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無線通信技術に学ぶ人間同士のコミュニケーション関連

はじめに

 「通信」とはざっくり言うと「ある情報をある所から別の所に送る」ということです。これを僕は人間同士のコミュニケーションでも同じだと思っていて、人間は自分の頭の中にある情報を、何らかの方法で他人の頭の中に伝えたりします。それらの情報は、例えば言語に置きかえられて、声を使うことで空気の振動として他人に伝えられ、伝えられた人は、鼓膜で感じ取った空気の振動を、言語として解釈することで受けとったりします。

 

(ここから一万字以上の文章なので、長い文章を読みたくない人はここでやめておけばいいのではないかと思います)

 

 人間同士のコミュニケーションにおいて、「自分は機械のように合理的な人間なので、多くの人が必要としているようなコミュニケーション術を必要としないのだ」というようなことを言う人がいるんじゃないかと思います(僕自身もあまり人間関係のコミュニケーションが得意ではないのでちょっと思っています)。でも、機械同士が情報を伝えあう通信のやり方を見ていると、機械はなんとも立派にコミュニケーションをしていて、そのやり方の中には色んな工夫が加えられていることが分かります。それによって、機械同士は情報を速く正確に効率よく伝えたりしているのです。僕は自分よりも機械の方がしっかりしたコミュニケーションをしていて偉いなあと思ったりしています。

 通信のやり方には色々な分類方法があると思いますが、大きくざっくりと分けてみると「ケーブルと使うやり方(有線通信)」と「ケーブルを使わないやり方(無線通信)」があります。人間同士がケーブルで繋がれているのは、母親の胎内にいるときぐらいなので、ここでは多くの人間がすなるという無線通信を、電波を使う機械同士がどのようにやっているかを確認することで、自分のコミュニケーションが機械様に比べていかに雑でいけていないかを確認するという話をすることにします。

 

 通信の大きな目的は情報を伝えることです。そこにはどのように伝えられるかという品質指標があるでしょう。人間同士のコミュニケーションと共通するという観点から、ざっと5つの指標を列挙してみました(適当な思いつきなのでこの5つで十分かはわかりません)。

 

  • 正確性:情報が誤解なく伝わっているかどうか?
  • 確実性:情報が相手に伝わったことが保証されているか?
  • 応答性:情報をタイムラグなしに相手に伝えることができているか?
  • 効率性:どれだけの情報を短時間に大量に伝えることができているか?
  • 社会性:情報を伝える上で共有のリソースを無駄に使っていないか?

 これらを満たすために、機械同士のコミュニケーションでは色んな工夫を取り入れたやり方を取り決めています。そのおかげで、情報を伝えるための機械に取り囲まれている我々現代の人間は、遠く地球の裏側にあるような情報でも迅速に大量に正確な情報を確実に安く手に入れることが出来ているのです。


正確性

 情報を正確に伝える手段には色々な方法があります。人間であれば自分の頭の中にある情報を他人に伝える際に言語を使うことが多いでしょう。これは機械でも同じで、情報を何らかの形式に変換して送っています。しかしながら、そのためには、送り手と受け手で情報を伝えるための事前取り決めをしておく必要があります。なぜなら、どのように情報が伝えられるかを共有しておかなければ、相手の言っていることを正確に解釈することができないからです。

 このような規定を通信ではプロトコルと呼んでいます。例えば、ネットを使っていればよく目にする「http」は、「hypertext transfer protcol」の略称なので、ハイパーテキストというものを送るために送り手と受け手で相互で守ることになっている取り決めのことを意味します。

 このようなプロトコルを策定する団体は沢山ありますが、インターネットにおいて代表的なものはIETF(internet engineering task force)です。このIETFという団体のサイトに行けば、あるプロトコルがどのように規定されているかの最新情報を確認することができます。

 

 一方、日本人である我々は、多くの場合、日本語によるコミュニケーションをしています。しかし、日本語はどこかの団体によって厳密に規定されているものではありません。これはつまり、ある言い回しなどを送り手と受け手が正確に共有できない可能性があることを意味します。

 そもそも言語には方言などの地域差や、働いている業界などの分野による言葉の解釈のしかたの違いがあり、しかも新しい言葉も日々どんどん生まれています。なので、それぞれの人は、同じ日本語に見えて厳密には違う言葉を喋っているという認識が必要でしょう。つまり、相手の話す言語の中から、自分の言語で理解できる部分を、なんとなくいい感じに解釈して通信をしているのです。この点において、人間のコミュニケーションは柔軟性と変化の速さでは機械に勝るものの、その引き換えとして機械よりも劣る正確性しか持ち得ないのです。

 であるがゆえに、人間同士のコミュニケーションに生まれる齟齬は、個人個人が良い感じに修正することで正しさを保証するしかありません。例えば、法律などでは書かれた言葉を正しく解釈するためには、難しい認定資格を必要とされています。それほど情報を厳密に伝えるということ、共通理解を得るということは難しいことであり、通常のコミュニケーションでは、自分と相手の認識齟齬により、自分の言ったことが相手に自分の意図通りに伝わっていない可能性を常に考える必要があると思います(ただし意図通り伝わっていなくても特段問題ないことも多いです)。

 自分が伝えようとしている情報が適切な言葉で表現できているか?と、その言葉は相手に問題なく解釈できるものか?ということは、正確なコミュニケーションを実現するために意識する必要があるポイントです。極端な話、日本語が分からない人に対して、日本語で伝えようとしても上手くいきようがないのですから。

 機械は自分が使うプロトコルを参照し、それを使うと宣言することで、送り手と受け手の認識齟齬をなくしています。人間だって、それをしなければ正確なコミュニケーションは難しいことは疑いようがありません。

 

確実性

 自分が発した言葉が、そもそも相手に聞こえているかどうか?という問題があります。機械同士の通信で言うならば、これを気にするのがUDPTCPというプロトコルの違いです。どこが違うかというと、UDPは送ったら送りっぱなしですが、TCPには届いたかどうかを確認する動作があるのです。確認があるTCPならば、ちゃんと届いてない場合に気づくことができるので、送り直すということができます。

 人間同士のよくないコミュニケーションはUDPになっていることも多いんじゃないでしょうか?言いっぱなしで相手に届いているかどうかを確認していないということです。なので、TCPのように自分が相手に喋ったことが、本当に相手に聞こえているかどうかを意識しないといけません。

 例えば、僕は地声が小さい感じの人類なので、「お疲れ様です」とか「おはようございます」とか「お先に失礼します」とかの言葉をちゃんと口にしてはいるのに、他の人には実際聞こえていないということが昔ありました。それでも、当時の僕はちゃんと挨拶をしているぞ!と思っていて、でも、挨拶を何のためにやっているかと考えれば、「言ったぞ」という個人の実感より、「ちゃんと相手に聞こえているか」ということの方が大事なはずです。ということにあるときやっと気づきました。

 これは僕が学生時代にやった学会発表のときのイケてなさなどとも通じる話で、何度も練習した発表原稿を間違いなく言うということばかりを考えていて、それが相手にちゃんと伝わっていたかまでは意識できるようなレベルですらなかったのです。

 中でも海外の学会での発表のときの記憶は最悪で、何十人もの人の前に立った時点で完全に喋ることが飛んでしまい、ひそかに確認できるようにしていた原稿をただただ読み上げるだけになってしまいました。でも、ちゃんと言うべきことは言ったぞ!という実感はあったものの、聞いている人の反応も見ていなかったですし、質疑応答もグダグダだったので、当初の自分がやったことを同じ分野の研究者の人たちにちゃんとアピールするということはまるでできていなかったように思います。

 別の海外の学会ではポスター発表もやったこともあるのですが、そっちは幸いまだましな記憶で、ポスター発表では目の前の人が納得するか呆れて去るかしないことには逃げられませんから、拙い英語ではありつつも相手に伝わっているかを意識することはできました。

 

 僕が思うに、人の言葉は思いのほか伝わっていない感じがします。喋っている中身ではなく、声自体がちゃんと耳に届いているかというレベルでです。繁華街やお店の中、通信環境の悪い電話なんかでは、相手の言っていることが上手く聞き取れないこともあります。こちらが言うことも聞き取ってもらえてないこともあります。

 その場合、TCPのように!と思って、向こうがちゃんと聞けているかを確認をしたり、こっちか聞き取れない倍はもう一度言って貰ったりするのですが、とにかく他がうるさくて、何度も聞き返す羽目になることもあります。そういうとき、面倒になって分かったふりをしてしまったりします。これが最悪で、本当は伝わっていないのに、伝わったふりをしてしまうことで、相手が誤認し、トラブルの種になってしまうかもしれません。

 自分が言ったことが相手にちゃんと伝わっているかを確認することはとても重要なことです。

 

 余談ですが、TCPでは送信者から受信者(SYNと呼ぶ)、受信者から送信者への確認(ACKと呼ぶ)、送信者から受信者への確認の確認(SYNACKと呼ぶ)という3回の事前確認作業を経て、相手とコミュニケーションが出来ていることを確認とする3ウェイハンドシェイクという仕組みを採用しています。

 学生時代に大阪いた際には、会話の中のフリ、ボケ、ツッコミのことを3ウェイハンドシェイクと呼んだりしていて、これが互いに出来る間柄ではコミュニケーションが上手くとれると認識していました。相手からの話題のフリをフリとして認識し、それに対応するボケを言うこと、そして、それがボケだと認識して、適切なツッコミを入れることは、比較的高度なコミュニケーションだと思っていて、これが上手くできる相手とは、言っていることが確実に誤解なく伝わっていると判断できて気楽に思えたのです。


