漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「高3限定」と人柱について

 うらびれた田舎町にある全寮制の一貫校、その閉鎖的な世界に生きる少年、小野はある噂を耳にする。「高3限定」、教師の池田が毎年ひとりの生徒と、高校3年生の1年だけを限定に恋人関係になっているという話だ。池田は綺麗な顔をした男性で、そして、いつも怪我をしている。その怪我は、その1年だけの恋人の手によるものだと囁かれていた。傷ついた池田に憐憫の情と、恋心を抱いていた小野は、そんな高3限定に立候補する。

 

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 これが梶本レイカの「高3限定」の冒頭部分だ。そして、この冒頭部分からは思いもよらない方向に物語は展開する。そして、物語を読み終えた後でも、何が真実であったのかが曖昧な部分がある。それは、この物語が各々の主観でのみ語られたことで、そして、主観とは時に矛盾するものだからだと思う。つまり、誰かが嘘をついていたのかもしれないし、誰も嘘をついていないのに、別の真実が見えていたのかもしれない。

 例えば、小野にはとても綺麗な男に見えていた池田が、その友達のトミーの回想によれば、怪我の後遺症で無残な姿の男として語られる。それは、小野に仄かな感情を抱いていたトミーによる嘘かもしれない。あるいは、小野とトミーには本当に別々のものが見えていたのかもしれない。

 

 この物語では、徹底的に痛みと喪失が描かれる。池田はかつてある出来事によって、沢山のものを奪われてしまった男である。その喪失は背中に残るアイロンの形のやけどが象徴するように、痛々しい形で池田の肉体に刻みつけられている。そして、何より悲しいことは、池田はその痛みに意味があると思っているところだ。義眼となっている片目にも、若くして総入れ歯になっている口にも、それらの喪失には意味があったと思い込んでいる。そして、物語が進むにつれて、その思い込みが、この池田町という異常な町を支えているという事実が見えてくる。

 

 この物語が許容するリアリティの線引きは、比較的曖昧だ。何が登場することは許されて、何が登場することは許されないのかが曖昧なままで物語が進行する。例えば、死んだはずの犬が再登場したとき、それは実は死んでいなかったのか、別のよく似た犬だったのか、あるいは死んだ犬がなんと生き返ってしまったのかを上手く区別することができない。何があり得て、何があり得ないかがよく分からないからだ。

 だからこそ、物語の後半に起こることの意味を僕は初読では上手く捉えられなかった。物語の終結を間近に控えるあたりになって、ようやく僕はそこで巻き起こった出来事の意味をおぼろげに感じることができたように思う。

 

 池田の異常な思い込みが生み出した誇大妄想のように思えるものを、小野は高校生の純真な眼差しで解き放とうとする。読者である僕の視点は小野と同じで、池田が何にこだわっているのかがまるで理解できない。僕の目線では、その思い込みは思い込みでしかなく、閉じた目を開くように、純然たる事実だけに目を向ければ、囚われていたことが無意味に思えるようなことだと思えたからだ。

 池田は自身が受ける痛みに意味があると思っている。何かの願いを叶えるためには、その代価として痛みが必要なのだと思い込み、だからこそ、その痛みを受け入れて耐え続ける。小野にはそれがまるで理解できない。小野の純真な池田の幸せを思う心は、池田の人生からその痛みを取り除こうとする。そして、それはとても正しいことであるかのように思う。にもかかわらず、小野の思う通りに行動しない池田のことを、なんて無意味なことに囚われている哀れな人間なのであろうかと思ってしまう。

 

 けれど、この物語において、少なくともその時点では、その痛みに、喪失に、犠牲に意味はあったのだ。そんなものに意味があってしまったという悲しい話なのであって、それを否定してしまうということは、そこに存在したおとぎ話を瓦解させてしまうことになる。痛みを代価として池田の願いがある。それが無意味だという事実を池田が受け入れたとき、かろうじて辻褄が合っていた世界が崩壊してしまう。その結果、小野は池田を失ってしまうのだ。奇しくも池田の犠牲という事実によって、小野はその先の生を得てしまうことになる。呪いは解けたが、まだ解けてはいないのだ。

