漫画皇国

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「コオリオニ」と悪人正機

 「アナと雪の女王」が好きで、ブルーレイを買って何度も見ています。どこが好きかというと、雪の女王ことエルサのLET IT GOのシーンが好きという普通な感じです。

 それは、氷の魔法という他の人とは異なる特性を持ったエルサが、普通の人の中で暮らすためにその事実を取り繕って隠し、無いものであるかのように生きなければならないという強い抑圧のもとで生きているという苦しみの辛さと、その事実がついに暴露されてしまったことで人の中から飛び出し、雪山をひとり歩くという姿に心を打たれたからです。それは悲しいことなのかもしれません。モンスターと呼ばれ、人の中では暮らせなくなってしまった哀れな女王。そんな悲しい悲しい雪の女王が、高らかに歌い上げる歌が、あまりにも自由に満ち、力強かったということに非常に心が打たれたのです。

 彼女は普通の人からすれば危険な怪物に見えるかもしれません。それは望んで得たものではなく、生来の特性です。エルサは彼女らしくあるために、社会を離れ、雪山に作った氷のお城でたったひとりで暮らすことを決意します。

 アナ雪の物語では、エルサはその特性を上手くコントロールできるようになり、人の中で生きていくという結末を迎えます。そこには妹であるアナの自己犠牲的な奮闘もあり、エルサのアナを想う自己犠牲的な行為もあり、ついに人々に受け入れられ、エルサをモンスターと呼んだ男の方がむしろ排斥されることになります。

 エルサの生まれ持っていた氷の魔法の力は、普通の人々が持ち合わせないものではありますが、決して邪悪なものではなく、それを上手くコントロールしさえすれば、人々の中でも上手くやっていけるというお話です。とても優しいお話です。

 

 しかし、もしその特性が決して人の中で生きていく上で許容されないものであったとしたらどうでしょうか?人の中に生まれた、人が決して許容できないバケモノ、それはきっと、優しい優しいアナ雪の物語にさえも指の間をすり抜け取りこぼされてしまう、哀れな哀れな人々で、そんな人々を描いた漫画が梶本レイカの「コオリオニ」だと思います。

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 警察の威信をかけたノルマ達成のために犯罪に手を染めた刑事の鬼戸と、その鬼戸に情報やブツを流すヤクザの八敷、彼らは異常者として描かれ、彼らのその生来の特性は、他人の犠牲を伴う犯罪行為として表出します。

 彼らの生は、すなわち誰かの害です。彼らが生きたいように生きることは、別の誰かが生きたいように生きることを阻害し、その行為は明確な犯罪として描かれ、それゆえ彼らは社会のどこにも居場所がなくなってしまいます。

 

 鬼戸は、警察組織の不正を受け入れなかったために道を断たれた父を持ち、ああはなるまいと思って生きてきました。組織の異分子となり、そこに居場所がなることを恐れ過ぎるあまりに、不正行為を拒否せず受け入れ続けます。つまり、彼はその場において誰よりもまともであろうとしたために、組織でトップクラスの不正を働く男となり、そして、その何も拒否しない姿はもはや「異常」であると評されてしまいます。誰よりもまともでありたいと願ったのに、その願いこそが、彼を警察組織でトップクラスの異常な不正警官に押し上げる結果となりました。そして警察は、そんな尽くして尽くした彼を切ることを決断します。

 鬼戸は元からまともな人間ではなかったのかもしれません。まともであるかどうかということを、他者の言いなりになることでしか判断することができなかったのですから。鬼戸は、彼の前の敷かれたレールを踏み外さないことが、いかに異常であったかということを、もはや引き返せなくなったところで痛感します。

 

 八敷は、どこにも逃げられなかった男です。吹き溜まりのような地域で生まれ、父親からの虐待を受けて育ち、そこから逃げ出そうとしても、逃げ出す道すらなく転げ落ちるようにヤクザになります。

 八敷は可哀想な男です。少なくとも八敷の主観において、彼はあまりにも可哀想で行き場がなく、その犯罪行為に釣り合うと思えてしまうほどの喪失と不幸を背負っているように見えました。彼は相棒の佐伯に身も心も捧げていました。自分を父親から解放してくれた佐伯を慕い、彼のためならどんなこともするいじらしい男です。

 しかしながら、それらはあくまで八敷の主観的な話です。

 他者の視点を経由した八敷は、自由奔放に他者を蹂躙し、佐伯に尽くすというよりも、佐伯を利用して自己の欲望を解放している異常者のように見えました。彼の欲望はついには佐伯を飲み込み、自らの手で佐伯の頭を撃ち抜くという結末に至ります。

 

 この物語は鬼戸と八敷の物語です。この2人の異常者が、出会い、その生を肯定しようとするために巻き起こる、様々な事件の物語です。

 彼らは本当に悪かったのでしょうか?いや、きっと間違いなく悪いでしょう。彼らの犠牲になって理不尽に不幸落とし込まれてしまった人々が存在するのですから。彼らが自分らしく生きようとすることは罪なのでしょうか?いや、きっと間違いなく罪でしょう。もしそれが罪でないならば、彼らに不幸に叩き込まれた人々は、何に怒り、償いを求めればよいのでしょう?

 彼らは自分らしく生きることが社会における罪悪となってしまうような異常者です。いっそエルサのように社会を捨て、雪山に逃げ込むようなことができればよかったのかもしれません。しかし、現代社会では世捨て人のように生きることは困難です。彼らは社会の中で生きなければならず、そのありのままを受け入れてくれる人々もいないのです。

 

 鬼戸は自分の苦しみの理解者を、八敷は自分の欲望を具現化するための口実を互いに求め、そこには彼ら2人だけの氷のお城が現れます。どこにも行き場のない異常者によって作られた異常者のためのお城です。その中にいる限り、彼らにかかった氷の魔法は解けるのです。一方、その外の世界とは終わりのない戦争が続いてしまうのでした。

 城の外から見れば、彼らは凶悪な犯罪者であり、多くの人を不幸に陥れた悪に違いありません。そして、その城の中に足を踏み入れてしまえば、彼らは理解可能で弱く哀れな人間であるように思えるのです。

 どれだけ人が異常に見える行動をしていたとしても、彼らの主観には「それをすることこそが、今の自分にとって一番正しいことである」という理屈が存在していたりします。彼らにとって一番正しいことが悪となってしまったとき、彼らには救われる未来は存在するのでしょうか?いや、彼らも救われるべきであると彼らを取り巻く社会は思うことができるのでしょうか?

 

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

 

 「悪人正機」の言葉です。仏の教えは自発的に善なる行為を行える者よりも、悪なる行為に身を落としてしまうような者のためにこそあるという話です。

 しかしながら世の中では、悪は悪であるがゆえに、救済される必要がないという結論が導かれがちです。何か不幸な出来事があったとき、その人物が善と認定されるか悪と認定されるかで扱われ方が変化しています。例えば、渦中の人物の行動の中になんらかの瑕疵が存在した場合でも、「自業自得」という言葉が投げられることも多いのではないかと思います。他人に投げかけられる自業自得という言葉はつまり、自業自得であるからこそ、その人は救われる必要はないと突き放す言葉です。

 では、誰から見ても異論なく救われるべき人というものは、世の中にどれほどいるのでしょうか?そして、世の中に救われるべき人と、救われるべきでない人がいたとして、それを判断できるのは誰なのでしょうか?そこにもまた、誰に物言いをつけられることもなく判断出来る人と出来ない人がいるのでしょうか?

 

 鬼戸と八敷は、客観的に見れば救われるべき人だとはきっと思われないでしょう。それを思うには彼らは罪を重ね過ぎていて、そんな彼らが救われるのであれば、彼らによって不幸に落ちた人々に向ける顔がありません。

 道理から言えば、彼らは社会から排斥され、地獄に落ちるべきであると思われるかもしれません。ならば、彼らが迎えるべき道理のある結末は破滅しかありません。

 彼らは社会に害悪な異常者として生まれたがゆえに、破滅的な結末を迎えることこそ正しいと思われ、そして、異常者であるがゆえにそれこそが妥当であると思われるでしょう。善なるものが肯定され、悪なるものが否定される、正しい考え方にてらせばきっとそうです。

 そして、この物語の結末は、それとは少し異なります。

 

 それこそがこの物語の持つ優しさであり、救おうとしても誰しもの手からこぼれて落ちてしまうものにすら向けられた目線ではないでしょうか?

