漫画皇国

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漫画の中の恋愛に読者が第三者的な妥当性を求めてしまう関連

 漫画の主人公って、モテがちじゃないですか。色んな異性と付き合ったり結婚したりする可能性が提示されるわけです。ただ、可能性は沢山あれど、物語の結末はその中で1人だけが選ばれるものになりがちです。ここで気になるのは、では誰が選ばれるのか?という問題と、選ばれなかった人はどうなるのか?という問題です。

 

 これはゲームで言えばドラゴンクエスト5における、ビアンカとフローラのどちらと結婚するか問題と通じるところがあります。

 以下は、以前に話をしていて揉めた記憶です(ご参考まで)。

 

 

 このようなゲームやら漫画やら内の恋愛模様について、読者としては第三者目線での妥当性を求めてしまうことがあるんじゃないかと思います。つまり、「選ばれるのがその人でなければならない」という妥当性です。妥当性の根拠とされがちな代表的なものとしては、「最初に出会った相手である」というようなものがあります。

 例えば、「子供の頃に結婚の約束をした相手と遂に結ばれる」というような結論が「しっくりくる」というような理由で選ばれがちではありませんか?全30巻の漫画があったとして、29巻目で初めて登場したヒロインと主人公が幸せになり、それまで登場した数々のヒロインがないがしろにされる展開があった場合、読者は納得するでしょうか?

 人間と人間の間のことは、客観的に見てしっくりくるかどうかとはあまり関係ないと思うんですけど、こと物語においては、読者の視点から見てしっくりくる相手になってほしいというような気持ちになることがあると思います。

 頼まれてもいないのに作中の登場人物たちの保護者視点になってしまいます。まるで自分の息子や娘が、このような人間と結婚するのはまかりならんと意見するような気持ちを持ってしまったりはしないでしょうか?

 

 これだけならまだいいですが、より面倒くさい問題もあります。それは、最終的に選ばれなかった女の子たちや男の子たちのケアも必要ということです。なぜならば、その人たちが選ばれなかったことによって不幸になってしまえば、主人公は悪いことをした人になってしまうからです。選ばれなかった以上、なんらか傷つけてはしまうでしょうが、主人公が悪くなり過ぎないような形にならなければなりません。

 ここで非常に面倒くさいのは、選ばれなかった人々とはいえ、読者の中にはファンもおり、これもまたポッと出のキャラクターとくっついたりすると文句を言ってしまう人が出てくるということです。

 では、結局どうなるかというと、主人公の男の子と、最終的に付き合う女の子がいた場合、それらにそれぞれフラれた形の男の子と女の子同士が、あまりものをくっつけるというような形で付き合ったりすることもあるのです(「みゆき」とかで示唆されたやつですね)。

 これ、物語ではいいですけど、なんか理屈としては嫌じゃないですか?実際に自分が誰かにフラれたときに、別方向で同じ立場の異性がいたとして、余り者同士をくっつけたらしっくりくるよ?って言われたら最悪だなあと思ったりします。

 

 学生時代とかあるじゃないですか。そういうわけではなく仲良くしている異性との関係を、周囲が勝手に気をまわして付き合うようにもっていこうもっていこうとするやつ。あれ、やられるとそれまで仲良かった人とぎくしゃくしてしまったりしますし、ホント嫌だなっていう気持ちになるんですよね。

 

 とにかく、作中の誰と誰が付き合うか?といった場合、「誰だったらしっくりくるのか?」というような概念があり、それに見合わないとおそらくなんらか批判が生まれます。

 「あずみ」なんかでは、結局あずみというスーパーヒロインに対して妥当な男が見つからなかったのか、あずみのことを好きになった男たちが次々に死んで行きます。その後、続編の「AZUMI」では、坂本竜馬とその時代のあずみが惹かれあうという展開があり、「なるほど!あずみに匹敵できるのは、同じく小山ゆう作品の主人公であった竜馬か!」と膝を打ったものですが、竜馬も結局死ぬので(史実なので)、結局あずみに対する適切な伴侶という概念は定まらぬままです。

 

 男が主人公ならば、次々に浮名を流しても読者に許容されがちな気もしますが、女が主人公の場合はなかなか難しいことです。その主人公が完璧であれば完璧であるほどに、どんな男も妥当と判断されないかもしれません。

 ここに食い込むのは「ハッピーマニア」のシゲタだと思うのですが、シゲタは理想の恋人を探して、様々な男と付き合います。その傍らにはずっとタカハシというシゲタのことをずっと想っている男がいます。シゲタはなぜタカハシではダメなのだろう?と僕が高校生ぐらいのときには思っていました。それはきっとタカハシならしっくりくると当時は思っていたからです。

 しかしながら、シゲタはハッピーの探求者として、タカハシを選ぼうとせずに、他の男の方にばかり走り、そして失敗し続けます。で、最終的にはタカハシに行きつくわけじゃないですか。妥当なところですよ。でも、それに対する疑問を抱えたままお話は終わるわけじゃないですか。そして、この前描かれた「後ハッピーマニア」はそんなタカハシの浮気(というよりは本気)によって離婚するかどうかという話になります。

 しっくりくるかどうかなんて客観的な話でしかなく、主観的にはいかにそれが一時運命のように思えたとしても、いずれ破綻したりもするわけです(もちろんしないこともあります)。

 

 「運命の相手」の存在の否定ということは、青年誌では割と描かれがちな主題です。「シガテラ」では、主人公は高校生時代には恋人とゆくゆくは結婚し、一生添い遂げるような想像をしていましたが、最終話ではお互いに別々の相手を見つけ、別々の幸せを獲得しようとしています。

 「この人でなければならない」ということは、一時そう思うことはあったとしても、本当に永遠にそうであるかどうかとはきっと関係ないのではないでしょうか?やっぱり、そうでない!と思ったら別れればいい話ですし、そう思ったときにそうできない方が不幸であったりもすると思います。

 ハッピーマニアで言えば貴子の立場です。自分の人生には「正解の選択」が存在するものであり、やっと見つけたその選択に必死でしがみつかなければならないという幸せの獲得方法は、その時点で不幸の入り口なのではないでしょうか?

 

 それは正しい相手を選ぶ正しい恋愛です。「ボンボン坂高校演劇部」では終盤に差し掛かり、主人公を好きと言っていた女の子たちが次々に新しい相手を見つけだし、正ヒロイン然とした先輩が残ります。それが悪いわけじゃ全然ないんですよ。でも、正しさのある恋愛だなということを思います。

 一方、「いちご100%」では、一番の正ヒロインオーラを出していた東城ではなく、西野が選ばれました。この選ぶ選ばないという概念も、選ばれるとされてしまう側からすればよくないものだなとは思うのですが、今はそれはいいとして、この選択は、物語の「しっくりくる」という圧力から主人公が抜け出して、自分の意志を表明したようなところがよかったように感じました。

 先日掲載されたスピンオフ続編の「いちご100% EAST SIDE STORY」では、その後の東城が描かれるわけですが、安易に別の男と付き合わせるということも難しいのか、選ばれなかった側の立場と気持ちの供養が大変というようなものを読み取ってしまいました。

 

 読者としてしっくりくるかどうかというのは、何らか持ってしまうものではないかと思います。「究極!変態仮面」で主人公の狂介が、最終回で愛子ではなく春夏と結婚していたことに、なにかしっくりこないものを感じたりしませんでしたか?(なお、文庫版ではこの経緯が加筆されています)

 ただ、そのとき、胸のうちにあるのは、主人公たちがそれで幸せかどうかではなく、あれだけ色んなエピソードをやっておいて、結局違うんかい!?という妥当性の話でしかないんじゃないかと思います。

 

 現実の恋愛とかにそういう妥当性みたいなものを適用しようとすると、ホント気が重くなるような気持ちになるじゃないですか。個人の気持ちはないがしろにされ、第三者視点からの正しさで結論を導かれてしまうのはおそろしい話です。

 

 この辺の面倒くささを凝縮したのがビアンカ・フローラ問題だと思っていて、ビアンカは十分妥当な理由を持っていて、さらにビアンカを選ばなかった場合、ビアンカはひとりで生きることが示唆されます(一方、フローラにはアンディがいる)。誰を選ぶか?にも選ばなければどうなるのか?にも、ビアンカを選ぶのが妥当そうな条件がそろっているわけです(リメイク版では子供の頃にフローラと出会うエピソードの追加や、3人目としてデボラが追加があり、若干緩和されている向きもありますが)。