応答性

 情報は一方的に伝えて終わりではなく、相手とのやりとりによる確認が必要な場合があります。例えばメールで予定の調整などを行う場合は、候補日を出したり、相手が答えたりと複数回のやり取りを経て最終決定がされ、それもまた最終的にメールで通知されたりします。相手にメールが届いてからこちらが返すまで、こちらがメールを受けてから相手に返すまでのようなタイムラグは、やり取りが多くなればなるほどに積算して、ある目的を達成するまでに長大な時間がかかってしまい、面倒くさくなったりしてしまいます。

 改善するための方法は大きく3つと考えます。(1)必要なやりとりの回数を減らすことと、(2)返信までの時間を短くすること、そして、(3)やりとりから順序性を排除することです。

 これらはそれぞれ通信技術にもあるもので、やりとりの回数を減らすためには、あらかじめやり方を規定しておくという前述のプロトコル的な解決方法があります。

 返信までの時間を短くするためには、フォーマットの規定やタイムアウト時間の設定が有効でしょう。フォーマットが決まっていれば、都度相手の書いた文章を解釈して適切な回答をするという面倒さが排除されます。

 タイムアウト時間と言うのは、相手がどれだけ返事をしなければ、催促をするかという設定値の話です。このタイムアウト時間は適切に設定しておくことが重要で、長すぎると、相手がなんらかの事情で回答できなかったり、情報が上手く伝わっていなかった場合に、待ち続けなければなりませんし、短すぎると、相手に短時間に何度も催促を送ってしまって、相手側を疲弊させたり非効率になってしまったりします。機械同士の通信のチューニングでも、状況に合わせたタイムアウト時間の適切な設定は注目すべきポイントです。

 最期のやりとりから順序性を排除するのは、そもそもそういうことをメールで一通ずつ送るような方法でやるなという話で、そのような交互に送りあう順序性があり、片方が何かをしなければ先に進まないようなやり方をしてしまうと、そこが止まったときに後々の全体の進み具合に影響が出てしまいます。なので、あらかじめ予定の空いている日を共有するなど、順番に確認しないで済む方法をとるというようなことをします。機械同士の通信でも、情報を伝える順序が制約にならないようなデータの送り方や集め方をしたりします。

 そもそも情報を小分けにして送受信するパケット通信では、一連の通信が同じネットワーク経路を通って送られることが必ずしも保証されていないなため、送った順に到着するとは限りません。なので、パケットを集めて元の情報を復元する際には、送られたときの順番を参考に受け取った側が正しい順序に並べ替えたりしています。

 

 もうひとつ別の観点で気にするべきなのは、通信のホップ数です。情報をやり取りする場合、直接やりとりする相手がこちらの求めている情報を持ってはいない場合があるのです。それまで受信者であった相手先が、今度は送信者として、別の人(上司など)に確認する必要がある場合、そしてさらに、その先がまた別の人(さらに上の上司など)に確認する必要があり場合、最初のリクエストは何人もの人を経由して(この経由する数をホップと呼んでいます)最終的に最初の質問を答えられる人に届くことになります。ここでいうホップは、1ホップごとに通信が発生しているので、そのやり取りの中で前述のような諸問題が関わってきますし、情報が伝達される過程で劣化する(中身が変わってしまう)場合もあります。

 ネットワークでは、何回もホップする必要がある場合には、その伝達経路が最短になるように計算したり、より容量の大きい経路に迂回したりするルーティングという仕組みがあったりします。また、必要な情報を、わざわざ大本にまで問い合わされなくても窓口にあらかじめコピーを置いておくキャッシュという仕組みもあったりします。

 人間がこのようなことをやるとするならば、必要な情報を誰が持っているかを予め明らかにし、その人に問い合わせられる最短のやり方を知っておく必要があるということになります。また、必要な情報を都度問い合わせて入手しなくていいように、予め情報を共有しておいたり、権限を委譲してもらったりしておくと速くなります。そういうことをしますが、人間の関わりあい方が、複雑で固定的になっている場合も多く、また、そもそも誰が必要な情報を持っているか分からないこともあります。

 何かの情報を伝えなければいけないときには、聞かれて初めて調べ始めるのではなく、予め色々調べておかないといけないという非常に面倒なことになります。なかなか完璧にはできないことです。でも、機械はちゃんとやっていたりするんですよね。

 

効率性

 コミュニケーションが情報を伝えることであるならば、どれだけ効率よく大量の情報を伝えられるか?という指標もあるでしょう。

 情報を速く伝えるにはいくつかの方法があります。ひとつは一定時間あたりにより多くの情報を詰め込むことです。電波で言えば高い周波数を使うことで実現できますが、これを人間に置きかえるなら早口で喋ることです。他には複数の伝達経路を使うこともできます。電波で言えば広い周波数帯域を使うこと、人間で言えば喋るだけでなく、同時にジェスチャーや絵などを使うことなどが挙げられるでしょうか。そして圧縮という方法もあります。どれだけ少ない記号で大きな情報を伝えられるかが重要視されるのです。

 機械であれば、速度の速い規格やそのための新しいハードウェアを採用するという方法がありますが、人間の耳と口のスペックは個体差はあれど固定的なので、基本的にはそういうことができません。人間はよりよく聞こえる耳や、よく喋れる口に交換できないのです。なので、それ以外の方法を使うことが現実的です。そのひとつが情報の圧縮だと思います。少ない記号で大きな情報を伝えられるのであれば、コミュニケーションの効率はアップします。

 例えば「象」という言葉がありますが、この言葉を見た瞬間に象という動物を思い出せたなら、圧縮は成功しています。なぜならば象という動物を知らない人がこの言葉を見た場合と比較して知っている人の頭の中には大量の象情報が広がっているからです。象を知らない人に言葉だけで象を説明することはとても難しくて面倒なことでしょう。

 情報伝達の効率は、情報の送り手と受け手が十分な共有情報を持っていることによって高まります。相手が専門知識を持っている人であれば、専門用語を駆使して短時間で正確な情報を伝えることができるでしょう。しかし、送り手と受け手に専門知識の持ち方に差がある場合、専門用語を使いつつ誤解のない言い方を考える必要があるため、冗長になりますし、冗長になると分量の時点で受け渡すのが難しくなったりします。まるで僕が今書いているこの文章のようですね。

 専門用語は、ある概念を理解しているもの同士ならば、非常に効率よく情報の受け渡しができるという圧縮の技術なのですが、その伸長のやり方を知らない人にとっては情報量のゼロとなる意味不明なものになります。なので、専門知識を持たない人に対しては平易な言葉で正確性と確実性を重要視し、専門知識を持っている人に対しては効率性を重要視するというような判断が必要になります。

 

 この辺に関する問題はいくつかあって、まずは専門知識を持つ人と持たない人が混在する場所の場合、どちらにフォーカスを当てた説明をするべきかを考える必要があります。また、世の中には分かっていないのに分かっているふりをする人がたまにいるということも問題です、その人に対して専門用語で説明すると、分かったようなふりをして実は分かっていないので、伝えた行為が無駄になってしまったりします。一方、そのような人に対して、誰でも分かるような平易な言葉を使えば、馬鹿にされていると感じるのか上手く聞いてもらえなかったりもするなんて可能性もあるので、このあたりのさじ加減はとても難しく感じています。

 学会なんかにいる「この分野は素人なのでよく分からないのですが」と発言の最初につける人も曲者で、本当に分かっていないから言っているのか、本当は知っているのに言っているのかを明確に区別つけられないと弱ってしまいますね。

 この辺りは機械でも同じで、実はある圧縮方式に対応しているのに、それを宣言せずに非圧縮でなければ受信できないふりをしていると、送る側からすれば非効率な非圧縮で送らざるを得ないので大変よくないことになります(ただし、圧縮と伸長には処理の時間がかかるので映像の生中継などのように遅延を最小化したいときには非圧縮の方が好ましいなんていうケースも世の中にはあります)。


社会性

 ここまでの話は、有線でも無線でも実はあまり関係ない共通する話だったのですが、ここは若干無線通信特有っぽい話をします。情報を通信するために必要な資源が、無線の場合は強い公共性を持つからです。人間のコミュニケーションでも多くの場合、公共のリソースを使って行われます。

 ケーブルを使った有線通信はケーブルの本数を増やせば、事実上無限に容量を増やすことができます。つまり、100本のケーブルがあれば1本のケーブルの100倍の通信ができるということです。しかし、無線の場合は違います。

 電磁波は空間を伝わるので、同じ空間で通信をする人にとっては全員がたった1本のケーブルを共有しているのと同じことです。情報は波の大きさに符号化されて伝えられるため、同じケーブル上に単純に同時に情報を流すと波が衝突して情報が壊れてしまいます。つまり無線の場合は、伝達に使われる空間が公共的なもの(多くの人々と分け隔てなく共有されるもの)とならざるを得ないので、誰かが好き勝手に使っていると、他の人の自由を阻害される可能性が高くなります。だからこそ、電波の利用は法律によって免許性となっているのです(一部例外もあります)。

 ここでは、無線機(携帯電話など)の側にも、電波の利用上問題ないと認可されたものが必要で、そのため、外国製の無線機を国内で使ったりすると違法になったりします。なぜならば日本と外国では使い方のルールが異なるからです。

 日本で電波利用の認可がとれていないスマホを使うと、ルール上は違法です。ただし、使用しているチップが共通であったり、少なくとも外国のルールには合致していたりして、実際の利用上は大きく問題になることは少ないでしょう。しかし、それはたまたま問題が起きないのであって、やろうと思えば周囲の人が通信を全然できなくなるようなことを引き起こすことも可能です。それを防ぐためにルールがあるのです。

