったり3DSドラクエをしたりと外なのに引きこもっていました。

 そうしていると、たまに人が来てくれ、会話をし、お金と本の交換をしました。知っている人も来てくれますし、知らない人も来てくれます。前に参加したときに本を買ってくれた人がまた来てくれたり、ネットに告知したのを見てくれた人とか、このブログを読んでくれたとか、長年やってる漫画の話をするポッドキャストを聞いてくれている人とか、なんとも色んな人が来てくれました。

 僕は思いますが、普通は来てくれないので、来てもらえることは異常だし、嬉しく思いました。

 

 僕は、ネットで自分がやっていることを他の人がどう受け取っているかの反応をほぼ確認しないんですけど、それは興味がないとかそういうことではなくて、自分の他人に影響されやすい性質を知っているからなんですよ。自分がやりたいことよりも、求められたことをやってしまいがちになり、そのように生きてきてしまっているんですが、そうしていると、自分がそもそもやりたいことってなんだっけ?ということを頻繁に見失うので、とにかく自分自身だけを見て、そのときそのときでやりたいことだけに集中するために、他を見ないようにしている感じです。

 ただ、たまに他人の反応を確認すると、嬉しい気持ちになりました。ご丁寧な手書きのお手紙をくれた人もいて、いや、ほんと良かったなあと温かい気持ちになり、そして、ハレの時間が終わったので、またあまり外を見ないケの生活に戻ります。ありがとうございます。

 

 次回の参加は、これまでどおり半年に1回ペースなら、2月のコミティア123を目指すことになると思います。そうなったらまた告知させてもらいますので、よろしくおねがいいたします。

「HOTEL R.I.P.」と幸福の条件

 「HOTEL R.I.P.」はエレガンスイブで連載され、現在はチャンピオンタップで連載されている漫画で、この前第1巻が出ました。

 この物語は、生前に何らかの思いを残して理不尽に死んでしまった人たちが、この世とあの世の狭間に存在するホテル、レストインピースで成仏するまでの時間を過ごす物語です。このホテルに滞在している間に、自分自身で気持ちを解消できる人たちもいますが、どうしてもそれができずに長期滞在を続けてしまうような人たちもいます。

 ホテルとしては長期滞在者の増加は困ってしまいます。その中から現世の心残りに囚われたまま地縛霊になってしまう人たちが出るかもしれないからです。そこで、ホテルの支配人は、ある戦略をとることにしました。それが相部屋です。生前には面識のない2人の死者を同じ部屋に滞在させ、そのコミュニケーションの中での現世で抱えていた気持ちを解消させようとするのです。

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 これまで何回か書いたと思いますが、僕は「人間は別の人間に相対するときに、そのための新しい自分を作りだすものだ」という考えを持っているんですけど、そういう意味で言えば、この漫画はその考えと通じるところあるように思えて腑に落ちる感じがしました。1人でいては到達できなかったであろう、2人だからこそ到達できる場所への道筋を描いていると思うのです。

 独りで閉じこもっている状態は、自分と自分の付き合いしかありません。となれば、自分を相手に似たような自分を再生産するだけになってしまいがちです。そのような自分と自分だけの付き合いには、良さも悪さもあると思っています。それらは表裏一体でどちらかだけを選ぶことができません。

 どういうことかというと、独りでいると良くも悪くもその人の個性が強調されてしまうように思うのです。喩えるなら、同じ顔写真に目が大きくなるフィルタをかけ続けているようなものです。1回なら可愛くなり、2回でもまだ大丈夫かもしれません。でも5回も10回もかけてしまうと、きっと化け物のような顔になってしまうでしょう。それが自分だけと付き合うことだと思っていて、そこには極端な個性が生まれる可能性はありますが、その代わりにどうしても他の人との間の適切なバランスが崩れてしまいます。

 バランスが崩れてしまえば、社会の中で暮らすには軋轢を生むでしょう。それゆえに孤立してしまったり、同じ考えから抜け出せず、停滞してしまったりします。とはいえ、逆にあらゆる人に影響を受け過ぎ、上手くやるための無数の自分を作りだしてしまっても、ただあらゆる方向に平均的な、無個性な人間になってしまうだけかもしれません。そして、そうあり続けることは大変な努力がいることで、疲弊してしまうかもしれません。

 幸か不幸か、人の寿命は世の中のあらゆる人間との密な付き合いができるほどまでには長くないので、誰と付き合って人生を歩むかという選択肢があります。そして、それが実際に誰であるかによってその様相は多様に変化するのではないでしょうか?