 歳を経て大人になった小野は、その喪失を埋め合わそうとやっきになってしまう。それこそが、また、別の呪いであり、小野もまたその地に伝わる因習の巻き起こす呪いの渦中の人物となってしまう。これによって、トミーのように、その呪いに囚われていない人間から見れば、小野はひどく曖昧な存在になる。はっきりとその目の前にいるのに、その実在も分からないような曖昧な存在である。それは小野にとっての池田のような存在であると言えるかもしれない。

 

 物語のクライマックスにおいて、小野は自身の命を代価として、再び交渉の場に立つことになる。彼が望むことは唯一、池田の救済であって、それは、池田の持ち合わせていた「痛み」と「願い」の等価交換を否定することを目的としたものである。つまり、その犠牲に意味を持たせないということだ。何かの願いが叶うことは、決してそれに相当する痛みや、喪失や、不幸があるからではない。小野が池田に示したかったのはそういうことで、だから、これはとても優しいお話だ。

 何かの願いを叶えるために、犠牲となる生贄のイケダを必要としてはならないという、戒めのようなお話だ。

 

 世の中のそこかしこに、不幸を燃料にして駆動するような地獄の機械があると思う。何かの変革をもたらすには、相応の大きな根拠が必要だと思われがちであるからだ。僕個人の体験レベルで言えば、例えば、壊れかけた機械を補修しつつぎりぎりの人数で動かしているとき、にもかかわらず、それを根本から刷新することがなかなかできないことがある。その刷新には大きなお金や労力がかかり、今まだかろうじて動いている機械をそのまま動かし続けるということには、それだけのお金を使える根拠がないからだ。

 いつか壊れることが分かっていて、それは決して遠くないことで、しかも、壊れたら多くの人が困るということも分かっていて、でもぎりぎりで動いているからそのままになる。そして、それがいざ壊れたら途端に問題視される。そこに損失が生じるからだ。動いて当たり前であると思われていたものが動かなくなったとき、なぜ壊れることを予期していなかったのか?という疑問が挙がり、早急に対策が講じられる。それまでどれだけ頑張ってギリギリで動かしていても、どれだけ必要性を訴えて説明しても、変えることができなかったことが、ひとつの大きな不幸の存在で一転する。

 ならば、必要なのは不幸だったのだろうか?それまで無関心であった人々の目を、そこに向けさせるために必要な不幸がそこにあったことが重要だったのだろうか?そのような不幸が根拠となり、ようやく無理のあった状況にメスを入れるきっかけとなることもしばしばだ。本当は、そんなものが起こる前に手を打つべきだったのだろう。しかしながら、何も起こっていないときには、それをするに足る根拠がない。十分な根拠がなければ何かを変えることは難しい。

 誰かの不幸によってようやく状況が変わるのであれば、この世が上手く回るには生贄が必要だ。

 

 例えば、AとBの対立する集団があったとする。そして、Bの集団にAの一員が傷つけられたとき、Aの集団の一部が喜んだような行動を見せることがある。なぜならば、それによって大義名分が手に入るからだ。Bの集団にAの一員が傷つけられたという事実は、Bの集団を糾弾するために十分な根拠となる。身内の不幸を餌にして、AはBに対する優位な立場を得ることになる。

 前に進むために誰かの不幸が利用される。その燃料となるための不幸が暗に求められているんじゃないか?という疑念を抱く。不幸に価値があるのなら、その価値ある不幸は無くすどころか望まれすらするだろう。しかし、その不幸を一手に担うはめになる存在はどうなのだろうか?多くの人々にとって有用に働いたその人の不幸は、何によって償われるだろうか?その後、よりよい世の中に変わったとして、尊い犠牲であったなどと評されるのだろうか?その生贄になった人自身にとって、その事実は本当に何かの意味があるのだろうか?