 自らの意志で好きな相手を選ぶなら、ビアンカを選んでも、フローラを選んでも、デボラを選んでも、全て正解だと思うんですけど、唯一、妥当性や同情心を根拠にビアンカを選ばざるを得ないということは間違いなんじゃないですか?というのが、冒頭のツイートで30代男性が3人(当時は既婚1人、独身2人)集まって揉めていた内容です。選ぶということも、自分と結婚しなければ不幸になるというような認識も、実は傲慢な話かもしれません。

 ちなみに僕は息子と娘の髪の色が金になるのがよかったので(スーパーサイヤ人みたいでカッコいいので)、ビアンカ一択という選択でしたが。

 

 漫画を読んでいて、お話の中で誰と誰が付き合ったり別れたりをしていると、色々思うところがあるんですよ。それは自然に思ってしまうことがあるんですけど、それはあくまでなんとなく、第三者視点で適当に妥当性を勘案して思っていることなので、お話の進行はそれに従わなくていいよなあという気持ちがあります。

 「モンキーターン」で波多野が、幼馴染で、家が隣で、窓を開けばお互いの部屋が見えるような正ヒロイン然とした澄ではなく、競艇の学校で出会った青島の方を一時選んでしまったとき、結局、最後は澄のところに戻ってくるものの、青島を選んだところで、好きになってしまったことそれ自体は悪かったわけではなかったと思うんですよ。それがばれたときに澄の目がめちゃくちゃ怖かったですが、だとしてもですよ。ただ、嘘をつくのはよくないですが…。

 

 「からくりサーカス」では、白銀と白金の兄弟の両方がフランシーヌを好きになりますが、白銀と惹かれあうフランシーヌを見た白金は、暴力的にフランシーヌをさらってしまうわけじゃないですか。そのときの理由を覚えていますか?「フランシーヌは僕が最初に好きになったんじゃないか、それを横からとるなんて、ダメだよ、兄さん」ですよ。ここが妥当性ですよ。

 先に好きになったかどうかということは、当人同士の恋愛には何の関係もないことです。白金の心の中だけにあるストーリーのしっくりくる感じだけに寄り添った感覚です。そこで、白金は自分の中だけにある正しさを優先させ、他人の気持ちをないがしろに扱ってしまったわけじゃないですか。そして、これをきっかけとして、とてつもない不幸を世に生み出してしまったわけじゃないですか。

 

 そういうことを思い返しつつ、漫画を読みながら、ようし、僕にも色々思うところはあるが、君たちは好きに恋愛をしろ!!と思ったという話でした。

続・漫画における天狗の抜け穴の話

 以前、ドラゴンボールの作劇のテンポの良さの影には「天狗の抜け穴」的なところがあると思うという話を書きました。

 

mgkkk.hatenablog.com


 「天狗の抜け穴」というのは僕の中だけの概念で、キテレツ大百科に出てきた発明品の名称を拝借しています。この発明品の説明として「紙の上に書かれたA地点とB地点を繋ぐ最短の方法は、その間を直線で繋ぐことと思わせて、実は紙を折り曲げてくっつけてしまうことだ」という考え方が登場します。

 つまり、物語における天狗の抜け穴とは、このようにA地点(原因)とB地点(結果)を、間をすっとばして直接繋げてしまう概念のことです。これを導入することによって、過程を省略して結果だけ得ることができるという便利な技法です。

 

 最近、漫画を描こうとするようになって、物語をつくる上でこの天狗の抜け穴という概念についてまた考えるようになったので、その話を書きます。

 

 おさらいですが、例えば、ドラゴンボールにおける「瞬間移動」の導入は、物語をテンポよく進めるための大発明だと思います。なぜならば宇宙や、あの世などに広がった物語の舞台を、「時間をかけて移動する」という過程を省略して、いきなり目的地に到達できるようになったからです。

 僕自身、漫画を描いてみようとしたことで、このすごさがより実感できるようになりました。なぜならば場面転換の描写は意外と手間がかかり、面倒くさいのです。

 移動するのには時間もかかりますし、手段も必要です。そしてわざわざ移動するための理由も必要しょう。加えて結構気になるのが、なんでこの話を移動中にせずに、移動完了して場面が変わってからするんだろう?と思ったりしてしまうということです。これらを妥当性あるように描こうとすると、すぐに何ページも費やしてしまいがちです。しかし瞬間移動なら、ちょっといってちょっと話して帰ってくるなんてことも可能ですし、時間が経っていませんから、会話も途切れずに継続することができます。これはめちゃくちゃ便利で欲しいギミックだと思いました(世界観が合わないと導入は無理)。

 ドラゴンボールの連載は他の連載よりもページ数が少なかったと思うのですが、にもかかわらず1話1話が物足りないということはなかったという実感があります。それは、無駄な描写を可能な限り減らし、物語の進行上必要不可欠な「実」の部分だけを描こうとするような姿勢があったからではないでしょうか?

 

 漫画の中にはこのような天狗の抜け穴(本来必要なはずの過程を省略して結果だけを得ることができるギミック)が存在することが多いです。例えば、ジョジョの奇妙な冒険における「スタンド能力」もその一種だと思います。

 ジョジョシリーズは、絵作りにこだわっている漫画だと僕は思っていて、作中にはタイトル通りの奇妙なシーンが沢山でてきます。普通に生活している上では見ることがないような奇妙な光景を、物語の中で描写するにはそうなる理由が必要です。それをこの物語の中では「そういうスタンド能力である」とすることで解決することができるようになりました。これと同じことを科学的に整合性のある理屈をつけ、そうなるべき理由から筋道立てて考えるやり方で実現するのは骨でしょうし、表現の幅も狭まるはずです。

 これは、ドラえもんの「ひみつ道具」に置き換えてもいいですし、魁!男塾の「民明書房」でも、HUNTER×HUNTERの「念能力」でもいいと思います。物語の中にはよくこのような都合のよいギミックが登場します。それらはなぜそうであるかという説明を代替し、過程を省略して結果を描写してもよいという言い訳を与えてくれます。

 

 ちなみに、全編に渡ってこの天狗の抜け穴を存分に発揮している漫画の代表的例がキン肉マンではないかと思います。作中で移動させたければ地面にいきなり穴が空いて地球の裏側にだって行けます。これはばかばかしい描写と思われるかもしれませんが、今の時代、このような豪胆なことはなかなかできないことです。

 例えば、あなたが物語の展開上、人をひとり地球の裏側に送りたいならどうします?飛行機の描写とかしてしまうのではないでしょうか?空港を描いて乗り込んで、機内で長時間を過ごす描写を入れて、乗り継ぎなんかも描いた方がいいかもしれません。着いた先ではまた移動です。乗り合いバスでやっと到着した勝負のリングに辿り着くのは少なくとも十何時間も経った後です。疲れているし、テンションも下がっているかもしれません。じゃあどうしますか?いきなり穴を開けて一瞬で移動させるしかないじゃないですか。

 

 自分で描いてみようとすれば、起承転結の「承」ばかり続けて描いてしまうことに気づいてしまうんですよ。それにはすごく反省ばかりしています。「承」は主にお話の整合性をとるために働きます。ある描写と別の描写を繋ぐ中間です。その存在自体は重要ですが、「承」ってあまり面白くはないと思うんですよね。であるならば、全体のページ数を考えれば、少々強引に思えてもできるだけ「承」を省略して「転」の描写を厚くとった方がいいはずです。それをどうやって減らせばいいかということに僕にはまだノウハウがなく、この先、身に着けていきたいと思っているんですよ。

 

 ただし、天狗の抜け穴は漫画を描写する上で非常に重要なテクニックだと思いますが、万能ではありません。例えば、推理小説を描く上で守るべきルールと提唱された「ノックスの十戒」には「中国人を登場させてはならない」というものがあります。ここでいう中国人とは、天狗の抜け穴的な役割を担ったものでしょう。謎の中国人のしわざとして論理の隙間を埋められてしまうことは、読者が謎の真相を推理する上で不誠実と考えられるからです。

 筋道立てて理屈を考えることは読者に対して誠実ということかもしれません。しかし、それは場合によっては不必要に冗長でテンポが悪いと感じられてしまう可能性もあります。一長一短あるわけです。

 