 

 さて、人間のコミュニケーションも同じです。例えば人の声は空気を伝達し、空間に対して広がります。つまり、他の人たちの会話が聞こえないぐらいの大きな声で喋ると迷惑な行為となってしまいます。また、その情報を伝えたい人以外にも、その大きな声によって情報が伝わってしまうという弊害もあります。うっかり伝わった情報の中に秘密の情報があった場合、情報漏えいになってしまいますし、ネットを見れば、たまたま聞こえた周囲の会話を別の誰かにシェアしている人も沢山見つけることができますね。

 一方、それを気にして小さい声で喋り過ぎると、相手にも聞こえづらくなり、確実性が落ちてしまったりします。場所や目的に応じて適切な声の大きさを選ぶ必要があるということです。もちろん無線通信でも相手と確実な情報通信を行うために、電波の強さをコントロールしたりしています。

 

 さて、同じケーブル上に別々の複数の情報が乗ってしまったとき、衝突して情報が壊れてしまう場合があると言いましたが、それが物理的なケーブルの場合は衝突したことを検知もできます。しかしながら、それが無線であった場合は、3次元的に広がる電磁波は波なので反射した波などと任意のポイントで干渉しますし、上手く衝突せずに受信側に到達したかどうかを検知することができません。

 それを回避するための方法のひとつがCSMAです。CSMAにはCD(collision detection: 衝突検知)とCA(collision avoidance:衝突回避)があり、前述のように無線の場合はCDを使うことができないのでCAを使います。CSMAとはcarrier sense multiple accessの略で、ざっくり言うと周囲に電波を出している他の無線機がないかを受信機を使って判断しているのです。人間に置きかえるなら耳をすませて他に誰か喋っている人がいないかを判断しています。誰も喋っていなければ喋るチャンスですから、声を出しますが、会話でもあるように、沈黙が続いたあと、二人同時に喋り始めてしまうことがあります。これが通信で言うところの衝突にあたります。その場合、人間ならどちらが喋るかを譲り合って片方が続きを喋ると思いますが、機械はそうではありません。

 機械がどのように次の発信を行うタイミングを決めるかというとランダムな時間だけ待つということをします。そうすると複数台の機械がたまたま同じランダムな値を選んだとき以外であれば衝突しないということになるのです。それでも衝突した場合にはさらに長くランダム時間だけ待機するので、同じ空間の中に無線機が多く存在すればするほどに同じ電波帯域を利用した通信の効率性はどんどん落ちていく可能性が高くなります。

 これは人間で言えば、大人数の会議に置きかえることができるかもしれません。誰が喋るかの空気の読み合いになってしまい沈黙が訪れたり、延々と喋り続ける人がいて、他の人が喋る機会を得られなかったりするでしょう。同じ空間にいる人が、一度にひとりしか発言できないなら、会議に参加する人数が増えれば増えるほど、そこで得られる情報は減少します。会議で各メンバーの発言を多くしたいなら、人数を十分絞るべきという学びがここにあります。

 

 CSMA/CAは例えば無線LANで利用される方法ですが、あまり効率がよい方法とは言えません。これは無線LANは免許不要で利用できる電波帯域を利用しているため、全ての端末をコントロールすることができないからです。

 例えば、無線機が通信するタイミングを完全にコントロールできるなら、通信する時間のスケジュールを上手く調整することで衝突を回避できるという方法もあります。これはTDM(時分割多重)と呼ばれる手法です。

 これも会議に置きかえるなら、話す順番を事前に決めたり、その場で決めることができる司会が存在することで、喋る順番を割り当てていくことができ、全員の発言を促すことができるということになります。しかし、自分が割り当てられた時間以外に好き勝手喋る自由はありません。

 方法には向き不向きがあります。ここで紹介した以外にも、大人数の人間同士のコミュニケーションに応用できる様々な手法が、機械では採用されています。そして、それらの中から、今この場でどのような振る舞いが求められているかによって、適したコミュニケーションの方法を選ぶ必要があるのです。

 

まとめ

 さて、この文章は専門知識がなくても意味が分かるように書いたつもりなので、「正確性」についてある程度の配慮をしている一方、文章が長くなり「効率性」が落ちてしまっています。そして、ブログという場所は基本的に一方通行な情報伝達なので、「確実性」や「応答性」は全然ダメです。最後の「社会性」については、別に読んでも読まなくてもいい文章なので、毀損するようなものにはなっていないはずです。

 しかしながら、インターネットには書かれた文章が長いと分かると怒る人がいるので、念のため最初にこの文章は長いですよという注釈を最初の方に入れました。

 

 僕が今回書いた文章の意味はちゃんと伝わったでしょうか?上手く伝わる人がいるかもしれませんし、伝わらない人もいるかもしれません。人から人に何らかの情報を伝えるということは難しく、そこには沢山の工夫があります。機械は色々な工夫を取り入れていますが、元を正せば全て人間が考えたことです。我々人間も、機械を真似することで、そういう技術を獲得しながら、より上手く人に情報を伝えられるようになりたいものですね。

 おしまい。

ミュシャ展に絵を見に行った話

 始まってから何回か行こうとして六本木まで行くのがめんどくなってやめてたミュシャ展に、そろそろ終わると思ってあわててこの前の日曜に行ってきました。開催終了期日を翌日に控えた日曜日なので、完全に混雑が予想されましたが、朝の8時40分ぐらいに乃木坂駅国立新美術館に繋がる出入り口に行くと、9時頃には館内に通してもらい、9時半から繰り上げて開場(本来は10時開場)、そこからはほどなく入場できたので、意外と待つこともなく見ることができました(とはいえ、よく考えたら開館までの時間を含めて1時間以上は待っているので結構待っているのかもしれません)。

 

 入り口を入るなりスラヴ叙事詩という連作の大きな絵が沢山あって、めっちゃよかったです。進んでいくと見知った感じの小さめの絵もあって、下描きや修作などもあって、めっちゃよかったですし、総じてめっちゃよかったなあと思いました。

 

 オタクと言えばミュシャの絵が好きなことでお馴染みで、僕はオタクなので、ゆえにミュシャの絵が好きということが分かります。僕は漫画のオタクであって、美術に対する造詣は全然ないんですけど、ミュシャの絵は漫画っぽいなあと思うところがあってそこが好きなんじゃないかと思います。

 もちろん、ミュシャの絵は100年以上前の絵なので日本の漫画の隆盛よりもずっと昔のものですし、ミュシャに影響を受けた漫画家も沢山いると思うので、「ミュシャが漫画っぽいのではなく、漫画の絵の方がミュシャっぽいんだよ!」というと、そうなのかもしれません。ただ、直接的な影響というよりは、生態系における似た立場や環境にいる生物が、系統は異なっていても似たような形質を獲得する、収斂進化のようなものを感じたのです。

 その共通点とは、ここではつまり、「線に対するこだわり」ではないかと思いました。

 

 線によって絵を描くということは、鉛筆やクレヨンを持てばみんな当たり前にやることなので、当たり前に受け入れていると思いますけど、結構特殊なことだと思います。なぜならば、自然の中に線で構成されているものはあまりないからです。色と色の境界や、物が形作る光のさえぎりである輪郭などを概念としての線に落とし込み、場合によっては本物の形から崩してデフォルメすることで、物を描きます。それは写真のような直接的で具象的なものではなく、もっと間接的で抽象的なものです。

 抽象的であるということは、線で描かれた絵を見るとき、そこで描かれているものを理解するには、何かしらの解釈が必要だということです。

 つまり、線で描かれた絵が発しているメッセージとしては、「描いた対象そのもの自体」だけでなく、同時に「それがどのような種類の解釈を要求しているのか」ということもあるのではないでしょうか。対象を絵に変換するときに、どのような理屈によって線に落とし込んでいるかによってその絵を描いた人の流派というか、出自というか、これまで何を見て影響を受けてきたかのようなものを読み取ることができます。それはある種の圧縮アルゴリズムの提示とも考えることができるでしょう。そのような形式で圧縮されたものは、正しい手続きによって展開されなければなりません。

 つまり、線で描かれた絵は、その描き方によって、それを描いた人が属する部族と、それをどの部族に見せるために描いているかの情報も含んでいるように思うのです。

 

 なので、例えば1970年代の漫画の絵は、多くが1970年代の漫画の線で描かれているので、絵を見ると、1970年代の文法で描かれたような絵だなあと思うでしょう。そのような絵には、その時代の絵に慣れ親しんだ人しか読み取れない情報が込められているかもしれません。そして、そのような絵から古い時代性を読み取って拒否する人もいれば、むしろ今の絵よりも好きだと思う人もいるでしょう。

 今の時代でも、それらの時代の絵を先祖がえりのように描く人もいます。そこにはその線で描かねばならない何らかの文脈があるのではないでしょうか。つまり、線で描かれた絵というものは、何かしらそれを見る人に解釈を要求し、それゆえに見る人の種類を限定する要素を持ち得るということです。

 となれば例えば、オタクが好むような文法で描かれた絵があれば、それは描いた人がそのような文化に慣れ親しんでいるという表明でもあり、それを好むことは、自分もまたその文化に属しているという表明でもあります。オタクっぽい絵に対する拒否感を持つ人がいますが、それはつまり、そのような絵による表現の授受を行う行為は、そのような文化に属するということも意味するからだと思っていて、何らかの絵柄を好む好まないということはある種の社会的立場の主張のひとつでもあると僕は思っています。

 

 繰り返しになりますが、線を使って絵を描くということは、線ではない写真などの場合と異なり、その解釈に何らかの文脈を要求するものであり、ここに漫画とミュシャの絵を結び付けるものがあるのではないかと思いました。