 

 犠牲を糧にしなければ変わらない状況を維持するという世の中の在り方が、その不幸に意味を付与してしまい、価値あるものに仕立て上げてしまうとするならば、それはとても悲しいお話だ。橋を立てるために、人柱を立てたという昔話と変わりなく、その不幸は無意味だが、必要であったという話になる。

 この物語は、そのような悲しさに向き合った話で、そこから意味を剥ぎ取り、そんな哀れな生贄の存在が、ただただ救済されることだけを願ったお話だと思う。それは世の中を変えるほどの大きな根拠の伴わない、無力でしかない願いかもしれないが。

 ただ、この物語が最後まで描かれたことにとても意味があるように感じた。

 

 それはそうと、最近よく聞いているamazarashiの「命にふさわしい」という歌の歌詞が、この「高3限定」の物語とちょっと似てるところあるなと思いました。歌詞は書かないのでググってみてください。

「BEASTARS」に感じる共同体の抱える矛盾の話

 チャンピオンで連載中の「BEASTARS」を毎号楽しみに読んでいます。

 この物語は様々な動物が人のような社会を構築した世界のお話です。主人公はハイイロオオカミのレゴシくん。物静かで言葉少ない少年で、肉食獣の大きな体を猫背にまるめて、多種多様な動物の子供が集まった学園で生活をしています。僕はこのレゴシくんのことをすぐ好きになったのですが、きっかけになったのが「悲劇が好きなんだ」とポツリと友達に語った場面です。レゴシくんは悲劇的な物語を読みながら、それに同調して心が沈んでいく感じを体感することが好きであると語ります。そして、僕もそうなのです。悲しい物語を読んで悲しい気持ちになったりします。それが好きというのもどうだろう?と思うのですが、自分が山ほどそういう物語を読んでいることを鑑みて、どう考えてもそれが好きなんだろうと思ってしまったりしています。

 

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 人間は、目の前の人と同じ感情になるということがあるんじゃないかと体感的に思っていて、違う温度の水を混ぜ合わせると同じ温度の水になってしまうように、人と接することで、自分の持っているものと相手の持っているものを混ぜ合わせて同じ温度、つまり同じ感情になったりするんじゃないかと思います。もちろん相手との間に心理的なついたてを立てることで、それを拒否することもできるでしょうが。

 僕は本で読む多くの物語に対してそういうことをしていると思っていて、楽しい物語を読んで楽しい気持ちになったり、悲しい物語を読んで悲しい気持ちになったりします。その行為には自分ひとりでは生まれてこない何かを、外部から取り入れるという意味もあるでしょうし、相手の持つものの中に、自分と同じ温度の部分を発見することで、同じ温度ならば変わらずそのままでよいと思えたりします。自分より高い温度や低い温度のものと接するならば、自分自身の温度を少なからず変えなければなりません。でも、相手も温度ならば自分は変わらなくて済むわけです。それは刺激的ではないかもしれませんが安心します。

 

 レゴシくんの「悲劇が好きなんだ」という言葉について感じたのは、悲劇の物語という違う温度のものと接することに対する感情と、それが好きだという同じ温度のものに接することに対する感情の両方なのです。

 

 さて、BEASTARSには様々な動物が登場します。大別すると肉食獣と草食獣で、彼らは同じ共同体の中で生活をしています。この手の物語で気になるのは彼らが何を食べているかでしょう。かつて、喰って喰われるという関係性が生態系のシステムであった肉食と草食は、十分な文明と(少なくとも表面上は)わけ隔てのない社会を獲得した後でも、焼きゴテで押し当てられたようにくびきとして残っています。

 似た環境を取り扱ったディズニー映画の「ZOOTOPIA」では、その本能が肉体にあることと、それを克服できる社会が存在すること、それによって誰もその本能があるということだけで差別的に扱われないという希望が描かれます。

 一方、BEATSTARSでは、その本能を持つがゆえに苦悩が描かれます。社会的に許されない肉食を求めてしまうことは、自分の意志だけではどうにもならないという苦悩です。同様のテーマについては、「レベルE」にも取り扱ったエピソードがありました。ある異星人の少年にはある本能があります。それは過酷な母星の環境の中で獲得したもので、生き延びる体力のあるオスがメスを喰うことで体内で受精をするという生殖形態です。その本能のせいで、彼は好きになった女性を食べてしまうのです。好きなのに、好きであるからこそ、殺して食べてしまうのです。地球にやってきて、地球人に擬態し、もはやその過酷な環境とは決別したはずなのに、そして、地球人を食べたところで子供を残せやしないのに、彼は本能に抗えず食べてしまうのです。結局その物語の中では、彼の苦悩が描かれはすれど、救済はされません。

 果たして、BEASTARSでは今後どのような過程と結末を迎えるのでしょうか?