 「必要な部分を十分に描写するためにも、不必要な部分をできるだけ省略すること」、それはおそらく短いページで物語を展開させる上でとても大切な技法でしょう。しかしながら同時に、あまりそればかりやり過ぎると筋を追うことに虚しさを感じてしまうかもしれません。安易に使うのもリスクがあります。

 

 さて、料理漫画の「めしにしましょう」でも、回を重ねたことで天狗の抜け穴が登場し始めました。例えば、部屋に何故か存在する「穴の開いた謎の物体」からいきなり食材が出てくるのです。短いページで1話完結かつ、料理の工程を描くことが重要な本作において、これは「材料を入手する」という工程の描写を省くことが出来る強い天狗の抜け穴です。料理漫画を見れば、材料を入手する工程というのは、一般的に重要視されていることも多いはずです。特に変わった食材であればなおのことです。

 めしにしましょうは、そこに思い切った省略を入れることで、集中すべきポイント(料理の詳細な工程)を明確化しているように思います。その割り切りが素晴らしいなと思うのです。

 

 そう考えてみると、実は他の種類の漫画でも大胆に省略できる部分はあるのではないでしょうか?本来必須要件と思われているような要素を大胆に省略することで、節約されたページを別の部分の描写に集中させることができます。

 「哭きの竜」では麻雀漫画に大切思われる闘牌を大胆に省略してみせることで、麻雀卓の上と外に乗った人間の人生を強く描くことができました。何を描くか?ということを考えるには、もしかすると何を描かないかを考える必要があるのかもしれません。

 

 デスゲームものと呼ばれる、多人数が殺し合いをするタイプの漫画も、「何故」を説明する最初の説明が省略され、いきなり殺し合わなければならない描写から始まったりします。

 何故戦わなければならないかという動機を最初に丁寧に積み上げていくことよりも、命をかけて殺し合うという描写がまず大事だという省略の技法でしょう。殺し合わなければならない理由の部分にあるのが天狗の抜け穴です。それは実は最終的に何も説明がなくてもいいのかもしれません。事実、デスゲームに巻き込まれた人々に対する「何故」が、物語の最後の最後にようやく説明されるとき、そこでは実はあまりお話として盛り上がらなかったりすることもしばしばです。

 

 この文章は、今描いているの漫画に対する反省の意味があって、8月のコミティアに出す用の漫画が一応最後まで描けたので、あとは細かな修正をしたり、仕上げをしたりという工程に差し掛かったのですが、今考えればこの描写はいらなかったんじゃないだろうか?これは何を描きたかったお話で、そのためには何を描かなければよかったのか、ページの配分を考えてもっとこの描写を厚くしておけばよかったのでは?という反省会モードが既に始まっています。

 とりあえず印刷〆切のギリギリまで(まだ1週間以上ある)試行錯誤をしてみようと思ったりしている次第です。

唯一無二の正解をかき集めることで逆に息苦しくなる関連

 世の中には沢山の人がいて、僕がするような経験を先にしている人がいたりする。そういう人たちから、色んな知見を教えて貰えることがある。それは例えば、自分のときはこうだったので、あなたもこうすればよいという内容で、僕はそれをありがたく聞くけれど、大抵の場合、そのままその通りにしたりはしない。なぜなら、それはあくまでその人たちの経験であって、僕が今いる状況とあらゆる条件が完全に一致しているわけではないからだ。条件が異なれば、回答も異なるはずだと思うのだ。

 だから、同じやり方をしたところで、僕も上手くいくとは限らない。話自体はありがたく聞かせてもらうけれど、結局、僕自身がどうするかは改めてイチから考える。そこで行きついた結果が、結局聞いたものと同じやり方になることもある。でも、それはきっと全然意味合いが違う。僕は「自分で考えて選ぶ」ということにこだわっていて、それこそが自分が生きる上でとても重要なことだと感じているのだ。

 

 僕はあまり器用な方ではなく、何かを習得するのに、普通の人よりも倍ぐらいの時間がかかることが多い。子供の頃から、みんなが終わってさっさと次に行っているときに、同じ場所に留まったまま試行錯誤を続けていたようなことが沢山あった。

 皆はとっくに帰っているのに、僕はひとり教室に残って、何かにずっと取り組んでいたりしていた。皆が先に帰ってしまうと、不安な気持ちにはなるし、小学生のときは、おしっこに行きたいようなそわそわした気分によくなった。ひどく落ち着かない気持ちで、早く僕も次に行かなくてはと思いながらも、でもまだ行けるとは思えないというような葛藤があった。

 中学生や高校生になれば、自分の不器用さにもある程度慣れてきたし、ある種の諦めもあった。僕は普通の人よりも同じことをするのに時間がかかるのだから、他の人より倍の時間がかかるなら、倍の時間がかかることを最初から見込んでおけばよいだけだと思うようにした。そんなだから、当然、他の人たちと歩調は合わないし、ひとりで黙々と、皆がとっくに終えたような何かに取り組んで過ごすことも増えた。

 でも、それでも、僕には自分で納得いくまでやって習得できたという実感の方が大事だったのだと思う。

 

 体育なんかでもそうで、例えばバスケットボールのフリースローなんかでは、投げ方に納得いくまで放課後にひとりでずっと練習していた覚えがある。僕は球技は全般あまり得意ではなかったけれど、高校のいつだったか、フリースローが何本入るかを先生がチェックするときに、その時は確か10本中7本入れた。先生からは本当にそんなに入ったのか?と失礼なことを聞かれた覚えがあるけど、それは本当だったし、そのとき上手く行ったのはきっと、他の人よりも何倍もの量を投げていたからだと思う。

 ただし、それはあくまで同じ場所から同じ角度でなら成功するというだけのことで、バスケに必要な他のことは当然全然練習が足りていない。だから、その練習をしたことは試合ではあまり役に立たなかった。でも、その時間は僕にとってはとても重要な時間だったと思う。ジャンプの高さや肘の角度、力の入れ具合、腕の軌道、それらを少しずつ変えて、上手く行ったときと上手く行かなかったときの差を考えて、延々と繰り返す。結局どういうやり方が最適かは上手く言葉にならないけれど、なんとなく「一致した」と思う感覚が得られるときがあって、そういうときに、成功率という数字で目に見えて良くなってくる。

 その瞬間がとても報われた気持ちになる。そういう体験が僕の人生の中ではとても重要だと感じている。

 

 そういえば、数学の試験なんかでも、物覚えが悪かったので、必要な公式をなかなかちゃんと覚えられず、あやふやなまま使うという不安を抱くことがあった。なので、僕がどうしていたかというと、テストが始まるととりあえず問題用紙の空きスペースで公式の証明をしてみて、記憶の中の公式が正しいらしいことを確認してから解いたりしていた。単純な暗記には実感が伴わなかったけれど、証明の方法という手続きには実感が伴っていて、自分の中でより信頼がある方法だったからだろうと思う。

 

 不器用ならば倍の時間をかければいい。倍の時間をかけさえすれば人並みになれるんだということが僕の信仰だ。それは今でもそうだ。

 

 このやり方が通用しにくいのは、他の人と同じ練習時間しか与えられないときや、数を繰り返すためにパートナーが必要だったりするときだ。例えば、運転免許の取得なんかでは苦労したと思う。なぜなら、教習所の規定の時間よりも多くの時間をかけないと上手くなれないと思うのに、追加でお金を払わないと回数を増やせなかったりするからだ(追加でお金のかからないコースもあったけど)。結局何回かは余分に講習の料金を払った覚えがある。あとは、他の人の車の運転にのるときに、どう動かすかを横でイメージトレーニングをしまくったりしてカバーをした。

 誰かに練習を付き合って貰わないといけないときは、地獄のような気持ちになった。僕が下手くそなせいで他人に迷惑が掛かってしまうことに辛さを覚えてしまうからだ。最初は気にしないと言ってくれていた人も、同じところで何度も間違える僕を見ると、みんなだんだんイライラしてくるのが分かる。一方でゲームなんかがよいと感じるのは、コンピュータさんは僕がどれだけ失敗しても一切イライラしないということだ。だから延々と回数をこなすことができる。

 ただ、以前バイオハザード5をネットのCO-OPで知らない人と一緒に遊んでいたとき、僕があまりに失敗ばかりするので、相手から「Wait!」と声をかけられ、僕を放置して勝手に攻略されたことがあった。僕があまりにどんくさくてイライラしたんだと思う。あと、タイミングよくボタンを押すQTEを失敗しまくったときは、先の「Wait!」の件もあって、ネットの向こうの人がイラついていないか気になって気になってしまい、プレッシャーで余計にミスをしてしまったような気もする。