 

 余談ですが、「線で描く」ということが、「どのような線を選択するかという文脈を要求する」ものであるのだとしたら、線を使わない絵であれば、文脈の要求がそれよりも少なく、普遍性を持ちやすい効果があるということになります。なので、線を使わない代表的な表現である写実的な絵画は、その時代性を感じにくく、対象が写真であった場合もまた同様でしょう。

 また、デフォルメしつつ線を使わない画風といえば、最近では「いらすとや」の絵などが線を極力排した絵で表現されています。もしかすると、だからこそ絵柄に対する拒否感を与えにくく、色々な場所で広く使われやすいのかなあとか適当なことを思ったりしました。

 

 さて、前述のようにミュシャは線で絵を描く人ではないかと思っていて、それは演劇の広告で世に出てきた人であることと不可分ではないのではないかと思いました。つまり、印刷技術の制約によって、カラーの絵を量産する技術がまだ限定的であった時代に練られた画法なのではないかということです。油絵のようなカラーのグラデーションをおいそれと使えない制約の中で生まれる技法は、白黒印刷を前提とした日本の漫画における技法と求められる要素が近い可能性があります。

 ただし、異なる点もあります。日本の漫画が最初からデフォルメされた絵を前提として発達していることとは異なり、ミュシャの絵は実在の役者を線で表現するというところから始まっています。なので、のらくろや初期の手塚治虫の漫画などとミュシャの絵を比べれば、さほど似ているとは思わないでしょう。

 しかしながら、漫画の画風が時代の流れに従って写実性を取り込み始めると状況が異なってきます。つまり、ミュシャは具象から抽象に向かう動きであり、漫画の絵は抽象から具象に向かう動きを見せていて、それらがぶつかる特異点のひとつがあの画風なのではないかと思いました。これはつまり、出自は違っていても、目的地が似ているために、似たような表現に到達したということです。

 もちろんこれはかなり乱暴な言い方で、「日本の漫画の絵」というものは多種多様な要素を含んでいるので、一概にこうと言えるものではありません。現代では写真をベースに絵を起こすことも一般的ですし、美術的なデッサンの方面から漫画にやってくる人たちも沢山います。このように、ミクロであれば異論は沢山思いつけますが、ざっくりとしたマクロな方向性の話として続きを書いています。

 

 共通するものが見て取れるからといって、日本の漫画でよく使われている線を使って抽象的に具象的なものを表現するという技法が、全てミュシャに由来するものであるとは思いません(無論影響を受けた人たちは数多くいるでしょうが)。しかしながら、それぞれの時代時代の日本の漫画家が試行錯誤して作り上げ、その読者であった人々が漫画家となることで、さらにそれをベースにして作り上げ、練り上げられてきたと思われる、現代の漫画の「線で絵を描く技法」のうちの多くのものが、おどろくべきことに100年以上前のミュシャの絵の中で沢山見つけることができたりします。なので、これ、ひょっとして「正解」なんじゃないですか?みんなが試行錯誤しているときに、実はずっと前にとっくに「正解」が提示されていたわけじゃないですか?とか思いました。

 ともあれ、そんな感じに、ミュシャの絵と漫画の絵が、なぜか同じ形質を獲得しているという様相が、面白いというか、ミュシャおじさんはたった一人で漫画の歴史を体現するのかよ!とびっくりしてしまったりするのです。ただし、僕が同時代の作家に詳しくないので、一人でそこに到達したのかどうかの部分は本当にそうか認識があやしく、もしかすると、昨今の日本の状況のように様々な試みと切磋琢磨があったのかもしれません(近い時期の線画による表現では、ロートレックも印象的です)。

 

 初期の広告用の絵とは異なり、テンペラや油彩で描かれたスラヴ叙事詩は線画ではありませんが、その画法の中に沢山の線を読み取ることができます。線は最終的に消えてしまっているものの(一部残っている部分もありますが)、その元に線があったことを想像できる絵作りになっているように感じました。

 それは例えば、大きな絵の中の小さな一角のみを切り取ってみたとき、そこにあるのが平面に見えたりするというところから推察できます。線画の場合、線の描かれていない領域は平面だからです。にもかかわらず、全体を見てみると立体として見て取ることができます。絵には奥行きがあり、そして浮き上がるように描かれたレイヤ構造もあります。

 線で区切られた領域は何も描いてないので平面なんですけど、線を重ねることで、平面の領域を細分化し、その疎密によって立体感を生み出すことができます(メビウスの画法にも通じるところがあり、こちらも漫画の絵に強く影響を与えていますね)。スラヴ叙事詩の絵では、なんかそういうことをしているように思いました。そんでもって、なんというかこう、空間を描いたというよりは、奥行きごとに描いたレイヤを何枚も重ねたような印象があって、手前、中央、奥というように大きく分類され、それぞれに別の解像度と立体感が設定されて描かれているようで、そのために必要な最小限の描き込みがされているという印象を持ちました。そして、もうひとつ印象的なのが、画面の中に黒ベタがないんですよね。

 僕とかの場合、絵を描くときに黒ベタを入れたくてたまらないんですけど、なぜなら、黒ベタは上手く形をとれないときにごまかす上ですごく便利なやり方だからです(上手な人はそういう使い方をしないと思いますが)。黒をベタっと画面に置いてみるとと、そこが落ちくぼんだように見えるので、簡単に画面に手前と奥を表現することができるのです。なので、立体感を演出したいときには、とにかく、その正確性は無視って暗くなりそうなところを塗りつぶしてしまったりします。その黒ベタはベタっと塗っているだけなのでディテールは一切ありませんが、周囲に細かくかいておくと見る人が勝手に見えないディテールを補って想像してくれるので便利です。でも、ミュシャの絵にはそういうところが一切ありません。陰となる部分にも丁寧に書かれた詳細があり、その情報をもって立体が表現されています。

 

 人間の目は明暗に非常に敏感にできているので、白いところと黒いところがあると、目の前にある光景の関係性を忖度して、むしろ誤解を深めてしまったりします。そのよい例が、以前デイリーポータルZであった、人が座っている手前に黒い丸のシートを置くと浮いているように見えるというやつなのですが、なんとなく黒いところを見て、これが影なんだなと思い込んで、これが影だと言うことは、その上に見える人は浮いているんだなというような解釈をしてしまいます。

portal.nifty.com

 それは錯覚なので、本当は間違っているって話なんですけど、でもそう見えるということが面白く、こういう細かい誤魔化し方を使って僕なんかは絵をちゃんとした形もとらず、影も計算せず、雑に描いているんですが、そのときに便利なアイテムである極端な白と黒を封じられたら、そういうごまかしができないわけで、ミュシャの絵はそんな感じに極端に白いところも黒いところもなしに描かれていて、すごいなあ、上手いなあと思いました。

 ただ、それは別にミュシャだけの特徴ではなく、ちゃんとした絵を描いている人ならできることだと思うので、ただただ僕がちゃんとしてないという事実が分かっただけかもしれません。

 

 そういえば、僕は中村明日美子の絵がすごく好きなのですが、中村明日美子も平面なのに立体で、奥行きをいくつかの平面に分けたレイヤ構造のようになっているのに、そのレイヤ同士が騙し絵みたいにぐんにょり繋がっているというような不思議な絵で、ミュシャとは画風は違いますけど、方法論には共通する部分があるんじゃないかなあと思ったりしました。

 

 線を使って絵を描くことで、写実とは異なる、解釈を求める絵が出来上がります。そして、そんな線を使って写実を取り入れた絵を描こうとすると、平面と立体を取り持つような不思議な絵が生まれると思います。

 それは、単純化と詳細化が作者の意図によってコントロールされている、見せたいところとそうでないところを区別した、「伝えるための絵」になっているのではないでしょうか。そして、線で描かれた絵はある種の暗号なので、それを解釈するための素養と言うか、共有すべき文脈があると思います。そんな中、現代の日本人は漫画の読者であることでそれを既に持っている人も多く、ミュシャの絵も十分に解釈して受け入れることができる能力が子供の頃から鍛えられているんじゃないかなと思ったりしました。

 

 絵を見ながら、こういうことをごちゃごちゃ思って、それが頭の中をごちゃごちゃ流れていったりしました。そんでもって、そのうち何にも考えずに、近くで一部をしげしげと見たり、離れて全体をぼんやり見たりして何時間も見続けていたんですけど、人が沢山いなければ、もっと長時間いれたなあという気持ちがあり、また、沢山の人が絵を見たくて美術館に来てるというのもよい光景だなあという気持ちなどがあり、とにかく会期ギリギリでも行ってよかったなあと思ったりしました。

 よかったよかった。

感情とそれを理性で制御すること関連

 少し前、身内が亡くなった。僕はその報せを受けてああそうなのかと思った。身近な人が死ぬのは初めてではないし、看取ったこともある。良くも悪くも最近ではそういうことに慣れてしまったような気がする。

 

 小学四年生のときにひい婆ちゃんが亡くなった。それは僕にとって物心ついてから初めて経験する身内の死だった。僕はとても悲しくて、その報せを聞いたあと、誰もいないところに移動してすごく泣いてしまった。その夜、お通夜に行って、なんだかとても黄色くなっていて、ぴくりとも動かなくなったひい婆ちゃんを見た。人の死とはこういうことなのかと思った。