 

 レゴシくんは、その控えめな性格とは裏腹に、肉体が持つ強い暴力の才能と、そして時折どうしようもなくなる狩猟の本能に苛まれてしまいます。温厚な彼が怒りの表情を見せるのは、他の肉食動物が、肉食に対する肯定的、容認的な感情を吐露したときです。自分が必死で抑え込んでいるものを、表に出してしまうということに対する行為に許しがたいものを感じるのでしょう。

 この物語の中には聖域がなく、全てが語られる可能性があるものとして描かれていると思います。草を食べるだけでは生きられない肉食の動物が、一体何を食べているのか?という疑問、そして、都会の闇の中に存在する、肉を売る裏市の存在、同じ社会を構築する上で生まれてしまう矛盾が、社会の中でどのように解消され、辻褄が合わされているかが語られます。

 しかしながら、それは必ずしも暗くて陰惨な話ばかりではありません。例えば、ニワトリの女の子が、自分の生んだ無精卵を学校の購買に売るというアルバイトをする話は、とてもよい話でした。肉食獣に対する貴重なタンパク源を供給する役割を持つ、自分たちにしかできない仕事をしているということに誇りをもって従事している姿は、とても微笑ましく美しく感じるものでした(それでいて、本当にそうだろうか?というしこりも残りますが)。

 

 彼ら動物たちはは、生まれつき温度の異なった水でしょう。それも強く温度の異なった水です。しかしながら、共同体を形成するためには、同じ温度であることが求められます。その基準となるべき温度がどこにあるかによって、苦悩の幅は異なるでしょう。より高い温度のものが、低い温度になるには苦痛が伴うかもしれません。より低い温度のものが、高い温度になるには強い努力が求められるかもしれません。そして、社会的共同体は、それらの多くの人々の苦痛の我慢や強い努力があることで達成されているものです。そして社会では、それが表面上達成されたかのように見せかけられるだけのこともしばしばです。

 何を表に出して何を表にださないか。自分の中の高い温度の部分はついたてで囲って温存しておき、出せる部分のみを混ぜ合わせて共同体に参画する、それは多くの場所で行われていることです。僕自身がそうです。自分自身の抱えているものの中で、自分が属する共同体の前で見せるのは、そこに合わせても問題ないものだけで、おいそれと表には出さないものもあります。あたりさわりのないもので具体的に言えば、オタク趣味を仕事場で公言しないというような感じの話です。ただ、同じ趣味の人が相手であれば温度差が少ないので、表に出すことに躊躇がないかもしれません。

 

 何かしらの社会的な共同体に参画するということは難しく、その共同体で求められる温度に合わせられなければ糾弾されてしまうことがあります。であるがゆえに、その合わない共同体を離れたり、自分と温度差のない共同体を探したり、自分の中の部分部分を切り出して、かろうじて共同体に合わせられる部分だけを合わせたりを、皆がしているのではないでしょうか?

 それは大変なことですが、だとしても、共同体を育むということにそれ以上の意味があるからしているのでしょう。しかし、そこにあぶれてしまった共同体の理念に矛盾する何かしらを抱えてしまった場合に、人はどうすればいいのでしょうか?

 

 BEASTARSは、そこに対して曖昧な部分を残さないような物語となっているところがとても格好良く感じ、そして、それはもうどうしようもないんじゃないかという問題に対して、どのような態度がとられていくのかということが気になっています。

 「ヒメアノ~ル」という漫画では、連続殺人鬼となった森田という男が、彼がやってしまったえげつない行為と、自分がそれをしてしまう他人とは決定的に違う存在であると気づいてしまうという悲しみが描かれました。「コオリオニ」という漫画ではヤクザと元刑事が、反社会的な行為に身を落としつつ、自分たちが他人とは決定的に異なる感性を持った異常者であって、その感性の通りに行動することが社会では決して認められるものではないという苦境が描かれます。

 反社会的な欲望は、反社会的であるがゆえに社会の中で居場所がありません。そして、社会に受け入れられないということはとても悲しく感じてしまうことです。果たして自分がそのような立場となったとき、その矛盾するものにどのような答えがあるのだろうか?と、悲しい物語を読んで、悲しい気持ちになってしまったりするのです。

 

 果たしてレゴシくんにの前には今後どんな困難が待ち受けていて、いかなる結末に辿り着くのでしょうか?それは悲しい諦めであるのか、夢ある希望であるのか、はたまた、そのどれとも異なるのか。僕は漫画を読んでレゴシくんと同じ気持ちになりながら、なってしまうからこそ、その先が気になってしまってたまらないのです。