 その日はそのまま手伝ってもらってクリアまでいった。最後に相手からは「お疲れ様でした」とメッセージがきたので、「ありがとうございました!」と返した。その言葉に偽りはない。でも、僕の心には、失敗をしてはいけないという緊張感からようやく解放されたという強い安堵も大きかった。

 あれは貴重な体験であったと思うと同時に、これからはネットで知らない人と一緒に遊ぶときには、ある程度上手くなっておこうという気持ちを新たにした。

 

 自分の無能を補うために使える十分な時間や環境がないと、なかなか生きることが難しい。僕のどんくささにイラついた人が、一足飛びに正解を教えてくれて、そうしろと言うこともある。でも、僕は頑固にそうしないし、申し訳ないけれどと思いつつも、僕にとっては、そういう自分でなんとか答えを見つける生き方を続けることが大切だ。

 

 そういえば、仕事を始めて最初の上司が、「君は最初は何も覚えているように見えず、非常に心配になったが、いつの間にか全部できるようになっていて不思議だった」というコメントをくれたことがある。僕はどんくさい人間なので、学習曲線が最初は全く動いていないように見えるのだと思う。そして何より、僕自身がそんな自分を認めて許してしまっているので、そこから無理に変えようとしていないし、それがなおさら拍車をかける。

 優秀な人たちの、すぐに目に見えて上昇する学習曲線を見慣れている人にほど、僕のどんくささは心配をかけてしまう。でも僕はそのうちできるようになるんですよ。ただ、倍の時間はかかります。

 

 さて、世の中には「正解」を教えてくれる人が沢山いる。冒頭にも書いたように、それを教えてくれること自体はありがたいけれど、僕は別にその通りにすることはない。それはその人の辿り着いた正解であって、僕の辿り着いた正解ではないからだ。僕が思うに、他人の言う正解を沢山集めても、場合によっては自分の正解を探す機会がなくなるだけで、あまりよくないんじゃないだろうか?

 そして、教えてもらったそのひとつしか正解がないと思い込んでしまうことはよりしんどい話だ。

 

 唯一無二の正解は、それ以外のやり方を全て不正解にしてしまう。ネットで検索でもすれば、色んなことについて沢山の「唯一無二の正解」である言説に行き当たることができる。けれど、それらをいくら集めても、自分のとりうる選択肢の大半に不正解のレッテルが貼って消すはめになるだけで、実はむしろ不自由になるんじゃないかと思う。

 例えば「○○のときは××するのが正しい大人としての態度だ」というような正解の言葉があったとき、いざ○○になったとき、××以外のことをすれば正しくない大人になってしまう。だから、××をせざるを得なくなる。そして、本当に××をすることは自分にとって正しいことなのだろうか?という疑問が頭をよぎる。

 

 ひとつの正解を生み出すために他の全てを不正解にするような言葉を、僕はあまり集めたくない。それはきっと息苦しいからだ。つまり、僕が欲しいのは別解であって、無数にある正解の中で、自分が知らない種類のものを教えて貰うならば助かる気持ちになる。もちろん、その別解を選ぶとも限らない。けれど、選んでもいい可能性を得られることについて助かるという気持ちになる。僕は今の選択肢を手放した方がいいと気づいたとき、新しくそちらを選んでもよくなるからだ。

 

 何かをする上で選択肢を狭めるように働く、唯一無二の正しい答えについては、僕はいくら教えて貰えても拒絶気味だ。その代わりに、今あなたが思っているやり方だけでなく、他にはこんな別の正しさのある答えもあるんだよと教えてくれるものは優先的に受け入れている。

 僕がこのように考えているということは、別に正しいやり方と思っているわけではない。ただ、僕に都合がいいやり方であるというだけでしかない。

 

 生きていく上で、「自由」と「実感」が何より大切と感じてしまう。なので、より自由な方向に、より実感のある方向に向かった行動をするように生きている。それは誰かが教えてくれた唯一無二の正解を信じて生きていくこととはおそらく真逆にある。

 「二兎追うものは一兎も得ず」という言葉もあるけれど、「一石二鳥」や「一挙両得」というような言葉もあるわけです。二兎を追ったために失敗することもあるからといって、二兎を追ってはいけないということもないでしょう。好きにしたらいいと思う。好きにできることが重要だ。

 

 ただ、こんなことを言っていられるのも、ある程度余裕があるときだけかもしれない。自分で納得いくまで答えを考えるためには十分な時間が必要だし、それよりも先に決断を求められることもある。あと、僕は実感のために大量の時間を使うので、同じ時間を生きてきた他の人よりも、何かをやってる範囲が非常に狭いかもしれない。なぜなら、時間は誰にも平等だからです。

 でもいいじゃないですか。皆がポテトハーべスターでガンガンじゃがいもを収穫しているような中で、家庭菜園で小ぢんまりと育てたジャガイモを、たまに蒸かして食べて一生を送るという正解もあると僕は思っているわけなんですよ。

屏風から虎を追い出すのが大変な話

 まずこれはシステム開発のお仕事の話なんですけど、関わると非常に大変な気持ちになったりします。

 

 ここで言うシステムとは、何らかの目的を果たすためにコンピュータで作られた仕組みのことです。コンピュータは決まったやり方を繰り返すことにおいては人間よりはるかに優秀なことが多く、また、蓄えこめる情報量もすごく多かったりするので、それまで人間が頑張ってやっていたようなことをコンピュータに置きかえて効率化を図ったりします。それがシステムです。

 

 人間は沢山のシステムを開発して、世の中を効率化しようとしています。人間の仕事を機械に置きかえることで、同じ仕組みを回す上で必要な人間の数を減らすことに成功したり、今までなら受けられなかった量の発注を受けれるようになったりするからです。

 物やサービスの値段と言うものは分解して行けば全て人件費です(例えば材料費なんかは、その材料を発掘して加工した人々に支払われる人件費と考えることができます)。なので、物やサービスを安く提供するための分かりやすい方法は、関わる人間の数を減らすことです。そこで安値を喜ぶお客様のため、人間を減らして機械に置きかえることで、様々な効率化を実現しようとしているのが歴史です。

 

 余談ですが、関わる人間の数を減らさず、人間をそれぞれ薄給にしたり、長時間労働させるという値下げの方法もあります。それにより、人間の耐久力が勝つか、機械の効率化が勝つかの戦いが繰り広げられているのが現代です。

 一見、機械に置き換えた方が効率がよいに決まっている、なんて思ってしまいますが、決まったやり方を繰り返すことしかできない機械と比べ、人間は少し変えたやり方に追従してくれやすいので(ここで労働者の勤勉性が役に立ってしまう!)、変化の激しい分野では、安くない費用をかけてシステムを開発することはリスクにも繋がります。ここに人間の付け入る隙があり、分野によっては人間を薄給でこき使った方が安いので、そうされ続けているというような現状があるのではないかと思います。

 

 さて、システム開発の大変さの大きなところを占めるのは、場合によってはあまり技術的なところではなく、どのようなものを作ればよいかとか、そのために今人間がどういうことをしていて、どういう置き換えをすればそれらを全部カバーできるかということを考えたり、データを持っている別のシステムとどのように連携するかをするかや、それをどのように継続運用できればよいか、ということを整理する部分にあったりします。

 前述のように、機械は決まったやり方を再現することは得意ですが、人間のように曖昧な指示では動けないので(人間だって曖昧な指示では動けないことが多い!!けど)、この辺を機械に分かりやすい整然とした形に翻訳する必要があります。そして、この辺でトラブると非常に大変な気持ちになります。

 

 例えば、後から変化するかもしれないところをガチガチに作り込んでしまって、変えなければならなくなったのに何も変えられなくなった場合、お金と時間のかかる大規模な改修をかけなければならなくなったりします。あるいは、せっかく作ったシステムを放棄せざるを得なかったり、間に入る人間が仲人として特殊なやり方を強いられたりすることになります。また、古くなったシステムをどうしても放棄できず、ダメだと分かっているやり方なのに、そのまま長い間辛い運用を続けないといけなくなったりもします。どれも大変辛い気持ちになります。