 

 マリー・ローランサンの詩にこのようなものがあります。

退屈な女より   もっと哀れなのは  悲しい女です
悲しい女より   もっと哀れなのは  不幸な女です
不幸な女より   もっと哀れなのは  病気の女です
病気の女より   もっと哀れなのは  捨てられた女です
捨てられた女より もっと哀れなのは  よるべない女です
よるべない女より もっと哀れなのは  追われた女です
追われた女より  もっと哀れなのは  死んだ女です
死んだ女より   もっと哀れなのは  忘れられた女です


 「コオリオニ」は、悲しく不幸で病気であり、捨てられよるべなく追われた人々のお話です。彼らは死して忘れられればより哀れでしょう。しかしそうはならない。このお話がそうはならないことで、読んでいる僕もなんだか救われたような気持ちになるんですよ。

 

 それはそうと、梶本レイカの新作「悪魔を憐れむ歌」の第1巻が明日発売です。僕は買います。

たくさんの漫画が知られる前に終わる

 1巻が100万部売れた漫画は、日本人の99%以上が買わなかった漫画であるとも言える。しかしながら、ほとんどの漫画は100万部も売れないし、10万部売れるのも大変な話だ。単価の安い漫画の場合、1万部ぐらいは売れないことには商売にしにくいと聞くけれど、それでも実売が数千部ぐらいにとどまってしまう漫画も沢山ある。そして、そのような漫画は商売にならないから打ち切られてしまう。だけど、それらの漫画が面白くないわけでは決してないと思う。なぜなら、それらの打ち切られてしまった漫画の中に、僕が夢中になって読んでいた漫画も沢山あったからだ。

 

 僕が生まれ育った徳島県の人口は、僕が住んでいた当時80万人ぐらいで、徳島市となると27万人ぐらいだったと思う。日本の人口を1億2千万人とすると、徳島市にはその0.225%ぐらいの人間が住んでいて、もし8000部の漫画があったときに、人口で均等に分かれて売れるとするならば、徳島市では18部売れるという計算になる。僕はそのような漫画を買うために、徳島市内を本屋を巡り、時には市外まで足を伸ばし走り回った。その少ない冊数がどの本屋に入荷されるか分からないからだ。そのうちの1冊を僕が買い、僕が友達に薦めて何冊か買わせていたので、つまりは、8000部ぐらい売れる漫画の、徳島市における需要の4分の1ぐらいは僕が窓口になっていたというすんぽうだ(もちろんこれは適当な想定であり、事実の話をしているわけではない)。

 それぐらいの規模でしか売れない漫画を買うということは、それぐらい狭い話なんじゃないかという話です。

 

 市内で18人しか買ってない漫画だとすると、当時の僕が自由になるお金でなんとか行けた一杯100円のうどん屋の店主も、幼少期からの馴染であるためタダで食わしてくれることもあったお好み焼き屋おばちゃんたちも、友達の親がやっているので裏口から入ればただでもらえたパン屋も焼き鳥屋も、話し相手になってくれた図書館の司書さんも、ゲーセンで会うと遊ぶ金のない僕に200円恵んでくれた違う学校の女の子も、たまに会うとファミレスでご飯を食わしてくれた塗装工の兄ちゃんも、地元で当時世話になっていたあらゆる人々のほとんどが、それらの漫画を買ってはいなかっただろうという事実が浮かび上がってくる(僕がタダ飯食わしてくれる人を慕っていたという事実も浮かび上がってくる)。

 

 彼ら彼女らは、そのような漫画を買わなかったし、そもそも存在も知らなかっただろう。だから買う理由がないし、買う理由がないものを買う人はいないだろうから、それが当たり前だ。それが普通だとすると、じゃあなぜ僕には買う理由があったんだろうか?それは漫画雑誌を読んでいたからです。

 

 漫画雑誌を読む中で、目当てであった好きな漫画とは別に、新しく始まった漫画も読むことになる。そして、その漫画を好きになって買うようになる。そのサイクルがずっと続いている。だから、僕には漫画を買う理由があるし、そうでない人にはないのだろうと思う。ただ、僕が薦めた数人の人には買う理由があって、それは僕が薦めたからだと思う。もし、彼ら彼女らがさらに別の人に薦めれば、買う人はどんどん増えていくはずだ。これを知る人ぞ知る専門用語で「口コミ」といいます。

 

 インターネットの普及によって口コミはよりしやすい環境になった。誰かが何かの漫画を面白いと発言し、それが人を伝わって広がっていく。漫画雑誌に載っている漫画を全部読まなくても、その中から面白いとよく言われているものだけをピックアップして知ることもできるようになる。面白い漫画を特集した本や、面白い漫画に与えられる賞もある。面白いものだけを読みたい人というのは、裏返せば、面白くないものを読みたくない人だと思う。そういう人は、自分が選んだ漫画が面白くないと嫌な気持ちになるようなので、面白い漫画だけに辿り着ける方法を選ぶのだろう。つまりは、漫画雑誌離れである。

 

 僕が感じているところでは、商業出版されている漫画のほとんどは面白い漫画だ。ちゃんと読みさえすれば大体面白いと思う。だけど、多くの人はちゃんと読まないんじゃないかと思う。漫画の作り方でも、じっくり読まないと良さが分からないものより、引きが強くて初見でもぐいぐい引っ張り込まれるものみたいなのが推奨されがちだ。最後まで読んで、ようやく全てのよさが理解できるものよりも、第一話の最初の時点でのとっかかりが求められる。それは分かるけど、そればっかりになるとなんだか広い世界が狭い部屋に押し込められているような気持ちになる。

 そういうお話の作り方は、新人よりもベテランの漫画家さんなら許されるかもしれない。過去作のファンの人たちが、新作でも先を期待して待ってくれるかもしれないからだ。ただし、そういう漫画は、連載作の中ではあまり人気が出ないことも多い。それは単純な数の問題で、これまでの話をじっくり読んでいないと分からないようなお話や、あるいは、これから先に起こるだろうことを前借して期待して読むようなお話は、それをじっくり読み、最終的に収穫されるまで待ってくれる人が絶対数として少なくなってしまうという弱点がある。

 このような漫画は口コミも発生しづらい。例えば5巻からぐいぐい面白くなってくる漫画は、1巻からぐいぐい面白い漫画よりも、面白いと感じるまでにかかる冊数が多いから薦めづらい(1巻だけ読んだ時点で「あんまり面白くなかったので続きはもういい」などと言われると、薦めた側が精神的にダメージを受けるからです)。

 

 ともあれ、このようにして、漫画雑誌を読む人が減っていると思う。そもそも本屋は減っているし、月刊誌なんかは紙で買うのは一苦労だ(電子版で買えることも増えたけれど)。そして、買ったり立ち読みしたりしたとしても、隅から隅まで読む人も少ないかもしれない。偏見ですが、楽しみにしている何作かだけを読んで、残りは読み飛ばしたりしてるんじゃないだろうか?