僕が考えた漫画ことわざ

 「泣いて馬謖を斬る」とか「髀肉の嘆」など、三国志由来のことわざ(というより故事成語なのでしょうか?)があるのだから、漫画由来のことわざもあってもいいんじゃないでしょうか?と思って、適当に作ったやつを実際に使ってみたりするんですけど、そもそも、ことわざなどの言い回しは、みんなが既に知っているからこそ伝わるのであって、自分で勝手に作ったやつは全く意味が伝わらないですし、イチイチ解説しないといけないという当たり前の事実にぶつかります。

 なので、完全に僕の都合で、僕が考えて日常生活に混ぜ込もうとしている漫画ことわざの一部を紹介します。

 

 「秘拳伝キラ」という漫画があって、これは琉球空手の「南王手八神流(はおうでいやがんりゅう)」の使い手である八神雲(やがみきら)という少年が、門外不出の古流空手の使い手でありながら、異種格闘の世界に足を踏み入れていくという感じの漫画です。僕はこの漫画がすごく好きですが、それはいいとして、作中に「火神(ヒヌカン)」という技があります。これは纏糸勁(らせんの動き)を蹴りに応用したような技で、相手との距離をとったスタンスで、後ろに引いた足でのみ繰り出せる、回転を加えた前蹴りです。古流空手由来の鍛え上げたつま先によって、達人ともなれば相手の肋骨をばらばらに砕くほどの威力を見せるそうです。

 この火神はとても強力な技である一方、それを出すことができるシチュエーションはごく限られています。うかつに出しても相手に避けられてしまうでしょうし、正面にいない相手には使うこともできません。

 しかし、キラくんは、戦いの中で火神が成立する条件を一切満たしていないシチュエーションであるにも関わらず、使ってみせます。これがすごくカッコいいんですね。その故事によって生まれたことわざが「キラの火神(ヒヌカン)」です。

 

 意味は「成立する条件が一切整っていないにも関わらず、使えないはずのそれを使って見せるのですごい」というものです。

 

 どういうときに使うかというと、例えば、以前、発売前の漫画雑誌のキャプチャ画像を貼りまくっていたサイトのコメント欄に「著作権法違反では?」というコメントが書かれていたということがありました。そして、そのコメントに対してサイト運営者が「私はこれを引用と解釈しています」と返事していたときに、「キラの火神や!!」と僕は思いました。

 引用が成立する条件としては、本文と引用文の主従がはっきりしていること、出典が明記されていること、批評等を目的とした必然性があることなど、様々な要件があるにも関わらず、それを一切満たしていない行為を「引用」と言っているので、これは完全に「キラの火神」だなと思いました。

 

 「スラムダンク」の三井寿は中学生時代は有望なプレイヤーであったものの、高校入学後に怪我をきっかけとしてバスケ部を辞めてしまい、不良になってしまいます。色々あってバスケ部に復帰した三井は、不良をやっていた期間に落ちてしまった体力から、試合の途中で限界を迎えて交代してしまうことになるのです。

 コートから引っ込んだ三井は自分の過去を思い出し「なぜオレはあんなムダな時間を…」と嘆きます。この故事をもとに考えたことわざが「三井寿の裏ベンチ」ですが、今念のため確認したら三井寿が座っているのはベンチじゃなくて階段ですね。でも、語感が良いのでベンチということにさせてください。

 

 意味は「いざ必要になったとき、過去の自分の所業が立ちはだかって後悔する」というものです。

 

 どういうときに使うかというと、〆切前に一秒も時間を無駄にできないぐらいに追い詰められているとき、過去の自分が無駄に使っていた時間が思い起こされてしまう辛い時間に使います。僕もこの前色々逼迫していたときに、なんでこんなに忙しいんだ!!と思っていた脳裏を、「FF15」と「龍が如く6」と「人喰いの大鷲トリコ」をクリアするのに使った百時間以上の時間のことがよぎったときに思いました。完全に「三井寿の裏ベンチだ!」と思いましたが、ただ無駄ではなかったですし(面白かったので)、別に後悔もしていませんが(なんとかなったので)。

 