 学校のクラスの朝の会で一分間スピーチの当番が回ってきたのが、たまたまその次の日だった(親の判断でお葬式には出ずに学校に行った)。そこで僕はひい婆ちゃんの話をしようとした。というか、そのことで頭がいっぱいだった。口に出すとまた泣きだしてしまいそうなのをこらえて、それを押し殺すように精一杯の作り笑顔で「昨日、ひい婆ちゃんが死にました…」と口を開いた。すると、当時の担任の先生の怒号が飛んだ。「人の死を笑いながら口にするとは何事だ!」。僕は強く叱責され、教室の前にひとりで立ちながら、堰を切ったように泣きだしてしまった。それがなんだかとても恥ずかしくて、また、自分の感情をこれっぽっちも分かりもしない担任にも腹が立って、色んな感情が頭の中を暴れてしまって、自分にはもうどうにもならなかった。

 今となれば、人の死についてへらへら笑いながら喋る子供に、先生が何かしら不安を抱くことは分からなくもない。

 

 当時の僕は感情がとても強く表に出る性格で、すぐに泣いたり、怒ったりしていたと思う。でも、感情を露わにすればするほどに周りの反応が引いていくのが分かるし、そんな自分がすごく嫌だったので、どんなことがあっても感情を押し込めるように努力をした。その甲斐あってか、中学生になる頃には、何があってもあまり動じないようになっていた。その頃からの僕しか知らない妹たちなんかは、いまだに僕が怒ったりして感情を露わにする光景を一度も見たことがないという。僕はそうなりたいと思っていたので、それは成功したということだ。

 

 感情をあまり表に出さない生活を続けていると、よいこともあるけど、悪いこともある。他人が僕にしてくれたことについて、僕が適切なリアクションをとらずに、全部吸い込むブラックホールのような態度をとってしまうようなことがあるからだ。それによって、相手をすごく弱らせてしまうことがある。言うなれば闇に向かってボールを投げて、それが何かにぶつかった音もなければ、返ってくる様子もないようなものだ。手ごたえが何もない。誰だってそんなことは続けられないだろう。

 誰かが何かをしてくれたときに、僕は心では嬉しいと思っているのだから、全力で喜んだりすればいいし、好きなものを見たときなんかには熱狂的に興奮してもいい。そして、嫌なことをされたと感じたなら怒ったりすればいいはずなのだけれど、自分で自分の感情につけた枷がそれを素直に表すことを許さない。

 僕に何かをしてくれる親切な人たちが、僕が喜んでいるのか悲しんでいるのか怒っているのかよくわからず、よくわからなくなるから嫌になってしまうと伝えてきたこともある。こういう経験を思うと、多分、素直に感情表現できた方が、人と上手くやっていくにはきっといいということなのだろう。そう思って、だから頑張ってそうしようとはするけれど、もはや上手くできない。素直な満面の笑顔ではなく、口元をニヤリとしただけのぎこちない笑顔になってしまったり、仮に怒ったとしても、それを抑制する機構が強すぎて、すごく淡々とした語り口調になってしまったりする。

 僕はこういう人間に育ってしまったし、感情は、強い理性の枷の下に押し込められているのだと思っていた。それが他人にとっては決して中身を露わに見せようとしない胡散臭い人間であるように見える理由になるだろうし、一方、他人との軋轢を生まず、淡々と日々を送るために上手く機能している部分もあるのだと思う。だから、そうであること自体は別に悪くないはずだ。今の生き方は僕が望んだことで、そこに他人に対する申し訳ない気持ちがあることを除いては、大した不満もない。

 

 今さら身内が死んだということぐらいで動じたりはしないだろうと思っていた。それはとても悲しいとは感じているけれど、僕はもうそれを淡々と受け止められてしまうだろうし、葬儀の準備や相続の手続きを淡々として、それで終わりだろうと思っていた。あの日連絡を受けて、その日のうちに仕事を休むための調整をし、次の日の夕方までに手元の仕事は大体上手く一区切りつけて、飛行機で地元に帰った。事務的で淡々とした行動だった。

 

 お通夜の席には既に地元の親戚が集まっていて、僕は数ヶ月前の休みに帰ったときぶりに故人と対面した。何も動じないつもりだったし、実際、いつものように大した感情表現もなく葬儀の準備に既に動いてくれていた人たちの手伝いに加わった。

 人は誰でもそのうち死ぬ。それは誰にでも起こることだから、それ自体は決して不幸なことではないと思う。そもそも今回は遠からず死ぬかもしれないことは分かっていたから、会うたびにもうこれで最後の会話かもしれないとしばらく前から思っていた。故人との関係性で思い残したことは特にない。過ごすべき時間は過ごしたし、喋るべきことは喋った。何も問題ない。大丈夫だ。2日だけ休んで色々済ませたら、その次の日には仕事に復帰しようなどとそこまでの手順を頭の中で作ったりしていた。

 でも、ピクリとも動かなくなった故人の姿を横に、亡くなったときの様子の話を身内としていたら、自分でもびっくりするぐらいの感情が急に押し寄せてきてしまい、めちゃくちゃ泣いてしまった。そこには、理性で制御しようなんて、思うことも馬鹿馬鹿しいぐらいの強い感情があって、それは故人との間にあった数十年間の出来事がたった数秒の間に全部まとめて押し寄せてくる走馬灯のような感覚だった。

 一旦堰を切ってしまったら、もう押しとどめておくことは不可能だった。少しの刺激があれば、ボロボロ泣いてしまう感じだった。口を開けば泣いてしまうから、頑張って黙って葬式の準備に集中した。

 

 1日経ったぐらいではどうにもならなかった。徒歩2分のお寺の境内に仮設の葬儀受付を作らせてもらい、故人の遺影を抱えて、参列者を出迎えた。その間、ずっと泣いていたと思う。普段、感情回路が死んでいるような僕が、ずっとそんな調子だったので、色んな人に心配をかけてしまった。それが申し訳なかったし、恥ずかしかったので、どうにか抑え込もうとしたけれど、完全に無理だったし、どうしようもなかった。結局、葬式が終わり、火葬場に向かう霊柩車の中でもずっと泣いていた。

 人が死んだこと自体がショックだったわけではないと思う。何らかの後悔があったわけでもないと思う。そんなこととはまるで関係ない、意味も分からない、喜怒哀楽のどれに分類すればいいのかも分からない強い感情だけがあった。色んな思い出やなんやらがぐちゃぐちゃに混ざった塊だった。その奔流を前にしては、理性は障子紙で津波を止めようとするぐらいの頼りない力しかなかった。

 

 まさか自分が、遺影を抱えながら泣きじゃくる人なんかになるとは思わないわけじゃないですか。でも、なるんだなと分かった。自分の持ち合わせているような理性みたいなものでは、強い感情を押し込めることなんて、どだい無理なことなんだという実感だけが強く残った。

 

 自分にとっては感情なんて大した力のないもので、どんなことがあってももう動じないぐらいの鉄の精神があって、どんな悲しいことがあっても、変わらず動けるような情の薄さが自分だと思っていた。けれど、それはただそう思い込んでいただけで、実際はそうではないと分かった。

 そんなふうに、どうしようもないことがあることが分かったので、これからはどうしようもないこともあると思って生きていくべきだなと今では思っている。ただ、だからといって、普段はやっぱり相変わらず、感情があるんだかないんだか、ボーッとしてへらへらと笑っていて、何があっても別に怒った態度も悲しんだ態度も見せずに、喜び方も悲しみ方もなんか他人に伝わるように出すことが下手くそで、そんな感じで生きている。でも、どこかの何かは決定的に切り替わってしまったような気がしている。

 

 人間の持ち合わせる強い感情的なものを実感したあとでは、それを理性で制御しようだなんておこがましいとは思わんかね?と、大自然の雄大さを目の前にしたちっぽけな人間の姿のようなものを思い浮かべる。何もないときには理性でなんでも思ったように制御できるような気持ちでいても、強い感情に決して抗えない状況というものはこの先きっとまたあるだろう。

 そう思って、最近は生きてる。

物語のグラフ複雑性問題について

 お話の展開が分かりやすい漫画と分かりにくい漫画というものがあると思います。そこにはいくつかの原因が考えられますが、代表的なもののひとつはストーリーのグラフの複雑さに起因するものじゃないかと思っています。

 ざっくり言うと、今紙面上で起こっている展開を理解する上での手がかりが、過去の展開のどこにあるかということが分かりやすさと密接に関係しているということです。

 

 この状況の分かりやすい例で言えば、沢山の人が集められて大金や命をかけたゲームをするという種類の漫画です。その手の漫画の場合、ゲームのルールはお話の序盤に提示され、読者は物語を読み進める上でこのゲームがどのようなルールで行われているかを把握しておく必要があります。なぜならばルールを正確に理解しておかないと、そのルールの穴をつくような驚愕の展開があったとしても、ルール自体がよく分かってないので、どんでん返しであることが理解できないからです。

 これがその状況の模式図です。

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 起承転結の「起」でルールの説明が行われ、「承」でそれを受けたゲームの展開があり、「転」でルールの穴をついたどんでん返しがあって、「結」でお話が終わります。図中の点線は、現在の状態を理解するために、どの過去の出来事を参照する必要があるかを示しています。

 つまり、「起」は何の前提もなしに理解することができますが、「承」は「起」で示されたルールを理解しておく必要があり、「転」では「承」の状況に加えて「起」のルールも理解しておく必要があります。「結」の場合は、最初に何があってこの結末があるのかを理解する上でも「起」を把握しておく必要があるでしょう。

 実際の漫画連載では「承」が非常に長く続いたり、「転」が「承」を挟んで複数回存在していたりもします。その場合も直前の状態に加えて、常に「起」を参照する必要があり、長期連載の場合は、「起」が何年も前に説明されただけの状況もあるので、途中に「起」と同様の説明が繰り返し挿入されたりもしますね。

 