 みんな忙しいんだと思う。働いたり勉強したりするのにも忙しいかもしれないけれど、山ほど存在する他の様々な娯楽を体験することに忙しそうだ。そして、インターネットに存在する色んなコミュニティの中で、自分の存在価値を高めるように行動している人も多いようにも思う。

 つまり、何かを面白いと言ったり、何かを面白くないと言ったりすることが、彼ら彼女らの属するコミュニティ内における立場に何らか作用するものとしての力を持っているように見える。そうであれば言及対象は、みんなの注目を集めているものの方が効率的で、そうであることがまた口コミとして相乗効果で作用しているんじゃないだろうか。

 注目されるものは注目されるがゆえにより注目され、そうでないものは人の目にもろくに触れやしない。

 

 僕はずっとひとりで漫画雑誌を読んでいるし、インターネットでもめったに他人と交流していない。ただ、他人に薦めたい気持ちも実はあまりない。人目に触れずなくなってしまう漫画があるのは寂しいけれど、読者が少ないものは続けられないし、それが自然な流れだと思うので、その自然には抗わないようにしていることが大半だ。

 それはきっと、頑張って抗っても無くなってしまったり、どうにか繋がっても抗いをやめたら無くなってしまうことを想像したら、悲しいからじゃないかなと思う。頑張るより前に諦めちゃっているので、もうちょっと抗えよと思うような気持ちもないではないけれど、その気持ちは、継続的に行動するほどには強くない。なんせほら、それが終わってもまた新しい漫画が始まったりして、それも面白かったりするから。

 

 たくさんの漫画が終わります。それは、たくさんの人に十分知られて、面白いとか面白くないとかそれぞれに判断される前に終わります。

 

 しょうがねえよなあという気持ちがずっとありますが、それでも、終わったはずの漫画が、筆を折ったはずの漫画家が、熱心なファンの人の支えによってその続きが生まれたりすることもあって、それに感じ入ることがあって、ああ良かった…ああ素晴らしいと思いつつ、そこには自分は何も貢献しておらず、ただ、その人たちの頑張りの果実をむさぼるだけだなあと思い、ありがてえありがてえと思ったりしています。

漫画の元ネタ提供を担う偽書関連

 1000年前から生き続けている人は、僕が知る限りいないので、1000年前にあったことを詳細に知る手段は基本的に書物です。人間は当時に書かれた書物(あるいはその写本)を読むことで、その時代にどのようなことがあったのかを知るしかありません。ただし、その書物に書かれたことが信頼できるかどうかは、また別途検討が必要です。現代に起こっている事件ですら、その正確な事実関係は報道を見ているだけでは把握できないこともしばしばなのですから、はるか昔に書かれた文書についてはなおのことです。そこに書かれていることが事実であるかどうかを判断することがとても難しいことでしょう。

 今、我々が把握している歴史は、そんな困難な問題において、何を事実とし、何を事実としないかを、沢山の人々が地道な努力により選り分けてきた積み重ねです。そして、それは今後も修正されたり覆されたりしながら積み重ねられ続けていくでしょう。

 

 そもそも文字で書き記された記録がなければ、子細な歴史は残りません(口頭で語りつがれる伝承もありはしますが)。先日完結した漫画「シュトヘル」では、昔の中国に存在した西夏という国の文字を巡る争いが繰り広げられました。この物語において、チンギスハーンの背中には「西夏の奴隷」という文字が刻まれているのです。その事実を無にするために、チンギスハーンは西夏文字の存在そのものを消し去ろうとします。文字で書かれた歴史は、人が生きた証です。時代と場所を飛び越えてその情報を伝えることができるある種のタイムマシンです。人は生まれて死にますが、文字として残ることで、情報は歴史の中を受け継がれるのです。そんな文字を無くそうとするものと生かそうとするものの争いが、シュトヘルの中では描かれていました。

 

 今我々が把握している歴史の多くは、国の公的な文書として残されてきた記載をベースにしています。しかしながら、国の主権が代替わりしたときに、代替わり前の歴史書は都合が悪いため焚書され、代替わり後に改めて都合がよい歴史書が作成されるということもあります。それゆえに、それらの公的な記載が本当に起こった事実と異なる可能性も十分あるのです。その場合、もし、公的ではない民間の文書に、別の事実が書かれていたらどうでしょうか?どちらが正しいと判断すべきでしょうか?他の遺物や、別の文書の記載などを比較検討することで、どうやら事実らしいことを確かめていくことになるでしょう。

 そこには、嘘と断じるほどの証拠もなく、事実と認定するほどの証拠もないものが多々あります。そして、その曖昧な部分には、何らかの意図を持って捏造された偽の文書も登場し得るのです。

 

 この辺の偽書がどのように生まれて流布されてきたのかという話は長くなるので書くのが面倒くさいので割愛して、漫画の中にはそういう偽書と判断されているものを元ネタとして採用した物語も数多くあります。そして、それらのような物語が大好きな人間もいるのです。例えば僕です。

 「捏造されたの歴史書」という全く存在価値がなさそうなものが、一転、多くの物語を生み出す種となっていることが面白く感じます。歴史という価値観では0点なのに、物語の世界の中では100点のものもあるのです。

 

 「スプリガン」は、僕が子供の頃に最も夢中になった漫画のひとつです。この物語は、正しい歴史の中には残っていない、現代をしのぐほどの科学力を持ちながらも滅びてしまった超古代文明の遺物を巡る人々のお話で、そこに登場する遺物は、何らかの伝説や偽書とされる書物を引用して解説されます。

 第一話で登場するのは富士文明という富士山麓にかつて存在した王朝という宮下文献に記載されていたお話に基づいており、この宮下文献は有名な偽書なのです。またヒヒイロカネという金属でつくられた剣も登場しますが、このヒヒイロカネ竹内文書という非常に有名な偽書に登場する金属です。

 宮下文献も竹内文書も、歴史書としては偽物と判定されているものですが、これらが引用されることによって面白い物語が生まれてしまっていると事実は見逃せません。厄介なことに、ときに嘘は事実よりも面白かったりするのです。

 

 偽書の役割のひとつは裏付けです。偽物の歴史書における「実は過去にこういうことがあった」という裏付けは、その書物を利用する人にとって都合よく機能したりします。例えば、偽の家系図を作りだし、自分はこの国の王の正当な血筋であると主張する人がいたとすればどうでしょう?その偽書がなければ、なんでもなかった人が、途端に自分にはこの国を統べる正当な権利があると主張する正当性を持つことができるようになります。

 つまり、偽書とは漫画における後付けの伏線のようなものです。漫画の中で、急に実は魔族の血を引いていたことが分かることでパワーアップすることができるように、理由を偽書という形で捏造することで、何らかの主張をしたい人はその語気をパワーアップできるようになります。

 

 このような偽物の書物による裏付けは、「魁!男塾」に登場する実在しない民明書房刊の本のように、1つの作品で完結する偽物の本としての引用でも成立するはずです。しかし、作品の外にある何らかの文献(偽物でないものを含む)が引用されることの方が多いのではないでしょうか?その裏には、Googleページランク(検索結果の順位を決める基本的な仕組み)のような作用があると思っています。つまり、多くの作品に参照される元ネタほど、価値があると判定されるということです。これにより、よく引用される元ネタには価値が加算され、価値が加算されるからこそ、より参照されるというスパイラルが発生します。

 つまり、元々は偽物の情報であったものも、その面白さゆえに様々な物語作品で参照され続けることで、その存在の強度が増していくのです。

 前述のヒヒイロカネは、今や様々なゲームに素材として登場します。竹内文書に記載のある、徳島県の剣山にソロモンの秘宝が眠っている話や、青森県にキリストの墓がある話、そして、日本の山の中に眠るピラミッドの話などは、「三つ目がとおる」や「MMR」や「超頭脳シルバーウルフ」などにも数々引用されています(ちなみに僕は剣山も、キリストの墓も、大石神ピラミッドも行ったことがあります)。

 様々な物語に元ネタとして引用され続けた結果、元々は捏造された歴史であるものも、ある種の文化のひとつとして現代に取り込まれてしまっているのです。

 

 他に例を挙げるなら、「日本文化は古代ユダヤ人の文化に基づくという話」は「赤い鳩」や「妖怪ハンター」に取り込まれていますし、「チンギスハーンの正体は源義経」も「王狼伝」などの漫画の中に取り込まれています。これらは事実としての証拠はありませんが、面白いという理由で文化にぐいぐい食い込んでしまっています。物語の中のギミックであることもあり、これらが信憑性のない説だからといって、咎める人もめったにいません。

 