  • 「チャオズの心、天津飯知らず」

 「ドラゴンボール」のチャオズは、サイヤ人襲来の戦いの中で、強敵ナッパの背中に貼りつき自爆します。最期の言葉は「さようなら天さん、どうか死なないで」です。兄弟子である天津飯を生かすため、自ら死を選んだのがチャオズです。しかし、そんなチャオズの死を目の当たりにした天津飯の言葉が「カタキは討ってやるぞ、そしてオレもいく、おまえだけにさびしいおもいはさせんぞ」というものでした。そして死にます。チャオズの命をかけた「死なないで」というメッセージが、全く通じていないことが物悲しいということを指す言葉です。

 

 どういうシチュエーションで使うかというと、例えば、若者が仕事ですごく困っていたときに、長時間労働となっていたので、とりあえず僕が代わりにやっておくので、今日は帰ってゆっくり休みなよと言ったにも関わらず、謎の責任を感じたらしくなかなか帰ろうとしなかったので、そんな「チャオズの心、天津飯知らず」みたいな…と思いました。

 

  • 「涼母参戦」

 完全に「孟母三遷」の語感から来ているやつですが、元となっているのは「ARMS」です。主人公、高槻涼が謎の組織エグリゴリに狙われるようになり、エグリゴリの刺客であるサイボーグたちは涼の家までやってくるのですが、そこで人質に取られたのは、涼のお母さんです。涼は狼狽してしまうわけですが、ところが涼の母は実は「笑う牝豹(ラフィングパンサー)」と呼ばれた凄腕の元傭兵、生身の体でありながらサイボーグたちを赤子の手をひねるように倒してしまうのです。

 

 このように、自分が守ってやらないとと侮っていた存在が、知らない事実によって実は自分よりすごいことが分かってしまい、あまりの落差に笑ってしまうほどびっくりすることが「涼母参戦」です。

 ところで「赤子の手をひねる」ってすごい言葉じゃないですか?実際の赤子を目の前にして、手をひねることができますか?なんでそんなひどいことをすることを想像できるんだろう?と思ってしまいますね。

 

 さて、「涼母参戦」の使いどころというと、何か技術的なことを説明するときに、相手がどれぐらい事前知識があるのか分からないので、すごく基本的なことから説明していたら、実はその道のすごい詳しいだったということが分かり、ウワッ、なんか僕の方が詳しい然として説明してしまったので恥ずかしい!って思ってしまったやつとかです。

 

 とりあえず今回は紹介する漫画ことわざはこんな感じです。色々勝手に考えて勝手に使っていきたいですね。

キャラ立ちの向こう側

 「キャラが立つ」という言葉がありますが、その言葉が意味するところはどういうものであるのか?というのを自分なりに考えてまとめたことがあります。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ざっくり言うと、キャラが立っていないというのは、「そのキャラクターが物語を決まった通りに展開させるための役割をのみ背負っていて、物語の都合上求められているふるまいのみをしている」ということです。そして、キャラが立っているというのは「お話の都合で動かされているわけではなく、一個の意思のある存在として読者が認めることができる」ということではないかと考えています。

 例を挙げるなら、「主人公に倒されるためだけに登場する悪」などは立っていないキャラの典型例です。さらに具体的に言うなら、物語の序盤に主人公の性格や強さ(あるいは弱さ)を読者に紹介するために、大した理由もなく因縁をつけてくるヤンキーキャラなどです。彼らは多くの場合、その役割を果たすと退場してしまいます(ただ、それが悪いということではないです)。

 「お話の都合」というものがあまりにも見え隠れしてしまうと、それに沿って行動するキャラクターたちの葛藤も幸不幸も、全て作者の考えたお話の都合でどうにでもなることだと認識してしまいます。だからこそ、物語上立ち現れる様々な出来事の渦中のキャラクターたちがどうなるのかを見守る上で、キャラクターが自分の足で立ち、自分の行先を自分で決めているかのように思えることはとても重要なことだと思います。

 

 さて、キャラクターが立っていると、そのキャラの人となりが自分なりに理解できますから、あるシチュエーションを与えたときに、そのキャラがどのように振る舞うか?ということを読者は想像しやすくなるはずです。