 何を作ればいいのか?それは、今のやり方を十分カバーできることなのか?そして、それは長期間の運用に耐えられるものなのか?ここに意思を持って最善の答えを用意することに、システム開発の重要な部分があるのではないかと思います。

 

 僕はこれを「屏風の虎」と呼んでいます。元ネタは、ご存じ一休さんの説話です。足利義満が「屏風に描かれた虎が夜な夜な抜け出して悪さをするので退治して欲しい」という、わけのわからない難題を一休さんに出すのですが、一休さんは「分かりました。ではまず屏風から虎を出してください」と、とんちで切り返します。

 「虎を屏風から出してくれれば捕まえてみせますよ」というのは、捕える技術の話ですが、世の中ではまず虎を屏風から出してみせることが難しいことも多いです。これを侮っていると、虎を出してもらえる前提で話を進めてしまい、いざ捕まえるぞと準備万端でやってきたのに、虎は屏風から出てはいないし、出し方も分からないこともあります。そして、もしかすると虎を屏風から出す方法なんてどこにもないのかもしれません。

 

 似たようなことを読み取れる伝説に、アルキメデスによるテコの原理の話があります。これは「足場さえあれば地球でも動かしてみせる」というテコの原理主義者のお話ですが、これも実際には足場がないので出来ない話です。前提条件を満たすことができない場所においては、立派な技術も宙ぶらりんとなり、その効果を実際に発揮することはできません。

 

 虎を屏風から追い出してしまいさえすれば簡単に思えることが、虎を屏風から正しく追い出せないことで頓挫することもしばしばです。システム開発を成功裏に収めるために必要な仕事の大半は、実は虎を屏風から追い出せた時点で終わっているのかもしれません。

 

 さて本題ですが、僕は今8月20日に開催予定のコミティアに向けてぼちぼち漫画を描いているのですが、屏風から虎を追い出す工程に四苦八苦しています。人間は追い出され済みの虎を見かけると、その捕まえ方についてああだこうだ言ってしまうものだと思っていて、僕も他人が描いた漫画であれば、自分だったらこうするとかをもっと気軽に考えつくことができます。

 でも、いざ自分で漫画を描こうとすると、パタリとそれができなくなってしまいます。おそらくそれはまだ屏風から虎が出ていないのだと思っていて、一方、何を描くべきかも定まっていない、つまり、虎が屏風に入ったままのうちは、それに対する改善提案や技術的な検討などもできません。このお話は何を描こうと思っていて、そのためにはどのような要素が必要で、それらをどのように演出して繋いでいくか?そして、読んだ人にどのような気持ちになってほしいか?など、物語を作る上では色々考えなければならないことが多く、ここでつまづくと、仮にどんな立派な表現上の知見を持っていたとしても、完成に辿り着くことができないのではないでしょうか?少なくとも僕はそこでつまづきまくっています。

 

 なので、今の方針としては、まず拙くてもいいので最後まで描き切ることが目標です。描き切ってしまえば、今度は読者として自分の作ったお話を読み返すことができるので、そこで初めてどう直せばいいかという技術的な検討ができるようになると思います。これは編集者が、漫画に対する知見をいくら持っていたとしても、自分では描くことがない理由だと思っていて、虎を屏風から出す仕事と、虎をどのように捕まえるべきかと考える仕事は、きっと全然種類が異なる仕事なのでしょう。

 評論家みたいなのもきっと同じで、この作品はここがダメで、こうすればもっと良くなるという知見を沢山持っていたとしても、いざ自分で作ることになった場合、今まではあくまで追い出された虎に対して言及していたのであって、虎を追い出す工程もやるはめになると上手くできないかもしれません。それゆえ、立派なことを言っていた評論家が、製作に最初から関わった作品が、別に上手くいかなかったりするケースが生まれるんじゃないかなあと思ったりします。

 

 そして僕は相変わらず特に漫画にして描きたいことがあるわけではないので、こういう屏風から虎を出すのは向いてないんだよなあと思いながらも(追い出された虎をどう捕えるのかにも自信がないけれど)、その向いてないことに取り組むのが今はなんか面白いので、やっていこうと思います。

 今の進捗は19ページ。32ページぐらいで終わるつもりですが、本当に終わるのかどうなのか…。

漫画雑誌のエロスとタナトス雑感

 漫画雑誌から強烈なエロス(性描写)を感じ始めると、その雑誌のタナトス(休刊への追い風)も感じることがあります。僕が好きで読んでいた漫画雑誌の中では、例えばヤングサンデーやアクションが顕著で、それまでの連載が次々に終わっていったあと、エロス風味の多い連載が次々に始まり、雑誌全体がエロスな雰囲気を醸し出し始めました。

 その後しばらくして、ヤングサンデーは休刊し、アクションも一時休刊の後に紙面を入れ替えて再創刊という形となりました。

 

 これらが起こった時期で言うと、ヤングサンデーはザワールドイズマインや度胸星、殺し屋1などの連載が終わった時期からしばらくです。ただし、エロスな連載だから面白くないということは別になく、アイドルが主人公のミステリ漫画「なんてっ探偵アイドル」や、各エピソードのどこかに女性の裸を無理矢理っぽく盛り込んできていた初期の「闇のイージス」などを僕はとても楽しみに読んでいました。ヤングサンデーの場合は、一時のエロス路線から再び軌道修正しつつも(というか思えば元々エロス感のある連載も多かったのですが)、結局は休刊し、それぞれの連載は増刊号での完結や、他誌への移籍での完結となりました。すごく好きな連載が沢山あった雑誌だったので、とても寂しい気持ちになりました。

 アクションの場合は、成年向け漫画雑誌で執筆していた作者を呼んできたという印象で(アクションピザッツとかの方面と雰囲気が近くなっていました)、継続連載していた軍鶏だけが異様に浮いている紙面となっていた記憶があります。とはいえ東京家族なども連載されていましたし、夕凪の街が読み切りで載ったのもこの時期だったと思います。

 

 エロスな連載が増えると、雑誌の先行きが厳しい感じの印象を感じ取ってしまいます。それは、エロスな連載が安易で面白くないとか倫理的に問題だとかいうことではなく、雑誌の売れ行きが悪いので、どうにかして新規読者を獲得するための施策としてエロス連載が増えているのではないかと解釈しているからです。エロス(生の衝動)を増やさなければ生き残れないぐらいにタナトス(死の衝動)が強いんだなと感じてしまうのです。

 

 性表現というものは、人間が繁殖して存在し続けるために必要なものですから、文化を超えるある種の普遍性を持ったテーマだと思います。それゆえに、人の心を良くも悪くも刺激したり、普段なら決して届かないような文化と文化の間の壁を貫通できたりします。

 新規参入の読者が増えず、雑誌の継続性が危ぶまれる場合、このように参入障壁を下げ、訴求力を高めるためのエロスな連載が増えることはよくあることです。そしてそれは、それまでの読者の信頼を失う諸刃の剣となることもあります。

 

 漫画雑誌もマイナーなものになるほど、固定客としての読者が大手より少ないため、エロスな連載が増えがちです(もちろん例外もあります)。例えばヤングアニマルヤングチャンピオンは、エロスあるいはバイオレンスを題材にした連載が多く、その増刊であるヤングアニマル嵐ヤングチャンピオン烈はよりいっそうエロスな漫画が多く載っています。ヤングアニマルにはさらに、グラビアアイドルの写真や動画がメインコンテンツであるプラチナ嵐なんて増刊も存在しています。

 最近ではグランドジャンプに載る漫画載る漫画、なんらかおっぱいが取り上げられているなあと思ったこともありますし、その増刊であるグランドジャンプPREMIUMにも近い傾向を感じています(話と関係ないですが、「ここは今から倫理です」が連載化されたので楽しみにしています!)。

 そういえば、今は亡きヤングマガジンアッパーズも、エロスを取り込んだ漫画雑誌でした。僕はこの雑誌がとても好きでしたが、例えばEオッパーズという企画では、普段そういう絵を描いていない漫画家さんにおっぱいの絵を描いてもらったり、士郎正宗のフルカラーエロス連載が載っていたりもしていました。でも、休刊してしまいましたね。休刊号では大市民に度々登場していた「池上タッチ(池上遼一のタッチをイメージして描かれた絵)」を池上遼一ご本人が描いて表紙となるというお祭り騒ぎ的な感じで、これでおしまいなのに、花火が上がった感じでとても印象深く思いました。本当にいい漫画が沢山連載されていたんですよ…。

 

 さて、電子書籍の読み放題ランキングなどを見てみても、男性向け女性向け問わず、エロスを取り扱った漫画がその上位を占めていることが確認できます。そのため、何を読めばいいか分からないときに、エロスがあるというものは強い道しるべとなる力があるのだなと思います。

 

 また、ウェブサイトの広告にも、エロスな漫画の広告がこれでもかと表示されることもしばしばです。

 エロスな漫画の広告が表示されることについては、求めていないときに見せられると嫌な気持ちになるということもあります。しかし、その広告が出てしまうことについては、このサイトを見ている人は広告を見ても購買行動に移ることが少ないが、エロスな漫画の広告の場合は、そこから購買行動に繋がる人もいるのかな?と捉えています。つまり、そのサイトが無料で運営されている影には、誰かがその広告を見て、エロスな漫画を購入しているという事実があったりするのではないでしょうか?