 

 この物語に登場する人たちは、ある種の孤独を抱えていることが多いと思います。自分の中だけにある材料で物事に対応しようとしていたことで閉塞感のある状態に陥ってしまい、それゆえに、死してなお、その袋小路からなかなか出ることができません。彼ら彼女らに必要であったことは、他者とのつながりと、それによって新たに生まれる可能性なのだと思います。そしてそこには、自分の新しい側面が生まれるというある種の苦しみも伴います。場合によってはそれがむしろ悪い結果に繋がることだってあるかもしれません。

 ただ、それを乗り越え、その先に新たな自分を獲得できれば、今まで抜け出せなかった場所から抜け出す力を得ることだってできるでしょう。

 

 本作では、立場の違う様々な人々の交流を通じて、今までその人たちが個々に感じていた悩みや苦しみやわだかまりが解消されていく過程を追うことができます。そして、もしかしたら、それを読む読者とこの漫画自体もまたホテルの同じ一室にいるということかもしれません。本を読むことだって他者との交流です。それは本から自分への一方通行かもしれませんが、それによって人は変わったりするでしょう。

 実際のところ僕はこれまで色んな漫画を通して(漫画だけではないですけど)、自分の感覚や考えが変わることを体験しています。あるいは、自分が感じていることと同じ感覚を漫画の中に発見して涙が出るほど救われた気持ちになったりすることもあります。それらは全て他者との出会いによって生まれた新しい自分ではないかと思うのです。

 

 この漫画は、死者の物語で、その死自体は覆ることがありません。抗うことができない死が人に訪れ、そこに悠然とそびえ立ち続けるにもかかわらず、これは希望の物語だと感じます。

 

 「からくりサーカス」に登場する機械仕掛けの自動人形アルレッキーノは、人は死ぬからこそ美しいと評します。なぜなら、終わりがあるからこそ、世代を越えて連綿と伝えられるものが生まれ、遂には個人では到達できなかったであろう高みに到達するからです。しかし、その言葉に、人間である加藤鳴海こう答えます。

「死ぬから人間はきれいなんじゃねえ!死ぬほどの目にあっても…まだ自分が生きてるってコトを思い出して…にっこり笑えるから、人間はきれいなのさ」

 どんな不幸な状況にあったとしても、その先に自分の死を知っていたとしても、自分のその生を肯定できるからこそ、そこに人間の素晴らしさがあると鳴海は言います。

 幸福感とは、自分が今そうあるということをどこまで肯定的に捉えられるかということではないでしょうか?金さえあれば、家庭さえいれば、世間から認められさえすれば、そのように今の自分に足りないものばかりに目を向けてしまう状況があるとしたら、それはきっとそれ自体が不幸なんだと思うんですよ。しかしながら、人は、そこを抜け出し、勝ち取るために、他者と交わりながら新しい自分を獲得して生きるのかもしれません。

 仮にそれらの「幸福になるために満たされると良さそうな条件」がまるで達成されなかったとしても、過程のどこかで肯定できる自分になることができさえすれば、そこがきっと幸福な場所です。たとえ、そのとき肉体が死んでいたとしてもきっとそうでしょう?

 

 現世に思い残しがある死者はたぶん不幸です。しかし、不幸であった彼ら彼女らが不幸ではなくなる物語であるならば、そこが幸福な結末なのではないでしょうか?そこでは、肉体が生きているか死んでいるかはきっと些末な問題でしかないのだと思います。

 だからこれはきっと幸福な物語なのです。

 

 さて、まだまだ連載中でネットで読めるので、リンクを貼りますね。

tap.akitashoten.co.jp