 さて、よく出来た偽書というのは、単体で成立するのではなく、複数の偽書の重ねあわせで作られたりします。これは、ある書物の記載が正しいかどうかを判断する際に、別の書物の記載と矛盾がないかを確認するというやり方の裏をついた方法です。そして、様々な書物に孫引きを含めて引用され続けるうちに、元ネタすら分からなくなってしまい、記載だけが事実であるかのように残ってしまうこともあります。

 漫画で言えば「多重人格探偵サイコ」におけるルーシー・モノストーンという男は、あたかも実在する人物であるかのように関連本に沢山引用されて、その実在性を誤認させるような演出がされていました。実際、その実在を信じていた人も沢山いたように思います。

 

 間違った内容が、引用が重ねられることである種の事実のようなポジションを得てしまう例で言えば、「カマイタチとは真空が巻き起こす現象である」という解説もあります。これについては以前、元ネタを調べたことがありました。

 真空カマイタチは現代の漫画やゲームの中に依然として残る解説ですが、科学的立場から言えばあり得るとは思えない説です。この解説は少し調べれば妖怪学でお馴染みの井上円了の講演録にも登場していることが分かるため、非常に歴史の深いことがすぐに分かる説です。この説の僕が辿り着いた一番古い元ネタは福沢諭吉の「訓蒙窮理図解」なのですが、ここに「戦場で銃弾が当たっていないのに皮膚が裂ける」という事例が紹介されており、これは真空の作用であると記載されているのです(現象を考えると真空というよりは衝撃波のように思えますが)。この解説が曲解され、様々な書物に孫引きされ続けることで、現代でもまるで事実のように扱われてしまったりしているのではないかと僕は考えています。

 

 世の中には沢山の偽書が存在していますが、歴史を学術的に見る上では全く価値がないように見えるそれらの書物が、物語の元ネタとして作用してしまった場合に、不思議と輝きを持ってしまうことがあります。事実、僕は「スプリガン」が今でもとても好きなので、サンキュー宮下文献、サンキュー竹内文書という感じに思ってしまっています。

 他にも例えば、合気道の開祖こと植芝盛平が、大本教出口王仁三郎の大陸への布教活動に信者のひとりとして同行した際、銃による襲撃を受けたものの、弾が到達するより前に「光のつぶて」が見えたので、それを躱したら銃弾も避けれたというような証言をしました。完全に眉唾な話ですが、このお話があるからこそ、「闇のイージス」において金属の義手で銃弾を弾く護り屋、楯雁人という男が生まれたわけです。僕は「闇のイージス」がとても好きなので、植芝盛平が「光のつぶてを見た」と語ってくれてサンキューという気持ちがあります。

 

 偽書がこのような形で受容されるという現象は面白いですが、同時に少し怖くも感じてしまいます。つまり、事実関係のあやしい、いい加減な話にもかかわらず、お話としての面白さを兼ね備えていた場合、どれだけ学術的な観点で否定されたとしても、面白いという理由でフィクションの中には残ってしまう可能性があるということです。

 それこそ、現代の漫画やゲームの中に真空カマイタチ描写が生き残っているように、水に話しかけることで言葉の内容に応じた形の結晶が形成されるという必殺技もあるかもしれませんし、江戸っ子大虐殺を生き残った男による江戸しぐさ冒険譚だってあるかもしれません。抗がん剤を拒否して、気功で癌が治った漫画があったら果たしてどうでしょうか?

 これらは科学的事実や歴史的事実ではありませんが、漫画の中にはそれ以外にも非科学的で歴史学からすれば間違っているような描写が沢山あります。それは科学や歴史の話ではないため、そう描かれることが間違っているわけではありません。面白ければいいのです。一方、科学的な考えや歴史的な考えからすれば撲滅すべきかもしれないものが、フィクションという領域に足を踏み入れると生き生きと活躍の場があったりすることに、なんだか不思議な気持ちになったりします。

 聖徳太子の未来記は偽書ですが、漫画ゴラクでやっているヤクザ漫画の「白竜」には実在のものとして出て来るわけですよ。そして、僕はやっぱり、それを喜んじゃったりしているわけなのです。

暁美ほむらさんがしんどい話

 昨日、AbemaTVでやってたので「魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」を観ました。劇場でも1回見たので2回目です。ちなみに、僕はまどかマギカ本編は放送では見ておらず、映画版の前後編を観ただけなので、もしかしたら、色々読み取るべきものを取りこぼしている可能性もありそうな感じです。

 

 暁美ほむらさんの様子がとにかくしんどい映画だと思いながら観ていました。

 

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 この物語の本編は、願いを叶えるために魔法少女になるという取引をしてしまった少女たちのお話で、魔法少女は魔女と戦い続けなければなりません。そして魔女とは実は魔法少女の成れの果てであるのです。つまり、この仕組みに取り込まれてしまった少女たちからは明るい未来が奪われてしまいます。

 魔女と戦い、魔女を倒し、そして自らも魔女になる。美味い話はないわけです。取引には代価が必要です。それらはきっちり請求され、回収されてしまいます。彼女たちを魔法少女に誘った存在の目的は、彼女たちの持った希望が絶望に変化して魔女に堕ちる際に生まれるエネルギーを回収することにあるのです。この物語は、うっかり願いを叶えてしまったばっかりに、返せるあてなどない膨れ上がる借金をしてしまったような少女たちのお話です。そして、彼女たちが救われるお話です。

 その救いの担い手は物語の主人公こと、鹿目まどかさんです。まどかさんは、友達の暁美ほむらさんの頑張りによって、知らぬ間に史上最強の借金女王とされてしまった哀れな少女です。鹿目まどかさんは、その膨れ上がった因果という名の借金により、史上最強の力を持てることになった少女です。そして、まどかさんはその存在の全て代価とすることで、かつて存在し、これからも生まれうる魔法少女たちに対する、徳政令を発動しました。その結果、鹿目まどかさんの存在はなかったことになりますが、その代わりに、悲しみの沼に肩までどっぷりつかった魔法少女という存在を、過去からも未来からも引き上げることに成功するのです。

 

 さて一方、時間を操る能力を持った暁美ほむらさんは、自分を助けてくれたたった一人の友達、鹿目まどかさんを救うため、何度も何度も時間を遡り続けたりしていました。彼女の望みは、自分のたった一人の友達を救うことです。そして、その行為は、幾重にも渡る因果の糸をまどかさんに重ねることを意味し、皮肉なことに、まどかさんを因果律特異点としてより絶望的な立場に追い込んでしまったのです。

 僕が思うに、望めば望むほどに、手に入れたいものが遠ざかるという状態は、この世で最も悲しい光景のひとつです。ほむらさんはそんな立場の少女です。しかしながら、だからといって、もはやそれをやめるわけにはいかないのです。諦めればそこがまどかさんに対する最悪の結末であって、それを回避するためには、次こそは次こそはと、繰り返し続けなければならず、そして、それがより事態を深刻な状態へと進めてしまいます。とても、恐ろしく悲しい状況です。止まることが許されないのに、止まらないことが事態の悪化を加速させているのです。まるで、負けを取り返すために賭け金を倍プッシュでギャンブルを続けている人のようではないですか。そんな暁美ほむらさんの歩みはとても悲しく、地獄へと続くワインディングロードです。

 

 そして結局、鹿目まどかさんはその特異点たる巨大な力を、自分以外の全ての魔法少女を救済するために使いました。つまり結局、暁美ほむらさんの願いは何一つ叶ってはいないのです。ほむらさんが助けたかったまどかさんは、その存在自体が消失し、あらゆる人の記憶の中からも消失してしまいます。救うことはできなかったのです。まどかさんの行為は沢山の人を救いました。そしてそれは同時に、暁美ほむらさんの願いを裏切る行為でもありました。

 

 叛逆の物語は、本編でそんな無力でも足掻き続け、その行為が結果的にたった一人の友達を傷つけることでしかなく、それによって自分自身も傷つき続けた暁美ほむらさんによる逆転の一手のお話です。

 本編において過去の秩序を否定し、新たな秩序として、全ての魔法少女の救済にその身を投げ出したまどかさんを、ほむらさんはたった一人の欲望のために、引きずり出し切り離すことに成功します。何度も繰り返し、何度も失敗し、遂には取り返しがつかなくなったはずの失敗を、力技でもぎ取り、勝ち取り、取り返した物語です。

 

 それなのに、それは暁美ほむらさんにとって遂に勝ち取った成功なのに、なぜ彼女は幸福そうに見えないのでしょうか?