 そのような広告について「質が悪い」と表現されることもありますし、僕もあまり歓迎はしていませんが、実際問題として、もっと「質が良い」広告を出した方が、広告として意味があるのであればそうなっているでしょうし、結局広告が有効に機能している分野がエロスな漫画なのであって、それを買ってくれているどこかの誰かがいることによって、かろうじてそのサイトを無料で見ることができているのかなと思ったりします。そうでなければ、続けられないということです。

 

 そう考えれば、これだってネットの広告で運営されるサイトにタナトスを感じる部分なのかもしれません。広告で運営されているはずなのに、大半の人はその広告を見て購買行動に移ることがなく、つまり、広告を出す意味がないのであれば、誰も出稿しなくなります。そのビジネスは成り立たなくなるのです。そうなれば、少しでも買ってくれる人がいる分野に広告を出すべきだとなり、それがエロスな漫画の広告に行きついたのであれば仕方がないことです。そうしなければなくなるしかないのですから。

 

 このようなことは様々な分野で起こっていることだと思っていて、エロスが前面に出てくる状況が頻出するならば、その分野にはタナトスが蔓延している可能性があります。

 

 実際、漫画雑誌にエロスな連載が増えてきたとき、それを喜ぶ人もいれば、それを苦々しく思う人もいるでしょう。でも、そうなるということはどうしようもないものなのではないかと思っています。エロスに限らず、暴力的な表現や、倫理的に問題がある表現だったとしても、ある程度過激にやらなければ人の注目を集めることができないぐらいに、世の中には無数の選択肢があり、物が溢れてしまっているように思うからです。人の目に留まらなければ、続けることは難しくなります。

 

 なぜこうなったか?と問うとき、そうならないで済む道はとっくの昔に潰えていたということもある話で、漫画雑誌を開いて、エロス連載ばかりだなあと思ったときでも、そうでなければ、とっくの昔になくなってしまっていたのかもしれないじゃないですか。今の道しかないのだとしたら、それはもう仕方がないわけですよ。

 

 直近ではヒバナの休刊も発表され、漫画雑誌の存続は厳しい世の中です。その中で何かの漫画雑誌にエロスが増えてきたなと感じたとき、それが生を肯定するために生まれたエロスのためのエロスなのか、死に抵抗するために生まれたタナトスから逃れるためのエロスなのか、考えてみるのもいいかもしれませんね。

「HUNTER×HUNTER」のドキドキ2択クイズと今後の展開について

 「HUNTER×HUNTER」の第1巻、ハンター試験会場に向かうゴンたち一行の前に立ちふさがる人々がいました。その道を通るためには、5秒以内にある問いに答えなければなりません。それは、ハンター試験における選別の一環であり、「ドキドキ2択クイズ」という名前がついていました。

 

「どちらか一方しか助けられないとき、母親を助けるか恋人を助けるか」

 

 その問いには単純な答えがありません。であるがゆえに答え方は様々でしょう。ある男は、クイズを出したのがお婆さんであることから、ウケが良さそうと考えて「母親」と即答し、その道を通ります。そしてレオリオは、どちらであろうと、自分のとって大切な誰かを犠牲にするようなものを選択させとするお婆さんに怒り、問いに答えずに殴りかかろうとします。クラピカはそんなレオリオを制止し、このような答えのない問いには「沈黙」こそが正しい答えであるという結論に至ります。

 お婆さんは、安易な答えを出さなかったゴン、クラピカ、レオリオの3人にハンターの資質があることを認め、目的地への道を通してくれました(ちなみに安易な答えを出した男は、通された道の先で魔物に襲われてしまったようです)。しかし、ゴンは道を通してくれたあとも考え続け、それでもやはり答えが出せないことを嘆きます。

 これはただのクイズであるかもしれません。でも、そんなシチュエーションに実際に遭遇してしまう可能性はあるはずです。両方を選ぶことができないという残酷な状況が、この先の人生で来ない保証は全くありません。これは試験の道程です。試験とは、ある目的に対して条件を満たす者を選ぶ工程です。であるならば、2択のクイズに安易な答えを出さないこと、そして、それが起こりうることに想像を広げることは、ハンターの資質にどう関わるというのでしょうか?

 このクイズはハンターハンターという物語の中で非常に重要な要素を示唆しているのではないかと僕は思っています。

 

(この先、現時点での最新である34巻のネタバレがあるのでご注意)

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 ハンターハンターは、ある種の選択の物語ではないかと思います。登場人物たちに、どちらか一方が正しいとは言いにくいAとBの2つの選択肢が存在する状況がもたらされ、多くの場合、そのAでもBでもない、その問いそのものをぶち壊すような答えCが掴みとられて実践されるという形式で進行します。

 ハンター試験の中では、多数決によって扉が開くゲームや、不自由な2択、残り時間を賭けるゲームなどの形式で、模式的に選択の構造が繰り返されました。そして、プロのハンターとして世界を冒険するようになったあとでは、これらの選択が実戦の中で実践されるようになります。

 例えば、小さな部屋に拘束され、目の前には扉と敵という状況があります。敵は強く正面から戦っても勝てる可能性は低いです。戦って逃げるか、戦わずに拘束され続けるか、その2択を迫られているように思うでしょう。しかし、ゴンが出した結論は違います。壁を蹴破り、扉以外の出口を作ることでそこから逃げます。どちらか一方を選ばなければならないようなシチュエーションで、そのどちらも選ばないということがまさに実践されます。

 

 「選択」とは何かというと、そのひとつの解釈は「誰かが誰かに提示するもの」でしょう。相手に対してAかBを迫るとき、問いを作成する立場ならば、相手がどちらを選んでも自分が有利になるものを考えるはずです。つまり、2択を迫るということは、本当はあるはずだった無数の選択肢を大幅に刈り取り、目の前には2つの道しかないように錯覚させるテクニックです。であるからこそ、選択肢を提示する権利を相手に認めた時点で、既に負けていることもしばしばです。

 最新の34巻で行われたヒソカvsクロロの戦いは、まさにそのようなシチュエーションでした。ヒソカはクロロに十分な準備の時間を与え、クロロは入念な準備をもとにヒソカの前に選択肢を提示します。自分が使っている能力が何であるかを特定するための沢山のヒントをばらまき、ヒソカにそれを類推させるための手がかりを与えます。ヒソカが、その選択肢を読み取ることで、クロロの状況を特定しようとします。つまり、その時点ですでに非常に不利な状況です。

 ヒソカは、クロロが喋ったことに嘘はないという前提での解釈を試みますが、嘘とは言っていなかったとしても曖昧な表現が混ざっています。暑いの反対は暑くないであって、寒いではないというような、論理の隙間を利用し、ヒソカの思考を誤誘導することで、罠がかけられています。思考の瞬発力に優れたヒソカは、クロロの言葉と目の前の光景から瞬時に正解に辿りつきますが、それはあくまで用意された正解であって、真実とは異なります。この戦いにおいてヒソカはクロロに敗れますが、それはつまり、クロロの用意した選択の中から正解を選ぼうとしてしまった時点で既に概ね負けていたのではないでしょうか?