 分かりやすい物語を構築する上で大切なことは、読者が何を把握していて何を把握していないか(忘れてはいないか)を、作者側が上手くコントロールすることだと思います。

 それが上手くいかないと現在の登場人物たちが何を前提として行動しているかが分からず、お話の内容も上手く理解できなくなってしまいます。ただし、その「何をちゃんと憶えているか」は読者ごとに違いますし、連載途中から読み始めた人だっているかもしれません。作者側にはコントロール不能なことも多々あるでしょう。それでも、できるだけ分かりやすくなるように多くの漫画は作られているものだと思います。

 

 作者にコントロール不能な状況と言えば、例えば僕は「ジョジョの奇妙な冒険」を第三部の途中から読み始めたのですが、ダービー(兄)戦での魂を賭けたギャンブルにおいて、主人公の承太郎が、怪我で入院中の花京院の魂を賭けたことに驚きました。なぜならば、僕が読み始めた時点で花京院は怪我で一時退場しており、その存在を知らなかったからです。つまりその展開を読んだ小学生の僕は「知らない人の魂をいきなり賭け始めたぞ!!」と思いました。そして、その後に承太郎の母ホリィの魂まで賭け始めるのですが、僕はそもそも彼らの旅が何を目的としているのかも分かっていなかったので、そうか、この人たちは承太郎の母親を助けるために旅をしていたのかーとようやく理解することになりました。

 そのときの僕は、旅の目的を知らなくても物語を楽しむことができたのです。そしてこの物語に登場するスタンドという能力の設定も、途中からいきなり読み始めても理解することができていました。これが意味するところは、ジョジョの面白さは少なくとも小学生の僕にとって、彼らの旅の目的とは関係ないところでも発生していて、途中のエピソードから読み始めても十分理解できる面白さで満たされていたということだと思います。

 

 読者を途中からでも呼び込みやすい漫画は、少なくともこのような面白さを持っているものではないでしょうか?特殊な設定や用語があり、沢山の登場人物が存在していたとしても、ある一話を読んだだけで展開が理解できる内容になっているということが重要だと思います。もちろん特殊な前提はあってもいいですし、理解できていればより面白いと思いますが、それなしでも理解できるお話であれば、途中から読み始めることがとても楽になるでしょう。

 その模式図がこれです。

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 現在の展開を理解する上で、過去の複数の出来事を理解しておかなければならない物語は、その複雑さが面白さを生み出していることも間違いないですが、途中から読み始めたり、過去の展開をちゃんと憶えておかない場合に、今何が起こっているかを上手く理解することができません。そこに分かりやすさと分かりにくさがあり、新規読者の参入障壁となり得るのではないでしょうか?

 このような考え方により、ある物語が分かりやすいか分かりにくいを判別するには、例えば、作中の一話を切り取ってみて、そこで起こった展開や固有名詞を理解する上での手がかりが、その一話の中にあるかどうか?もしないのならば、それでもなんとなく理解できる内容であるのかどうか?あるいは、過去の展開を覚えておく必要がある場合、それはどれぐらい前に説明されたものなのかどうか?という辺りを考えて繋ぐ線を引いてみると、その複雑さを評価できるのではないかと思います。

 

 ちなみに、このような状態と状態を矢印で結んだものを有向グラフと呼びます(皆さん御存知ですね)。繋がりを抽象的に扱う場合に使う道具です。

 

 さて、ここまでは、状態に左から右への時間の流れがある中で、現在から過去に向かって参照するグラフの話をしてきました。しかしながら、物語の中には現在から未来を参照するグラフも存在します。つまり、例えば、全く説明されずに登場した用語が、お話がだいぶ進んでからようやく説明するようなケースです。これを伏線と呼ぶ場合もあります。

 この状態は、参照先がないままで状態を理解しなければいけないので、読者側からすれば多くなればなるほどにストレスが溜まります。英語の文章を読むときに分からない単語を分からないままで読まされているようなものだからです。一定量以上増えてしまえば、分からないことが増えすぎて文書を読むこと自体をやめてしまうかもしれません。

 しかし、今分からないことは気になることでもあるので、この未来を参照するグラフは物語の先を読ませようとする力もあるのではないかと思います。

 これを有効に使っているケースは最近では「ジョジョリオン」の序盤だと思っていて、物語の開始の時点で無数の分からないものが提示された上で、その意味が分かるということを毎回提示してお話を進めていました。ある謎が解消されたときに、また新たな謎を提示し、現れては解消される謎を追い続けることが物語の先を読み進めるモチベーションになりました。

mgkkk.hatenablog.com

 また、これを非常に極端に使っていた例では「BLAME!」があるでしょう。この物語では、主人公が「ネット端末遺伝子」というものを探しているということ以外は説明が乏しく、主人公の霧亥が何者で、何を理由に旅をしているのかは読者に明確に提示されません。物語を最後まで読んでも明確な答えがないものも大量にあります。この分からないまま読み続けるということが「BLAME!」の面白さの特徴であり、また、そういう作りであるゆえ、読み続けるのを脱落したという知人もいます。

mgkkk.hatenablog.com

 

 物語ではこのような過去や未来に向ける参照のグラフをどのように設計するかが、読者にどう読んで貰えるかをコントロールする上で重要な要素ではないでしょうか?

 物語にしばしば登場する「過去編」が熱心なファンに喜ばれるのも、過去編(過去と言いつつ物語の展開上は未来に位置するのでややこしい)は、過去にあった分からなくて先送りにしたことを一気に解消する状態遷移先であるからと考えることができます。

 一方、散々未来に参照先を先送りしておきつつ、その先には遷移する場所が何もないこともあって、その場合には怒る読者もいます(ただし、明確に説明することをしなかったというだけで作者の頭の中にはちゃんとある場合もあるそうです)。

 模式図が以下です。

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 このように考えると他の沢山の展開から参照される物語上の地点が、熱心な読者にとって喜ばれる状態だと考えることができ、また、その先が「ある」と思ったのに実は「ない」ことが読者のがっかりを呼ぶという考え方ができるかもしれませんね。

 

 こういうことを考えていて思うのですが、「カイジ」のシリーズに登場するギャンブルは、この考えに基づいて解釈する上で非常によくできているということです。

 エピソードごとに特殊なルールのギャンブルがあるということは最初に示したような構造上、現在を理解する上で過去を参照する頻度どうしても多くなってしまいますし、物語が分かりにくくなる要因になるはずです。

 しかし例えば、一番最初の「限定ジャンケン」や今やっている「ワンポーカー」などはゲームのルールが非常にシンプルです。これはつまり、ルールは最初に提示しなければならないものの、そのルールを参照するという行為が非常に軽いということを示していて、ジャンケンで勝つか、数が大きい方が勝ちというような、誰にでも理解しやすい状況に読者を集中させるという効果があると思います。

 なので、特殊ルールのギャンブルかつ、最近ではお話の進み方が非常に鈍重(「承」が多い)にも関わらず、状況が理解しやすいですし、作劇上の妙手だなあと感じます。

 そして、この前は伏せられたカードがひっくり返り終わるまでで1話使い、しかもそのカードが何であるかまだ分からないという、まるでアキレスと亀のような時間間隔の薄まりがありましたが、そこに、今までの状況とギャンブル当事者の心情の説明をきっちり入れてきており、これから起こりうることに対して、読者に把握して欲しいことをしっかり提示してきたのがまた手練れだと思うと同時に、うるせえ!!おれはわかってるから、早く先を読ませろや!!!!!という気持ちがすごく沸き上がってきてしまってたいへんでした。

 

 今週のヤングマガジンでカードの中身もようやく分かったことですし、状態遷移先がきっちりあってよかったですね。何の話だったか分からなくなったので、この辺で終わりにしますが、みなさんも読んでいる物語がどれぐらい複雑なのか、グラフを書いて検証してみてもいいかもしれませんね。

 先生はめんどうくさいのでやりません。

「シュトヘル」の最終巻を読んで感じた人生の微積分関連

 先日、「シュトヘル」の最終巻が出ました。雑誌でも読みましたが、単行本でも読んだので、思った話を書きます。

 この漫画は現代の高校生の少年スドーくんが不思議な少女スズキさんと出会ったことをきっかけにその精神がタイムスリップしてしまい、チンギス・ハンが生きていた時代の中国に辿り着くというお話です。少年の精神が入ったのは悪霊(シュトヘル)と呼ばれる戦う女性であり、少年はシュトヘルと精神を共存しながら、戦場を生き抜いていきます。

 

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 この物語が描くものは何なのか?なぜ現代の少年の精神が過去に遡らなくてはいけなかったのか?それは、玉音同という文字板の登場により徐々に明らかになっていきます。玉音同とはモンゴルにより滅ぼされつつある西夏の国の文字が記されたものです。それさえあれば、国は滅んでも文字が残り、残された記録を読むことができるようになります。

 国は消え、人は死すとも、文字が残れば、そこに人が生きた証も国があった証も残ります。スドーくんが現代から過去に時間と場所を超えて辿り着いたように、文字もまた過去から現代に時間と場所を超えて辿り着くものです。その未来と過去の交錯地点がこの物語の舞台であり、文字を残そうとする者と文字を消し去ろうとする者の戦いが描かれます。

 

 この物語は西夏の文字の存亡を描くもので、それはつまり、過去に生きた人々の存在を描くものでもあります。なぜならば、文字による記録なしに、我々は過去に生きた人々についての仔細を知ることができないからです。

 文字に残らないために、今現代の我々が知ることのない過去の人々は無数にいるでしょう。文字に残らないために、かつてあったのに、今では存在さえ知られていない国もきっとあるでしょう。