 

 僕が思うに、幸福というのは「今の状態に満足すること」です。そこが仮に地獄の底であったとしても今に満足さえしてしまえばそこは幸福な場所です。仮に天国にいたとしてもその状態に満足していなければ、不幸であり、地獄と何ら変わらないのではないでしょうか?

 暁美ほむらさんが幸福でないのだとしたら、不満があるはずです。それはおそらく、彼女の果たしたことが、彼女にとって真の目的ではなく、妥協だったからなのではないでしょうか?

 

 彼女が願ったことは鹿目まどかさんの幸福で、そのためには自分はどんなことをしてもかまわないというのが暁美ほむらさんの振る舞う態度です。自己犠牲です。鹿目まどかさんが他の全ての魔法少女に対してそうしたように、ほむらさんはまどかさんのためだけにそうしました。中島みゆきも「空と君のあいだに」で「君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる」と歌いました。それは尊くも悲しい決断です。しかしながら、それが唯一、まどかさんを解放するためにほむらさんがとれた手段であることは間違いありません。

 でも、本当にそれでよかったんですかね?僕の心の中の「賭博破戒録カイジ」に登場した班長が、「へただなあ、ほむらさん、へたっぴさ!欲望の解放の仕方がへたっぴ!」と囁きかけます。

 

 僕の勝手な想像ですけど、ほむらさんは、自分からまどかさんへの「愛」を示す行為で自分を納得させようとしていますけど、本当はまどかさんから自分へのなんらかの気持ちが欲しいんじゃないでしょうか?

 それをストレートに望むことができるほど、無神経でいることができないのが厄介な話で。ほむらさんの行動には、いくつかの目的があると思うわけですよ。自分がまどかさんにしでかしてしまったことへの罪悪感の解消だとか、まどかさん自身の幸福だとか、それらを考えた上で、また、望んだのに望んだものが手に入らない怖さもあるかもしれません。だからこそ、自分が本来望んでいるはずの、一番の友達としてまどかさんに自分のことを見てほしいというような気持ちを押し殺し、気づかないふりをしようとしているような感じがするんですよね。

 自分の望みをあるがままに表現することを恐れていて、だからこそ、心の底にある本当の望みを上手く表現できないでいて、だから、お話の最後にまどかさんに問いかけたことも、勝手に自己完結して、勝手に納得や決心をしてしまう。

 望めば望むほど、それが遠のくのは悲しいことだと言いましたが、その事態を恐れて、望むということにすら怯えてしまうのは、その次ぐらいに悲しいことです。

 

 新編の終わりにおいて、暁美ほむらさんは、目的は達したのに救われていないなと思いました。本編での鹿目まどかさんの行為が、そのあらゆる人に対する無償で自己犠牲的な愛の行為が、暁美ほむらさんだけは救うことができなかったのです。そして、暁美ほむらさんは新編でそれを暴力的なまでに拒絶までしたのに、まだ救われていないように思います。

 誰しもに救われる結末が用意されているとは思いませんが、YOUもそろそろ救われちゃいなよと思いながら、ピンと張りつめた糸のように生き続けている、しんどくて悲しく、必死だからこそ孤立してしまうような暁美ほむらさんの姿を、また見てしまったなあと思いました。ああしんどい。

全部ビッグバンのせいだ

 世の中にはどうも因果関係というものあるらしく、何かしらの結果には何かしらの原因があるそうです。原因という概念が、結果とセットになる存在なのであれば、その意味するところはおそらく「その原因さえなければ同じ結果にはならなかった」ということでしょう。

 例えば、机の端に置いてあったペットボトルが床に落ちたという結果があったします。その原因は何でしょうか?「僕がうっかり肘を当ててしまったせい」ということは原因の条件を満たしていると思います。なぜならば、僕が肘を当てなければ、そのペットボトルは床に落ちなかったからだろうと考えられるからです。

 しかし、そう考え始めると、原因は他にも無数に選べるのではないでしょうか?例えば、僕という人間が誕生しなければ僕の肘が当たってペットボトルが落ちるという事象は存在しなかったでしょう。つまり、ペットボトルが床に落ちたのは、「僕の母と父が出会ってしまったから」と考えることもできます。そして、同様の考えによって「僕の祖母と祖父が出会ってしまったから」と考えることもでき、繰り返してどんどん昔に遡っていくことができます。

 最終的に到達するのは、宇宙開闢の大爆発ことビッグバンでしょう。つまり、ペットボトルが床に落ちたのは「ビッグバンのせい」ということも可能です。なぜなら、ビッグバンが起こらなければ、ペットボトルが落ちることはなかったと考えられるからです。

 

 このように、ビッグバンは全ての始まりであり最強の原因なので、あらゆることが起きたときに「その原因は何か?」と問われたら、「ビッグバンが起きたせいですね」と言っておけば、それは正しいのではないでしょうか?

 「なんで遅刻したの?」と怒られたときにも「僕という人間が存在し、今日遅刻するという事象が起こったことは、全て宇宙開闢のビッグバンがあったからです」と答えても間違いではないでしょう。そして、その原因を答えたときには、僕はきっと相手からさらに怒られてしまうだろうなと想像します。

 

 では、なぜ間違っていない原因を答えたはずなのに怒られてしまうのでしょうか?

 

 理由はいくつか考えられます。まずひとつ、ビッグバンという原因は「遅刻した」という個別の結果に対する理解や解決策として機能しないからです。遅刻したということを責められるのは、そのことによって「他人を待たせてしまい、迷惑をかけてしまった」からだと思います。そこで必要とされるのは、その遅刻が仕方のないことであったと相手が納得できる理由であったり、同じことを繰り返さないための対策となるものであったりするはずです。ビッグバンはその両方に対して不適格です。

 ビッグバンという事象はその日遅刻した僕にだけ起こったことではありませんし、ビッグバンが起こったという事実をなかったことにするという方法で、今後の遅刻が発生する可能性を消し去ることもできません。

 つまり、ビッグバンは遅刻という事象が発生した原因として選ばれうるものですが、それが原因であると遅刻に対して怒っている人に主張することは、問題視されている結果について何の効力も発揮しないがゆえに無意味なのです。

 このように、ある結果に対して原因は無数に選ぶことが可能であるものの、その中からどの原因が原因として選ばれるか?ということには、それを認識する主体がその問題をどのように取り扱いたいかという都合を加味する必要があるということが分かります。

 

 ビッグバンが原因だと主張すると怒られる他の理由としては、結果と原因が規模感として釣り合わないということもあるでしょう。原因が宇宙の全ての存在を巻き込むほどに大きいのに、結果は相手を「15分余計に待たせてしまった」というごく限定的なものです。その待たせてしまったということは積み重なって人間関係が壊れてしまう可能性もあるので、主観として小さい結果であるとは言いにくいですが、原因の方が極大であるためにバランスは悪いことは間違いないでしょう。

 つまり、原因とは結果とのバランスを考えて、大きくなり過ぎず、小さくなり過ぎないものが選ばれた方が納得感が高いということです。

 

 とはいえありますよね、ささいなきっかけが大きな不幸を舞い込んでしまうことも。例えば、少しの諍いが後々に大きな断絶となってしまったとき、ささいな原因は、ささいに見えるけれど実際はとても重要なことであったというように語られたりします。それは結果が大きくなってしまったことに引きずられて、小さな原因が大きな原因であるということに格上げされる瞬間です。

 世の中ではこのような形で因果のバランスがとられることも多いと感じています。なぜなら、原因と結果の格を合わせることができなければ、因果関係という説明行為には他人の納得が得られないことも多いからです。

 