 

 選択を提示するということは、それは用意された道です。ハンターの資質を、未知のものを追い求めること、未踏を舐ることとするならば、用意された正解のある問いに取り組む時点で、その資質に欠けると考えるしかありません。新しいことに取り組むとき、そこに誰かが用意してくれた正解はありません。なぜなら、誰かが用意してくれた時点でそれは新しくないからです。

 学生の勉強でもそうでしょう。学校が用意してくれた試験には、採点のための正解があります。それはその時点で取り組む学問が新しい道ではなく、今まで誰かが切り開いてくれた道を辿る行為でしかないからです。場合によっては出題者の意図を読むことが試験に合格するための最適解であるでしょう。しかし、それは新しいことに挑戦する上ではむしろ不利なことかもしれません。なぜなら、今まで誰もやったことがないことについては、出題者がおらず、読むべき意図がないからです。それまで手がかりになっていたものが、まるで役に立たない状況がやってくるからです。

 

 大学の研究では、このギャップがしばしば学生を苦しめます。それまで誰かが用意した答えがある問いを解いてきた経験から、自分の取り組むことになる研究の正解を、先生が既に知っていると誤解してしまったりするからです。立てた仮説が間違っていた分かることは、研究における重要な進捗ですが、ここを誤解し、立てられていた仮説こそが正解であって、その結果がでないことを悪いことのように考えてしまう人もいます。その考えは、出た実験結果をごまかし、仮説の立証に使えるような結果の捏造に手を染める道にも繋がります。

 研究には誰かが用意してくれた正解がないということ、もし誰かが仮説を用意してくれたとしても、それはあくまで仮説であって事実かどうかを確かめるには実験検証が必要であるということ。そのような考えに実感を伴って至るためには、それまでの誰かが用意してくれた正解がある道から、別の道への方向転換が必要で、学部の研究ではそれに躓く人もいて、修士でなんとかやりきれるようになり、博士ならようやく完全にやれるようになるというような、そういった難しいものではないでしょうか?

 それゆえ、学部の頃の成績が良かったからといって研究者として大成するとも限らず、学部の頃の成績が合格ギリギリであったのに研究者として大成するような人もいます。なぜなら未踏に取り組む資質は、試験では測りにくい分野だからです。

 

 ドキドキ2択クイズが示唆するのは、その2つからどちらかの選択を選ばなければならないと思考を狭窄してしまう時点で、未知のものに取り組むに適した感覚が乏しいということではないでしょうか?クラピカが、マフィアのノストラードファミリーに入るために受けた試験では、敵の姿を勝手に想像したせいで、その誤解から組織を危険にさらしてしまった男が処刑された姿が登場しました。想像するということは、その想像における正解を模索するということです。もしその想像が的外れであった場合、それまで手にあった正解はむしろ不正解かもしれません。相手が何であったとしても勝つということは、安易な正解を手に入れて安心しないということでもあるのです。

 

 さて、最新34巻では、カキン王国の王位継承のための戦いが始まります。このエピソードでは、クラピカに焦点が当たっているのではないかと僕は思っていて、なぜならカキンの第4王子ツェリードニヒは、猟奇的な人体収集家であり、クラピカが探し求めている仲間たちの目もその中に含まれているからです。ヒソカとの戦いを終えたクロロもその場にやってこようとしています。クロロは幻影旅団のリーダーであり、幻影旅団はクラピカの仲間たちを皆殺しにし、その美しい輝きをたたえた目を奪った張本人です。

 クラピカにとって因縁のある人々が同じ場所に集結しようとしてします。奪われた仲間たちの目の多くを取り返しつつあるクラピカは、その復讐と奪還を人生の糧としてきた経緯から、仮に目的を達したとして、その後、どう生きればいいかも見定まっていません。

 また、ハンターハンターのアニメ映画において配られた小冊子において、作者から「旅団もクラピカも全員死ぬ」という言葉が提示されています。それは人はいずれ死ぬということなのか、物語上でそこに至るということなのか解釈の幅はありますが、それが何らかの結論に至るのかこのエピソードではないでしょうか?

 

 ドキドキ2択クイズには、選択することの意味の他に、もうひとつの読み取り方があると思います。それはつまり「人の命に価値の差をつける」ということです。「母親」と「恋人」、あるいは「息子」と「娘」、どちらか一方しか助けられないということは、残りの一方を犠牲にするということです。これはどちらかに価値があり、どちらかに価値がないということを決断しなければいけない行為です。

 このクイズにおいてレオリオが怒ったのは、ここにポイントがあるのではないでしょうか?なぜならば、レオリオがハンターを目指した根本には、「命の価値に差がつけられた」ということがあるからです。レオリオは金のためにハンターを目指しました。それは、金がないために親友が死を迎えたからです。決して治らない病気ではなかったのに、金がないために治療を受けることができませんでした。だからレオリオは医者になろうと思いました。そうすれば、同じ病気で金がない人でも自分が助けてあげられると思ったからです。それは命の格差を埋める行為です。しかし、医者になるためにも多額の金が必要でした。金がないためにその道も阻まれてしまいます。金があるかないかだけで、命の価値に差がつけられてしまいます。誰かの命に価値があり、誰かの命に価値がない、その考えに一番憤っているのはレオリオでしょう。

 物語の冒頭でゴンは、その人を理解したければ、その人が何に対して怒るかを知るべきであると教えてもらったと言います。レオリオは命の格差に怒ります。何かの条件があるかないかだけで、人の命の価値に差がつけられています。許せるわけがないでしょう。「人の命は平等である」、それはきっとレオリオの生き方の根幹にあるものだからです。

 

 一方、カキンの第4王子ツェリードニヒ・ホイコーロは、その真逆に位置する男です。命には貴賤があり、人には価値のある存在と価値のない存在があるという認識を持っています。価値のある存在とは自分自身、価値のない存在とはそれ以外の全てです。ツェリードニヒは、自分の快楽のために、他人の命を消費します。王子と言う強権的な立場を利用し、まるで他人の命をぞんざいに扱えば扱うほどに自分の命の価値が上昇するとでも思うかのような行動をとります。ツェリードニヒは同じ立場の他の王子たちも無価値であると思っています。人は平等ではない。人の価値には差がある。そして価値ある命とは唯一自分自身である、という強大なエゴの権化である存在こそがツェリードニヒです。

 幻影旅団のリーダーであるクロロもまた、命の価値を認めない男のひとりです。しかしながら、彼はツェリードニヒとは異なります。なぜならば、自分自身を含めて、命は平等に無価値であるというような思想を持っているからです。自分が人質になったときにも、自分を犠牲にして旅団を生かすという結論にすぐに至ります。旅団の生まれた土地である流星街は、人間の価値がとても低い場所でした。流星街の長老は人間を爆弾に変える能力を持っていました。長老は、流星街にあだなす存在に、住民を爆弾に変えて送り届けます。たった1件の出来事のために、30人以上の住民を爆弾に変えた自爆テロを引き起こしました。長老は人間の命に価値を認めていません。そしてクロロもそんな長老から盗んだ能力を携え、その考えに共感を示します。

 旅団は盗むために殺しも行います。殺すことに胸を痛ませることはありません。旅団のメンバーはなぜそうなのか?クロロはそのリーダーとして、自分がなぜそうであるのかを探求するような生き方をしています。

 

 彼らと対比して、クイズに「沈黙」を選んだクラピカは人間的です。この場合の「人間的」とは、「どちらかを選ぶということに迷いがある」ということです。それが例えばツェリードニヒやクロロならば、選ばされる2択はどちらも価値がない命として、迷いなくどちらかを選び取ることができるでしょう。クラピカは復讐のために冷徹な人間になろうとしても、その心の中には迷いがあります。ヨークシンシティでも旅団との戦いでは、「復讐」と「仲間の安全」を量りにかけ、仲間を選び取ってしまう迷いと優しさを持っていました。

 

 ツェリードニヒは人に命に格差があり、価値のある命と価値のない命があるという考えに疑いを持ちません。一方、クロロは人の命には平等に価値がないと思っています。そして、レオリオは人の命は平等で、全てに価値があるはずという考え方です。今後、クラピカはこの中で何かしらの結論に至るのでしょうか?