 残るということは、出会えるということです。広い世界、長い時間の中で、人と人が出会えるのは奇跡のようなことです。しかし、文字を通してならばその可能性は大きく広がります。今僕が書いているこの文章も、対面では一生出会うことのない人が読んでいるかもしれませんし、なんらかの形で残ることがあれば、十年後や百年後の人々が目にする可能性もあるかもしれません。

 

 人が生きたということ、人が出会うということ、それを拡張し増幅することができる力を持つのが文字であって、裏返せば、文字を破壊しさえすれば、人が生きたという事実も、それらの人が時代や場所を超えて出会う可能性も消し去ることができます。

 この物語における、モンゴルのチンギス・ハンがやろうとしたことはそういうことで、自身の背に刻まれた屈辱的な文字の意味を無にするために、それを刻んだ国だけではなく、文字の存在すら消し去ろうとします。

 

 僕がこの物語において一番胸にキた部分は、人の死についてシュトヘルが語る場面で、敵側の男が自分に縁のある男の死にざまを問うたとき、無惨に死ねばその人生は無惨なのか?とシュトヘルは答えます。その人生の結末がたとえボロクズのように無残で悲惨なものであったとしても、それまで生きた彼らの人生の道程までもが無に帰するようなものなのかと。

 

「きどって死ねた方がえらいのか。犬に食われ間抜けに死んだなら、その男の生きてきた年月も間抜けというわけか。無惨に死んだなら生きた年月も、無惨か!どう死のうが生が先だ。食って寝てそこにいた。いつも生が死の先を走る。死に方は生き方を汚せない」

 

 彼女はかつて生きていた者たちについて思いを馳せながら、その言葉を口にします。そして、彼らが確かに生きたという証もまた、文字によって残り、伝えられるのです。

 

 人の幸不幸の考え方には、微分して感じるものと積分して感じるものがあると思います。微分した幸不幸とはつまり、その瞬間瞬間でその人の精神が幸福を感じているか不幸を感じているかということです。そして、積分した幸不幸とは、人生を一定期間で切り取って、その集積が幸福であるか不幸であるかを感じるということです。

 僕は自身の幸福感について都合よく考えるためには、その両面の捉え方があった方がいいんじゃないかと思っていて、辛いことばかりの人生だったとしても、最期に報われたことで、積分すれば幸福な人生であると思えるかもしれません。あるいは、積分すれば辛いことばかりの生活でも、微分した一瞬の幸福を抱えて生きることもできるはずです。

 

 そして、幸福感を時間で積分するなら、その範囲の捉え方は無数にあります。人生の一部を短く切り取って幸福を覚えてもいいはずですし、自分の死後何百年も先までを切り取って、そこに意義を見出してもいいはずです。積分した幸福によって、微分した不幸を乗り越えることができます。また、積分した不幸の中でも微分した幸福を感じ取ることもできます。それらは別個の独立した視点であって、微分した幸不幸は積分した幸不幸を否定しうるものではありませんし、積分した幸不幸もまた微分した幸不幸を否定しうるものではありません。

 

 どんなに恵まれた人生でも、ある一瞬がたまらなく不幸だと思えることはあるでしょう。どんなに悲惨な人生でも、幸福を感じることができた一瞬ぐらいはあるはずです。そういうのを都合よく使い分けていい感じにやっていくことが大事だなあと僕は思っています。

 

 シュトヘルの登場人物たちの中には悲惨な最期を遂げた人々も沢山います。でも、彼らの人生を積分したときに、そこに意味はなかったでしょうか?それは彼らが生きてきたそれまでの話でもあり、彼らの死の先に残ることができた文字の話でもあります。

 シュトヘルの登場人物たちは、現代に生きるスドーくんとスズキさん以外は全員どこかで死にます。なぜなら人間はいずれ死ぬものだからです。スドーくんとスズキさんもいずれ死にます。幸福な死の瞬間、不幸な死の瞬間、その在りようは様々でしょう。でも、それらは人が死んだ話ではなく人が生きた話でしょう。

 そして、彼らが生きたことで守られた文字によって、本当なら出会えるはずもなかった人々が出会ったお話です。

 

 なんか、そういうことを感じたのがすごくよかったなあと思ったりしました。

「悪魔を憐れむ歌」が売れてほしい話

 梶本レイカの「悪魔を憐れむ歌」の第1巻が発売になりました。僕はこの漫画にすごく売れてほしいと思っているので、普段は漫画について自分の中で内向きの感想文しか書いていませんが、珍しく外向きの紹介文として書こうという気持ちでいます。

 

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 「悪魔を憐れむ歌」は「箱折事件」という、人間の関節という関節が逆向きに折り畳まれ、箱に綺麗に仕舞えるような四角い形にして殺されるという奇っ怪な事件を巡る物語です。

 主人公は事件を追う北海道警察の阿久津、そして、この事件の犯人である医者の四鐘でもあるかもしれません。阿久津は事件を解明しようとする過程で、協力者として四鐘と出会います。阿久津は四鐘が事件の犯人であることをまだ知りません。

 

 さて、まだまだ物語は序盤なので、様々な分からないことが存在します。果たして、四鐘の目的は何なのか?なぜ人間を箱のように折り畳んで殺し続けているのか?殺人モードになった四鐘が口にする言葉は意味ありげで、格好良く、そしてまだまだ上手く意味をとることができません。しかしそれはまだ分からないというだけで沢山の意味を含んだ言葉であるということは感じられます。それらの言葉の意味を上手く分かりたいと思う心が、僕をこの物語に惹きつけています。

 今確かなのは、四鐘が何らかの目的を持って箱折死体を「オペラ(作品)」として作り上げているということ。彼の左手には聖痕のような傷跡があるということ、そして、彼の本名は四鐘ではなく(その身分はおそらく本物の四鐘先生から奪ったもの)、別の名の何処かからきた何かだろうということです。

 

 そんな謎めいた四鐘先生は、阿久津に密かに「私がお前のメフィストーフェレ」と呼びかけます。四鐘が阿久津にとっての悪魔メフィストーフェレならば、阿久津はファウストなのでしょうか?ファウストは、ため込んだ知識を無意味と断じ、再び若い肉体を得ることで、何かを掴もうとした悲しい男です。メフィストーフェレは、契約の代償として、そんなファウストの魂を欲します。

 阿久津もファウストのように何か欠落を抱えているのでしょうか?四鐘は、そんな阿久津に力を貸し、何を成し遂げようとしているのでしょうか?

 

 四鐘はまた、阿久津にギガス写本についても語ります。ギガス写本は狭い部屋に閉じ込められた僧侶が、悪魔と契約して一晩で書き上げたという伝説のある聖書の写本です(ただし、作中では神の御使いとの契約と表現されていました)。神の言葉を記したその聖書には、悪魔の姿もまた記されています。つまり、その存在は聖なるものであり、なおかつ邪悪なものであると言えるかもしれません。

 では、箱折られた犠牲者たちは、閉じ込められた僧侶へのなぞらえでしょうか?四鐘は自身を箱折刑(インクルーサス)と表現します。であるならば、四鐘が犠牲者を箱折る行為は、その過程で神の御使い、あるいは悪魔を呼び出すための行為と考えることができます。箱折事件によって四鐘の前に現れることとなった阿久津は、神の御使いなのでしょうか?あるいはその名にかかる通り、彼もまた悪魔なのでしょうか。

 まだまだ分からないことだらけです。

 

 僕は今のところ、この物語を「正義と悪」を巡るものではないかと思っています(作中にそういう語りがあるので)。では、正義とは何で、悪とは何なのか?もし、正義の存在を証明するために、打ち倒されるべき悪が必要とされるならば、つまりその主体は実は悪の側にあり、正義こそが最も悪に依存する概念であると言えます。

 阿久津と四鐘、どちらが正義でどちらが悪なのか、あるいは、どちらもその両方を兼ね備えている存在なのか。それはこの先のお楽しみです。ともあれ、おそらく、四鐘は箱折事件を起こさなければならなかったし、それを阿久津に追われなければならなかったのだと思っています。なぜならば、それこそがこの物語に、正義と悪の相補な二元を生み出す行為だからです。

 

 今現在、世の中には正義が溢れています。

 

 そしてそれらの正義の中には、悪を糾弾するという方法で主張されているものも多くあります。思い出してみてください。自分の正しさが、自分自身の存在のみで主張し証明されるのではなく、自分とは異なる側に「打ち倒されるべき悪」を見出し、それを批判する形で表現されている光景を目にしないでしょうか?

 そこある正義は果たして本当に正義と呼べるものでしょうか?例えば、他人をバカだと指摘する人は賢い人でしょうか?他人をセンスがないと罵倒する人はセンスがよい人でしょうか?あるいは、他人を愛がないと否定する人は愛溢れる人でしょうか?

 間違っている人を糾弾している人が、また別の意味で間違っている人ではないということを、我々は何をもって確認することができるのでしょうか?

 正義とは実在するものなのでしょうか?

 

 この物語の中には間違いなく悪があります。悪によって人が傷つき、蹂躙され、恐怖で満ちた惨劇が繰り広げられます。それらの全てを吸い込むような悪なる黒は、もしかすると正義なる白をくっきりと浮かび上がらせるために存在しているのかもしれません。

 そして、その黒の存在がなければ、その白は実は大した白ではなく、濁ったグレーであるかもしれないのです。悪なる漆黒はここにあります。では、本当の正義なる純白はどこにあるのでしょう?