 ちなみに、このバランス感覚を利用して、小さな結果に対してあえて大きな原因を挙げることで、その小さな結果を大きな結果であるかのように見せかけるテクニックもあります。

 なぜ遅刻したのか?という問いに対して、日本の交通機関の問題や、それが人口の過密によるものであったり、はたまた日本で表出されやすい時間の正確さに関する性質などなど、遅刻が起こったのは僕個人の怠慢によるものではなく、もっと大きな問題なのだということを説明することで、起きた事実の責任を自分個人ではなく、社会の連帯責任に仕向けることもできるのです。

 

 このように、ある結果に対して何かひとつを原因として選ぶということは、なんらかの意図をもってのことが多いと思います。原因と結果が一対一で対応するような理想的な状況は実在性が疑わしいため、因果の間を単純な一本の線だけで繋げることは普通はできないはずです。

 ある結果は無数の原因と繋がっていて、その繋がった原因も見方を変えればある種の結果であるため、マルチホップしてさらに別の原因と繋がります。それを繰り返していけば、因果は蜘蛛の巣のような形状になっているはずです。

 つまり、ある結果を説明する経路には無数に広がる選択肢があります。その中のひとつが選ばれてしまっている時点で、なぜそのひとつであったのかという理由があるはずなのです。そのひとつが選ばれるということは、裏返せば他のあり得る可能性が全て無視されているという非常に乱暴な行為だからです。そこにあるのはつまり、選んでいる側の何らかの意図だと思うわけです。

 ビッグバンはあらゆる結果に対して説明可能になる魔法のような原因ですが、そのような選ぶ側の意図に合致することはほぼありえないために選ばれることはありません。

 

 何を原因として選ばれ、何が原因として選ばれにくいかには、ある程度傾向があると考えおり、僕が思うに、原因に選ばれやすいのは「人間」です。なぜならば、人間を原因に選ぶことで、結果の責任をその人間に問うことを可能になるからです。原因に選ばれた人にその責任を問うことができるなら、その人に解決のための労力を支払わせることができます。

 これが人間以外ならばどうでしょう?例えば大雨による崖崩れの被害が起こったとして、「雨め!!」とか「崖め!!」と人間ではないものに原因と責任を求めても雨や崖が責任をとってくれることはないので、その被害が賠償されることはありませんし、泣き寝入りをするしかありません。

 しかし、それが「崖工事をした際の後処理がまずかった」とか、「その土地を住居区画として認可した行政が悪かった」とかになると、原因が人間に渡ってきます。人間が悪いという原因になれば、賠償請求が可能です。なので、雨が原因であるかもしれませんし、崖が原因であるかもしれませんが、それらは無視して人間が原因であるということにされてしまったりします。それは、被害を何らか補填してもらえることを望む人が、有効なものとしてそれを選んだということなのではないでしょうか?

 

 そのような仕組みで、色んな問題が起こったときには、その原因として人間が選ばれやすいのではないかと思います。

 

 最近あったことですが、ある仕事の〆切がありそれを受けた人がいて、〆切前に何も連絡がなく〆切を過ぎる頃に確認をしたら、「確かにその仕事は受けましたが、〆切前に催促がなかったので、やらなくていいのかと思いました」という回答がありました。

 これも、そのようなものだと思うのです。「〆切時間に物が出来ていない原因は、頼んだ僕の方にある」という原因の選び方を、その人がしたということで、その原因が僕にあるのだとすれば僕に責任があり、責任があるので僕の方が頑張ってどうにかしないといけないという感じの理屈になります。

 その件は別に普通になんとかなったのですが(結局、まんまと僕がなんとかしました)、原因の選び方を工夫すれば、僕側ではなく相手側が悪いという内容を選ぶことも僕には全然できたわけです。ただ、そこにあるのは原因を特定するという名を借りた責任の押し付け合いであって、解決のために誰が労力を払うべきかということを定めるための呪術のようなものでしかないと思います。

 「他人に責任を求める」行為とは、ことによると、自分には責任がないと主張することであって、「問題は認識しているが、その解決のための労力は自分は一切払う必要がなく、責任のあるあいつらが払うべきだ」というような主張であると捉えることができます。このようなことは、社会のそこかしこにあるお話です。

 

 世の中のあらゆることはビッグバンが原因であるということにもできるのに、人間はビッグバンではなく、別の人間をその原因として選んでしまったりします。ビッグバンに対して人間は無力である一方、別の人間ならまだ何とかできると思っているからかもしれません。

 しかし、無力であるからこそ、諦めがついてよいということもあるのではないでしょうか?僕はたまに色んなことをビッグバンのせいにしています。早起きしないといけない日に、めちゃくちゃ寝坊したとしても、「このやろう!ビッグバンめ!理由も分からず起きやがって!!その存在もあくまで仮説であって証明はされていないというのに!!」とビッグバンが悪いことにして、心理的な責任逃れをしています。

 とはいえ結局、寝坊してしまったことの責任は自分でとらないといけないんですけど、ビッグバンとの連帯責任となることで少し心が晴れます。しかし、ビッグバン自体は僕に何もしてくれません。ただそこに概念としてあるだけです。

 なんなんだビッグバンめ!と思いますね。この気持ちもまた全部ビッグバンのせいだ。

社会における「役割」という憑きものについて

 ある会社の経営層の人が、めちゃくちゃワイルドで厳しい感じの印象だったのに、第一線を退いて会長職みたいなのになったら、いつの間にか気のいいお爺ちゃんになってしまっているという事例を何度か目にしました。それを見て僕が思ったのは、ああ、あの厳しい顔は、あの人本来の特性のみによるものではなく、あの人がいた立場の要請に従って役割として背負っていたものなのかもなということです。事実、その人の後釜に座った人は、かつてのその人と同じような厳しい顔を周囲に対して見せています。会社の業績を上げるためにある種の鬼に憑りつかれてしまうのだとすれば、それは会社の役職というある種の憑きものなのではないでしょうか?

 

 例えば、ある家に移り住んだ人が自殺するということが続いたとき、その家は呪われた家と呼ばれるでしょう。とすると、ある会社に就職した人が自殺するということが続いたとすれば、それは呪われた会社とも言えるのではないでしょうか?そんな会社は多くの場合、「呪われた」という表現ではなく、もっと別の呼ばれ方をすると思いますが、ある切り口では同じ現象と捉えることもできるのです。

 ある人をある行動に促す主体は、その人、本人にではなく、その人がいる場所や立場にあると言えるかもしれません。

 

 人間は仕事や家族や、あるいはその他の人間関係の中で様々な役割を背負っており、その役割は憑きものとしてそれぞれの人の人格に影響を与えるものだと僕は思っています。ある人が何らかの態度を示しているとき、それがその人本来の人格なのか、そのような憑きもののしわざなのかを区別することは意外と難しいことです。しかし、それらは確実に混ざっているものだと僕は思うのです。

 

 僕個人の事例で言えば、非常に憑かれやすい体質だと思うので、様々な場所で背負っている様々な役割の方が、僕自身の本来の人格よりも前面に出てきます。

 それゆえに、仕事や家族や、友人や、その他人間関係において、僕が見せている人格は、多重人格を疑うほどにまちまちに変化しています。僕個人がどうしたいかよりも、その場でどう振る舞うべきかという役割を果たしてしまい、本来の人格が消えてしまうことが多いと感じています。ある役割を担っているときと、それとは別の役割を担っているときでは、同じものに対してでも異なる判断をしていることを自覚しています。

 それゆえに、それぞれ異なる役割が求められているいくつかの人間関係が一堂に会する機会があった場合、僕はその場でどの役割を果たす人格を表に出せばいいのか判断できなくて、無人格となり、口数が少なくなってしまったりもします(例えば子供の頃、家族と一緒に出掛けている先で、偶然学校の友達と出会ったような感じです)。

 

 高校生の頃、歳の離れた妹(当時幼稚園児)が僕に対して「なんで大人と話するときだけ賢そうなん?」と聞いてきたことがあります。妹と遊んでいるときは、遊び相手としての幼稚園児レベルの人格で応対しているものの、大人と話すときは、兄弟の中での年長者としての人格で応対しているので、その変化を不思議に思ったということでしょう。明らかに異なりますし、今でも下の兄弟と接するときは普段よりも精神年齢が若くなっていると思います。