 ドキドキ2択クイズでは沈黙し、何も選ばなかったクラピカが、その後の残酷な現実の中で、来るべき「選ばざるを得ない状況」についに到達してしまうのかもしれません。それが苦しみを抱えて生きてきたクラピカにとって、何らかの安寧をもたらす結果に繋がることをただただ願ってやみません。

「シェンムー」と「龍が如く」の繋がりを妄想をしたけど特にそんなことはなかった話

 セガのゲーム機、ドリームキャストで発売された「シェンムー」がすごく好きで、学生時代に色々な遊び方をしながら4回通りはクリアしたと思います。シェンムーとは、格闘ゲームバーチャファイターをベースにしたRPG、として企画されたゲームで、中国人マフィアに父親を殺された主人公が、父が殺された謎とその仇の男を追って中国(まずは香港)に渡るというストーリーなのです。このゲームは章立ての物語として発表され、第一章として発売されたゲームは、昔の横須賀の町を舞台に、香港に渡るまでを描いたものでした。

 シェンムーの何がよかったかというと、いまひとつ上手く説明ができないのですが、僕はあのゲームの中で生活をしていたという気持ちがあります。本筋の物語として用意されていた目標もそこそこに、街を歩き回り人と会話し、バイトにせいをだして、ゲームセンターに入りびたったり、ガチャガチャを回したりして生活していたのです。僕はこのゲームを大学の部室でやっていることも多かったので、「いつもシェンムーをやっている人」と後輩に思われていたということもありました。

 何年か前のあるとき「そういえば学生時分はよくフォークリフトを運転したなあ」などと思い出したものの、それは実はシェンムーの中の体験であると、ワンテンポ遅れて気づいてしまうというようなことがありました。ゲームの中の話ですが、それは既に思い出なのです。あの夕暮れの公園で、ベンチに座っていたご老人に掌底重ねの技を教えてもらったのも、僕が現実に体験したことではなくシェンムーだったのです。

 

 シェンムーは香港から中国本土に渡るまでを描いたシェンムー2もやったのですが、こちらは1ほどはやり込まず、1回クリアしたぐらいでした。しかし、遂に正ヒロインが登場し、謎の一端が明らかになるというラストシーンの展開から、まさかその続きが出ないとは思わず、それからずーっと待っていたのです。

 シェンムー3の開発のためのクラウドファンディングが開始されるという報せを見た瞬間、僕はお金を出すという決断をしました。金額は少し考えましたが300ドルを投げ込みました。

 ただ、この金額は、僕の中では「新作のゲームを手に入れるための対価」ではないのです。僕はシェンムーを中古で980円で買ったので、あれだけ遊んだにも関わらず、ゲームの全体の売り上げには直接貢献しておらず、そして、売り上げに貢献しなかったゲームの続編が出ないことにずっと引っかかるものを抱えていたのでした。だから、その300ドルはこれまでの感謝と、このゲームが好きであるという自己表現の手段であったのです。浄財です。だから既に目的は完遂しています。さらにおまけにあの物語の続きが新作ゲームとして遊べるということなので、非常にお得な感じだなあと思いました(当初予定から発売の延期が発表されましたが、気長に待ちます)。

 

 さて3の開発が発表に至るまで、僕はシェンムーの続編をずっと待っていたのですが、モバゲータウンにおける「シェンムー街」のリリースや、中国で「シェンムーオンライン」が開発中であるという話を聞きつけ(立ち消えたようですが)、それがシェンムー3には続かなかったことでがっかりを繰り返していました。それだけに、3が発表されたときはとても嬉しくなってしまいました。

 しかし、僕は感情表現があまり得意ではないので、それに実際に大声を上げて喜ぶということは苦手で、できません。ただ、ネットの配信で見知らぬ外人がシェンムー3の発表に大声を上げて狂喜乱舞していた様子に、なんだか大変救われた気持ちになりました。僕は喜んだ顔も思うほどできず、嬉しい声も思うほどあげられませんが、こんなにも喜んでくれている人がいる。この人だけじゃなく、他にも沢山喜んでいる人がいるということをとても嬉しく思いました。クラウドファンディングのお金がみるみる集まって行く様子を、わがことのように喜んでリロードして確認をしました。本当に嬉しい気持ちになったんですよ。

 

 さてようやく本題ですが、シェンムー3が発表される前までの間、僕が抱えていた妄想があります。それは、シェンムーの単独続編の製作が難しいなら、同じセガから販売されている「龍が如く」シリーズが世界観としてどうにかして繋がってくれないかというものです。

 龍が如くシリーズは、歌舞伎町をモデルにした街を舞台に、ヤクザの抗争をモチーフにしたゲームです。僕はこちらもとても好きで、昨年末に発売された最新作である龍が如く6もクリアしました。6はシリーズ主人公の桐生一馬の物語としては最終章だったのです。とても面白かったのです。

 龍が如くシリーズには、シェンムーの遺伝子のようなものを感じています。まず街を作り込んで再現するということ、そしてそこに登場する日本人の普通の(そして奇妙な)老若男女との交流の中で、多くのストーリーを体験するということ。ゲーム内ゲームセンターの存在や、多人数を相手にした格闘アクションなど、シェンムーに存在したものを、膨らませたり簡素化したりして取捨選択し、そこに新たな要素も付加してより多くの人に届けるゲームとして再構成しているように思いました。

 龍が如くには、シェンムーの一章にあったような、町中の登場人物たちが時間や曜日に応じた生活パターンで独自に行動したり、家の中のタンスを隅々まで開けられるような、偏執的な作り込みはありません。それらは、当時としてはやり過ぎと言ってもいいほどの作り込みと思えるからです。しかしながら同時に、そのやり過ぎた作り込みこそが僕がシェンムーにとても心ひかれた部分でもあります。

 ゲームにおける大規模プロジェクトをマネジメントするための方法論からしてまだ手探りであっただろう時代に、数十億円の開発費をかけて偏執的な作り込みがされたゲームが誕生したこと自体を僕は素晴らしいことだと思っていて、それがあったという事実をとても愛しく思っているのです。

 そこから比較すると、龍が如くシリーズは良くも悪くも洗練されているように思います。どこに力を入れてどこに力を入れないかの取捨選択がきっちりされています。作り込みは必要な部分にのみ注力されていて、シリーズとして毎年のように新作が出るというきっちりとした製作の管理がされています。

 僕は龍が如くのストーリーが好きで、細部のばかばかしさが好きで、アクションゲーム部分が好きで、ミニゲームも好きで、ひたすらちまちまと色んなことを達成していくというゲームの構造が好きなので、毎年のようにその新作を遊んでいます。その一方、僕はシェンムーのことも少し思いだし、それがなくなってしまったことに胸を痛めていたのです。

 

 で、この龍が如くシェンムーの物語が繋がってくれさえすれば、シェンムーの続編を待望する僕の願望が叶えられるのではないかと考えていました。そして、僕はそこにいくつかの関連性を強引に見出していました。

 龍が如くの主人公である桐生一馬は背中には「応龍」の刺青が入っているのですが、応龍とは、中国の古代の王である黄帝とともに蚩尤と戦ったとされる龍です。そして、なんとシェンムーにおける敵役が属する組織の名前が蚩尤門というのです。蚩尤と戦うシェンムーの主人公、芭月涼黄帝になぞらえるならば、共に戦う桐生一馬はその仲間となります。この事実に気づいたとき、これは来たな!と思いました。

 

 そして、龍が如く0では、時系列が巻戻ってバブルの時代であり、それは時代的にシェンムーの一章と比較的近く、これはひょっとすればひょっとするのではないか?と思っていました。龍が如くシリーズには中国マフィアも出てきます。その流れの中でシェンムーにつながってくれーと思いましたが、結局そういうことはない感じでした(ただ、龍が如く0自体はめちゃ面白かったですが)。

 

 結局その妄想はてんで的外れであって、それとは別にシェンムー3が出ることになったので、もういいといえばいいのですが、ただ最新作の6には、中国マフィアと手を組んだ広島ヤクザの陽銘連合会が登場し、そこに巌見恒雄という男がいます。彼の背中に入った入れ墨で「白澤」なのです。白澤とは中国の妖怪で、この妖怪には伝説があるのです。黄帝に出会って知恵を授けたという伝説が。

 出ました!またしても黄帝です。蚩尤と戦う存在です。それはもしかしたら芭月涼のことなのではないでしょうか?これにより、龍が如くの物語の裏に芭月涼が実は存在している可能性を僕はまだ捨て切っていません。

 

 このように、彼らの背中の刺青には、シェンムーとの繋がりを強引に見出せそうなので、今後もシリーズとしては続くだろう龍が如くシェンムーが、なんらかの形で交錯するという期待を僕は持ち続けています。

 そのためにもシェンムー3がなんらかの成功を見せてくれるとよいのですが、今のところ僕にはその発売を座して待つしかないのです。