 

 同作者による、正常の異常の境を描いた「コオリオニ」や、願いと犠牲の天秤を否定しようとした「高3限定」のように、この物語もまた、お話を通じて何かを描こうとしているように思えます。それが何か、僕にはまだ想像することしかできません。しかしながら、だからこそ、この結末を見届けたいという気持ちが強くあります。

 

 皆さんもいかがでしょう?この物語がどこに到達するのか、見届けたいとは思いませんか?今ならその参加権を700円もしない額で買うことができますよ!

 

 こちらで2話まで試し読みができます。

www.comicbunch.com

「コオリオニ」と悪人正機

 「アナと雪の女王」が好きで、ブルーレイを買って何度も見ています。どこが好きかというと、雪の女王ことエルサのLET IT GOのシーンが好きという普通な感じです。

 それは、氷の魔法という他の人とは異なる特性を持ったエルサが、普通の人の中で暮らすためにその事実を取り繕って隠し、無いものであるかのように生きなければならないという強い抑圧のもとで生きているという苦しみの辛さと、その事実がついに暴露されてしまったことで人の中から飛び出し、雪山をひとり歩くという姿に心を打たれたからです。それは悲しいことなのかもしれません。モンスターと呼ばれ、人の中では暮らせなくなってしまった哀れな女王。そんな悲しい悲しい雪の女王が、高らかに歌い上げる歌が、あまりにも自由に満ち、力強かったということに非常に心が打たれたのです。

 彼女は普通の人からすれば危険な怪物に見えるかもしれません。それは望んで得たものではなく、生来の特性です。エルサは彼女らしくあるために、社会を離れ、雪山に作った氷のお城でたったひとりで暮らすことを決意します。

 アナ雪の物語では、エルサはその特性を上手くコントロールできるようになり、人の中で生きていくという結末を迎えます。そこには妹であるアナの自己犠牲的な奮闘もあり、エルサのアナを想う自己犠牲的な行為もあり、ついに人々に受け入れられ、エルサをモンスターと呼んだ男の方がむしろ排斥されることになります。

 エルサの生まれ持っていた氷の魔法の力は、普通の人々が持ち合わせないものではありますが、決して邪悪なものではなく、それを上手くコントロールしさえすれば、人々の中でも上手くやっていけるというお話です。とても優しいお話です。

 

 しかし、もしその特性が決して人の中で生きていく上で許容されないものであったとしたらどうでしょうか?人の中に生まれた、人が決して許容できないバケモノ、それはきっと、優しい優しいアナ雪の物語にさえも指の間をすり抜け取りこぼされてしまう、哀れな哀れな人々で、そんな人々を描いた漫画が梶本レイカの「コオリオニ」だと思います。

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 警察の威信をかけたノルマ達成のために犯罪に手を染めた刑事の鬼戸と、その鬼戸に情報やブツを流すヤクザの八敷、彼らは異常者として描かれ、彼らのその生来の特性は、他人の犠牲を伴う犯罪行為として表出します。

 彼らの生は、すなわち誰かの害です。彼らが生きたいように生きることは、別の誰かが生きたいように生きることを阻害し、その行為は明確な犯罪として描かれ、それゆえ彼らは社会のどこにも居場所がなくなってしまいます。

 

 鬼戸は、警察組織の不正を受け入れなかったために道を断たれた父を持ち、ああはなるまいと思って生きてきました。組織の異分子となり、そこに居場所がなることを恐れ過ぎるあまりに、不正行為を拒否せず受け入れ続けます。つまり、彼はその場において誰よりもまともであろうとしたために、組織でトップクラスの不正を働く男となり、そして、その何も拒否しない姿はもはや「異常」であると評されてしまいます。誰よりもまともでありたいと願ったのに、その願いこそが、彼を警察組織でトップクラスの異常な不正警官に押し上げる結果となりました。そして警察は、そんな尽くして尽くした彼を切ることを決断します。

 鬼戸は元からまともな人間ではなかったのかもしれません。まともであるかどうかということを、他者の言いなりになることでしか判断することができなかったのですから。鬼戸は、彼の前の敷かれたレールを踏み外さないことが、いかに異常であったかということを、もはや引き返せなくなったところで痛感します。

 

 八敷は、どこにも逃げられなかった男です。吹き溜まりのような地域で生まれ、父親からの虐待を受けて育ち、そこから逃げ出そうとしても、逃げ出す道すらなく転げ落ちるようにヤクザになります。

 八敷は可哀想な男です。少なくとも八敷の主観において、彼はあまりにも可哀想で行き場がなく、その犯罪行為に釣り合うと思えてしまうほどの喪失と不幸を背負っているように見えました。彼は相棒の佐伯に身も心も捧げていました。自分を父親から解放してくれた佐伯を慕い、彼のためならどんなこともするいじらしい男です。

 しかしながら、それらはあくまで八敷の主観的な話です。

 他者の視点を経由した八敷は、自由奔放に他者を蹂躙し、佐伯に尽くすというよりも、佐伯を利用して自己の欲望を解放している異常者のように見えました。彼の欲望はついには佐伯を飲み込み、自らの手で佐伯の頭を撃ち抜くという結末に至ります。

 

 この物語は鬼戸と八敷の物語です。この2人の異常者が、出会い、その生を肯定しようとするために巻き起こる、様々な事件の物語です。

 彼らは本当に悪かったのでしょうか?いや、きっと間違いなく悪いでしょう。彼らの犠牲になって理不尽に不幸落とし込まれてしまった人々が存在するのですから。彼らが自分らしく生きようとすることは罪なのでしょうか?いや、きっと間違いなく罪でしょう。もしそれが罪でないならば、彼らに不幸に叩き込まれた人々は、何に怒り、償いを求めればよいのでしょう?

 彼らは自分らしく生きることが社会における罪悪となってしまうような異常者です。いっそエルサのように社会を捨て、雪山に逃げ込むようなことができればよかったのかもしれません。しかし、現代社会では世捨て人のように生きることは困難です。彼らは社会の中で生きなければならず、そのありのままを受け入れてくれる人々もいないのです。

 

 鬼戸は自分の苦しみの理解者を、八敷は自分の欲望を具現化するための口実を互いに求め、そこには彼ら2人だけの氷のお城が現れます。どこにも行き場のない異常者によって作られた異常者のためのお城です。その中にいる限り、彼らにかかった氷の魔法は解けるのです。一方、その外の世界とは終わりのない戦争が続いてしまうのでした。

 城の外から見れば、彼らは凶悪な犯罪者であり、多くの人を不幸に陥れた悪に違いありません。そして、その城の中に足を踏み入れてしまえば、彼らは理解可能で弱く哀れな人間であるように思えるのです。

 どれだけ人が異常に見える行動をしていたとしても、彼らの主観には「それをすることこそが、今の自分にとって一番正しいことである」という理屈が存在していたりします。彼らにとって一番正しいことが悪となってしまったとき、彼らには救われる未来は存在するのでしょうか?いや、彼らも救われるべきであると彼らを取り巻く社会は思うことができるのでしょうか?

 

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

 

 「悪人正機」の言葉です。仏の教えは自発的に善なる行為を行える者よりも、悪なる行為に身を落としてしまうような者のためにこそあるという話です。

 しかしながら世の中では、悪は悪であるがゆえに、救済される必要がないという結論が導かれがちです。何か不幸な出来事があったとき、その人物が善と認定されるか悪と認定されるかで扱われ方が変化しています。例えば、渦中の人物の行動の中になんらかの瑕疵が存在した場合でも、「自業自得」という言葉が投げられることも多いのではないかと思います。他人に投げかけられる自業自得という言葉はつまり、自業自得であるからこそ、その人は救われる必要はないと突き放す言葉です。

 では、誰から見ても異論なく救われるべき人というものは、世の中にどれほどいるのでしょうか?そして、世の中に救われるべき人と、救われるべきでない人がいたとして、それを判断できるのは誰なのでしょうか?そこにもまた、誰に物言いをつけられることもなく判断出来る人と出来ない人がいるのでしょうか?

 

 鬼戸と八敷は、客観的に見れば救われるべき人だとはきっと思われないでしょう。それを思うには彼らは罪を重ね過ぎていて、そんな彼らが救われるのであれば、彼らによって不幸に落ちた人々に向ける顔がありません。

 道理から言えば、彼らは社会から排斥され、地獄に落ちるべきであると思われるかもしれません。ならば、彼らが迎えるべき道理のある結末は破滅しかありません。

 彼らは社会に害悪な異常者として生まれたがゆえに、破滅的な結末を迎えることこそ正しいと思われ、そして、異常者であるがゆえにそれこそが妥当であると思われるでしょう。善なるものが肯定され、悪なるものが否定される、正しい考え方にてらせばきっとそうです。

 そして、この物語の結末は、それとは少し異なります。

 

 それこそがこの物語の持つ優しさであり、救おうとしても誰しもの手からこぼれて落ちてしまうものにすら向けられた目線ではないでしょうか?

 

 マリー・ローランサンの詩にこのようなものがあります。

退屈な女より   もっと哀れなのは  悲しい女です
悲しい女より   もっと哀れなのは  不幸な女です
不幸な女より   もっと哀れなのは  病気の女です
病気の女より   もっと哀れなのは  捨てられた女です
捨てられた女より もっと哀れなのは  よるべない女です
よるべない女より もっと哀れなのは  追われた女です
追われた女より  もっと哀れなのは  死んだ女です
死んだ女より   もっと哀れなのは  忘れられた女です


 「コオリオニ」は、悲しく不幸で病気であり、捨てられよるべなく追われた人々のお話です。彼らは死して忘れられればより哀れでしょう。しかしそうはならない。このお話がそうはならないことで、読んでいる僕もなんだか救われたような気持ちになるんですよ。

 

 それはそうと、梶本レイカの新作「悪魔を憐れむ歌」の第1巻が明日発売です。僕は買います。