 僕の中には、接する他人の数だけその人に合わせた微妙に違う人格が存在しています。それらの中には似通ったものも多くあるのですが、少なく分類しても5つのかなり異なる人格が僕の中に混在しています。それを多重人格と呼ぶには頭の中で一貫しています。そして、それらをシチュエーションに合わせて演じ分けているつもりは全くありません。あくまで自然にそうなってしまい、状況に合わせて違う自分が出てきて、自分でもどうにもならないのです。

 

 僕はこの状態を「憑かれている」と捉えています。この種の憑きものから完全に解放されるのは一人でいるときだけです。インターネットに接続しているときは、たいてい一人なのでかなり素に近いと思われます。憑かれていないので、疲れない感じです。駄洒落です。ただ、これが真の自分と呼べるものなのかというと、この状態が表に出ていることは社会生活の中でまずないので、そんなめったに表にでてこないものが真の自分なのか?と思うと不思議な気持ちになります。

 僕は社会に属して生きているので、その中の役割との合わせ技で生まれたそれぞれの人格も、きっと僕自身であることには違いありません。その中には自分がその人格を表に出していることがしんどくなってしまうものもあります。なので、その人格が嫌だと思ったら、社会の中で立ち位置を移動するなりして背負う役割を変化させ、憑きものを落とすことにしています。

 

 これは別に僕が特殊なわけではなく、誰でも多かれ少なかれ背負っているものだと思っています。例えば、僕の考えでは、「大人」という存在は、庇護すべき「子供」あるいはそれに相当する何かしらが存在する場合に、役割として生まれてくるもので、大人は子供に相対することによって大人になるのであり、庇護すべき子供がいないのならば自分も子供のまま(自然のまま)なのではないかと思っています。大人になるということは成長したということではなく、役割を得たことで一時的にそういうモードになっているだけなのではないでしょうか?それも僕は憑きものだと捉えているのです。

 だからこそ、僕は子供の面倒をよく見ていた頃の自分の方が、今の自分よりも大人であったと思っていて、今となっては、彼ら彼女らも僕の手も金銭的補助も必要なく一人立ちし、僕はやっと大人という役割を背負うことを止めることができました。

 

 また、このような憑きものの存在は、嘘をよくつく人に対しても感じることがあります。例えば嘘の報告を受けたとき、何故いずれはバレることがわかりきっている嘘をこの人はついてしまうんだろう?と疑問に感じたりします。最後まで隠し通せるならまだしも、それは絶対にバレることでもその場しのぎの嘘を答えられたりすることには違和感があるのです。

 もしかするとそれもまた憑きものなのかもしれません。当人の本来の人格とは別に、何らかの憑きものが、その状態のときに嘘をつくという行動を促しているのかもしれないと思っているのです。

 人に質問をすれば事実が返って来ると期待しがちですが、その手の憑きものに憑依されてしまった人が相手の場合、事実ではなく、その状況に対してその人ができるだけ責められないような理由が回答されたりします。

 

 具体例を挙げるなら「〆切は過ぎていますがいつできますか?」という僕の質問に「明日にはできます!」と答えがあるものの、実は全然出来ておらず、実際に出来上がるのは3日後だったりすることがあります。

 僕は結構こういう立場になることでつらい思いをしているんですけど、なぜなら、そういうとき、僕はそこから後工程の人たちにすごく頭を下げていて、「明日には…明日にはできますので…あと1日だけ待ってください…」などと何度も頭を下げているわけなのです。しかし、実際はそこからさらに2日かかるわけです。僕が言って言葉は嘘になってしまいます。

 その後も、その嘘の進捗報告をした人は(おそらくは)怒られたくなくて、本当の想定よりも早めの時間を何度も小出しに僕に報告してくれるわけじゃないですか。僕はそのたびに都度、色んな方面の人に謝ることになり、「昨日と言っていたことが違うじゃないか」というお叱りを受け、申し訳ございませんと連呼するわけですが、言葉は連呼すると重要度が薄まるので、いくら言葉を尽くして謝っても意味はなくなり、僕が平気で嘘をつく人ということになります。これらの言葉も僕が憑かれているために発せられたのかもしれません。

 僕はこのように大変つらい思いをするので、どうにか解消しようと、それらの人に対して、僕は怒らないし、今まで怒ったことも一度もないじゃないですか、最初から、この時間ならできるというのを正確に答えてくださいよ。それなら僕が1回謝るだけで済むわけじゃないですか。あなたが、嘘をついているという認識はなく、本当に早めにできるならやりたいと思っているのも信じていますから、必要な十分な時間を最初から言ってください…という気持ちを2、3枚オブラートに包んで伝える感じになるという経験を重ねてきました。でも、なかなか改善することはありませんでした。

 

 こういう経験を重ねてきて思ったのが、こういうのも憑きもののしわざと捉えることで、それを落とさないことには、人間にどんな言葉を送っても、人間が強く反省してくれたとしても、憑きもののしわざで繰り返しになるわけです。

 ものごとは人の責任にしてもめったに解決しません(憑きものをモノともしないタイプの人間もいるので、メンバーが変わると解決することもありますが)。やり方は色々あるんですが、遅れているということを報告することが、その人にとってダメージにならない状況を作り上げること、つまり場の状況と役割の状況を変化させることが基本的な指針です。そして、そもそも〆切を守らない大人がいる問題を解決しないといけないので(大人は意外と〆切を守らない)、それを十分リカバリできるタイミングで気づけるように、日ごろから気を配っておく必要があるわけです。場所や仕組みの問題と捉えて、人の問題と捉えないことが重要だという結論に今のところ至っています。

 具体例は長くなるので省きますが、色々と憑きものの落とし方を考案していて、自分の環境で人体実験しまくってきた結果、最近はだいぶプロジェクトマネジメントが問題なくいくようになってきましたが、対人関係が異様に苦手である僕がこういうことをしている時点で、今は僕の人生の中でかなり異常な状況です。

 

 なぜこの異常な状況が生まれているかというと、これもまた憑きものであって、これがお仕事でなければ僕は決してやらないでしょう。仕事をするという上で、自分に憑依している憑きものが、素の自分ならば決してやらないことに足を踏み出すためのきっかけと原動力となっているだけの状態なのです。つまり、経営者はある種の憑きもの筋の人々で、部下に様々なものを憑依させることで行動を促します。僕も彼らに促されてしまっています。

 それとの付き合い方のバランスが今のところ上手くいっているので、僕はこの場に留まっているわけですが、それがおかしなことになれば自分で憑きものを落として、その役割を放棄し、別のところに行くことになるでしょう。

 このような憑きものを自分自身で落とせないと、追い詰められやすくなる可能性が高い思っています。自分自身の憑きものを落とすためには、まず自分が何かの行動に至るとき、それが本当に自分の意志が決めたことか、自分の役割が決めたことかを切り分けて認識することが大事でしょう。他人に対しても同じで、その人の問題なのか、憑きものの問題なのかを区別した方がいいような気がしています。

 

 例えば、人間は金に困ると色んな変な行動をしてしまうんですよ。僕も昔に経験がありますが、金がないと本当にやばいときには、どうにかして金を作らないといけないので、金に困っていなければ決してしないようなかなり変な行動をとってしまいます。

 で、それはしょうがないと思っているわけです。貧乏神に憑かれているのです。だから、他人が変な行動をとったときにも、よく、ああ、金に困っているのかな?と思ったりします。金に困っている人は、金に困っているがゆえに変な行動をとってしまうので、金に困っていない人の基準でどうこう言ったところで、解決しないことが多いですし、金に困らないようになればこの行動もなくなることだろうなと思います。

 

 大塚英志原作の漫画では、「多重人格探偵サイコ」を始めとして色々な作品で、「多重人格は民俗学の中では憑きものとして処理されていた」という話が登場します。中学生ぐらいのときにこの話を初めて読んだときには、なんじゃそりゃって思ったような記憶がありますが、二十年ぐらいの年月を経て、自分が似たようなことを考えているようになったので感慨深い感じですね。

 久しぶりに「多重人格探偵サイコ」を最初から読み返してみたいと思います。

ゼルダの伝説ブレスオブザワイルドを遊びながら地元を思い出す話

 ニンテンドースイッチゼルダの伝説ブレスオブザワイルドが発売日に手に入ったので、ここ一ヶ月弱遊んでいます。まだ始めたばかりというぐらいの気持ちでいたのにプレイ時間が50時間ぐらいになっていて、数字で確認したときびっくりしてしまいました。

 

 メインストーリーの進捗としては4体の神獣に巣食う中ボスのうち、今のところ3体までは倒していて、たぶん最後の1体を倒せばラスボスのガノンに挑戦するという感じなのかなあと思っていますが、まだまだ探索していないところが沢山あるので、色々後回しにしてゲームの中の世界を駆けずりまわっています。

 このゲームの世界は、走って回るには大変で広いものの、頑張れば走って回れないこともないぐらいの大きさで、それぐらいの広さの中に、灼熱の火山や、凍える雪山、からっからの砂漠に、植物生い茂るジャングル、そして、広い草原や遠く広がる海原があり、様々な種族が住む街や、道沿いに点在する集落、モンスターたちの拠点、あるいはかつて何かが存在したであろう遺跡があり、その間を行き来する人々ともすれ違います。そこに住む動物たちもいます。

 昼夜が変わり、温度が変わり、天候が変わり、風向きが変わり、そして、それらのそれぞれが互いに干渉することで、変化が生まれます。同じ場所でも、晴れた昼間と、雷雨の夜では全く異なる顔を見せます。全てを見ることができないぐらいの世界がそこに広がっています。

 

 土地と天候とキャラクターの関わりあいによって、目の前に広がる状況が変化します。それらに干渉する一番強い力は、僕が操作するリンク自身ではないでしょうか。自分が関わることで、様々なものが変化します。意図した通りに、あるいは意図しない形で変化する様子を見て、楽しい気持ちになります。

 

 楽しいので延々遊んでしまっているのですが、この楽しい気持ちとしては、地元に住んでいた頃の特に予定のない休みの日を思い出します。

 僕は自転車に乗って遠くへ行くんです。あの山を越えたらそこには何があるのか?あの橋を渡ったら、あのトンネルを抜けたらどんな光景が広がっているのか?子供の頃から自転車で県内をの色んな場所を走り回り続けたことで、行ったことがある場所が少しずつ増えていきました。当時は今ならスマホで見れるような地図も持ち歩いていなかったので、その先に何があるのかを僕はあまり知らないのです。こんなところにこんなお店があったのかとか、神社があったのかとか、山の頂上から眺める風景とか、そういうものを意味もなく記憶の中に集めていました。

 僕が住んでいた場所は、遠くにいこうとすると最終的には山か海かにぶつかる土地でした。その山や海を越えられないことはないのですが、体力的な問題で結局越えて他県まで行けたことは一度もありません。ただ、その向こうにはここ以上に限りなく広い世界が広がっているということだけは思っていました。自転車を何時間もこいで、幼少期に過ごしていて、今ではあまり縁もない土地に辿り着くこともありました。その頃とは違う目線でその土地を歩き、記憶を掘り起こしたりして、また帰ってきます。ひとりで過ごす時間だけは十分あったので、そういうことをよくしていました。

 

 ゼルダの世界には祠があります。それはランドマークのようなもので、1種類の謎解きと、ご褒美があり、ワープできるスポットとして機能します。当時の僕にとってはそれが本屋でした。だいたいの遠出の場合、本屋をチェックポイントとして休憩したり、そこで折り返して帰ってきたりしていました。田舎なので本屋が広くてでかいんです。そこでしばらく立ち読みをしたり、近所の本屋では見かけない本を見つけて買って帰ったりしました。

 中学生以降では県内にブックオフが沢山出来初めて、古本屋は店舗ごとに品揃えがまちまちなので、それが楽しかったということもあります。知っている作家の見たこともない本を、何時間も自転車をこいで辿り着いた先で見つけて喜んだりしました。

 次からそっちの方面に遠出するときには、本屋が目印になります。あの本屋まで、あの本屋までと思いながら自転車をこぎました。頭の中にどこに本屋や古本屋があるかという地図ができてくると、そのはしごなんかもよくしました。確か高校生のとき、「沈黙の艦隊」を立ち読みし始めて、でも近所の古本屋には歯抜けのような品揃えで、別の古本屋に行って続きを読み、また別の古本屋に移動しては続きを読み、ということを繰り返したりしました。当時はお金をほとんど持っていなかったので、立ち読みばかりをしていました。今思えばよくないですね。

 最終的にある古本屋にある漫画を棚の端から端まで全部読んだので、何万冊という規模で読んだと思いますが(毎日放課後に本屋に行っていて、休日には一日10時間とか平気で立ち読みしていたんです)、地元にいた頃に買った漫画はせいぜい100冊程度です。今は電子版を入れると一万冊近くは所有していると思うので、それをもって許してくれという気持ちですが、当時よく行っていた本屋のかなりの数が今では潰れているので、償い切れないものというものについて考えます(話が逸れました)。

 

 このように、ゼルダの伝説ブレスオブザワイルドを遊んでいると高校生までの地元で生活していた頃の自分の生活を思い出します。あの頃、山や海の向こうにはまだ行ったことのない無限の世界が広がっていて、それを思いながらも、自力で駆けずり回るには十分広い地元の土地を散策していました。そして、進学に伴って、その生まれ育った土地を離れることになりました。

 ガノンを倒せば、このゲームの本筋は終わるのだと思います。そうすれば、あの行けない山の向こう海の向こうにあるだろう、別のゲームに手を出すことになるのでしょうか?それとも、まだ十分に探索しきれていないこのゼルダの世界をしばらく駆けずり回るのでしょうか。ゲームのメインストーリーをクリアしてしまうと、残りの要素があってもなんとなく止めてしまったことも経験上多々あるので、それがなんか怖くて、進めようと思えば進められる話をそのままにして、今は別のことをしています。

 

 ともあれ、これ、ヤバいと思うのは、ゲームの中の各土地に、既に思い出が蓄積し始めているんですよ。前にここに来たときには、こういうことがあって、こういう戦いをしたなとか、ここの入り口が分からなくてぐるぐる回ったなとか、寒さしのぎに焚き火をして、気温が上がる夜明けまで待ったり、岩壁を登る途中で雨が降り始めて、滑落しないように天気予報を見ながら止むのを待ったり、そういったこもごもを、再びそこを訪れたときに思いだし始めたりしているわけです。

 以前、「大学時代はフォークリフトのバイトをしたな」とか思い出したあと、一瞬あとに、それは実体験ではなくシェンムーの中の記憶だ!と気づいてしまったことがあって、ゲームの中でやったことが、完全に自分の思い出の一部になってしまっているということに気づいて、それはきっとよい体験であったと思っています。

 

 何年か後に、地元での生活を思い出すように、このゲームの内容を思い出す感じになったらいいなと思ったりしています。

 

 それはそうと、ブレスオブザワイルドはハンターハンターのキメラアント編のゲーム版のように思っているところもあって、自然保護のNGL自治区と、怪物の王に乗っ取られた東ゴルトー共和国を足したようなマップ構成に、その中心にいるであろうラスボスと、周辺を守っている手下たち、出来るだけ近づいてワープポイントを作って帰ってくるのはノヴの四次元マンションだなとか思いながら遊んでいます。遊びながらリンクは過去の記憶を思い出すので、もしかすると自分は人間の頃の記憶を徐々に思い出している、キメラアントなのでは?なんてことも思います。

 このように色んな見立てが可能で(他にそんなことを考えている人はいないかもしれませんが)、そういうどうでもいいことを考えながら遊んでいます。クリアまであと50時間ぐらいは遊びたいですね。