 これは漫画の作者以外の手による二次創作が盛んであるということとも繋がっていると思っていて、キャラクターを立たせるということがそう簡単にはできないことだとすると、とりわけページ数の少ない同人誌などでは、そのために紙幅をとることも難しく、既に立っているキャラクターを他所から持ってくるというのはひとつの合理的な方法と考えられます。

 これはまた例えば、歴史ものの漫画などでも同じだと解釈できます。キャラの立った戦国武将をゼロから考えるのは困難ですが、織田信長ならば、読者に既に共有されている人物像やエピソードをそのまま利用することができるでしょう。さらに、多くの二次創作を経てきた歴史上の有名人たちならば、史実には本来は持っていなかった属性が付与されたりすることによって、より戯画化され、利用しやすいキャラとしての属性が付与されたりします。その逸脱が、史実とは異なると責められることもあるでしょうし、より二次創作的に扱いやすいキャラとなったことを喜ぶ人もいるでしょう。

 

 このようにその存在が実在の人物像のように認識される(あるいは元は本当に実在した人物であった)キャラクターは、「そのキャラクターらしさ」というものを身にまとい始めます。例えば、原作を知らない人が描いた二次創作が、キャラクターの特徴を掴み切れておらず、そのキャラクターが原作ではとらないような言動や行動をとったとき、原作を知っている読者はきっと違和感を覚えるでしょう。

 それはきっとキャラクターが立っていれば立っているほどにそうであるはずです。逆を言えば、一度も喋らず、登場コマ数も少ないモブキャラであったならば、そういう違和感は持ちにくいでしょう。つまり、キャラの立ち方に「強さ」というものがあるならば、その強いということは、そのキャラクターの個性が広く具体的に共有されているという意味ではないでしょうか?それによって、そのキャラクターが何らかのシチュエーションに遭遇した時に、どのように行動するかについて多数の読者の間で共通の理解が生まれやすくなるのではないかと思います。

 

 しかしながら、このキャラであるならば、こういったときにこのような行動をとるはずだという共通理解は、そのキャラ立ちの強さを示すとともに、反応がパターン化されてしまっていると考えることもできます。「○○はそんなことを言わない」という指摘がされる一方、そういった二次創作的なネタとしては「○○は××なとき△△という」というような扱われ方をしてしまったりします。これらはキャラに限らず、有名人がモノマネされるときなどにも起こっています。

 ここで疑問としてあるのは、キャラクターに自我があるように思うことがキャラ立ちであると思っていたはずが、その個性を強調するあまり、いつの間にか、キャラクターが特定の行動しかとらないという、まるで自我がないようなところに収斂してしまうことがあるということです。そういった認識は、「大阪人がマクドナルドをマクドと呼ぶ」という認識が、いつの間にか「大阪人だからマクドナルドをマクドと呼ばなければならない」に変化してしまい、なんとなく大阪に住んでいるとマックとは言いにくくなるような窮屈さを生じさせるのではないでしょうか?

 

 では、キャラが立ちつつもそうならないということはありえるのか?キャラ立ちの強さにキャラの固定化という限界があるのだとしたら、その向こう側とは何なのか?という疑問が湧いてきます。長い前フリでしたが、今書いている文章の目的は、そのひとつの答えが、今月のエレガンスイブに載っていた「ちひろさん」の最新話ではないかと思ったということです。

 ちなみに、ちひろさんについては、前にこういう感想を書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 今月号で何が起こったかは具体的には書かないんですけど(雑誌で読むか、単行本を待って読んでください)、それまでのちひろさんならやらなさそうだと僕が思っていたことをやっていました。しかしながら、いざそれをやっているちひろさんを見ると、あまりにもちひろさんだなあと思えたということで、それこそがちひろさんの持つ「存在の強さ」だなあと思ったのです。

 やる前にはそんなことをするとは想像もしていないのに、やった後には、この人であるならば、やりかねないことだとしみじみ思えるということが、強いキャラクター性を持ちながらも、固定化されてしまわないという、キャラ立ちの向こう側と呼べるものなのではないかということです。

 

 つまりは実在の人間、それもメディアを通した有名人などではなく、近所に住んでいるような人と同じように思っているということではないかと思います。キャラ立ちの向こう側とは、すなわち現実のことなのかもしれません。

 そして一方、現実にいるはずの人間が、なんらかの個性を追求するあまり特定の型にはまったキャラっぽくなり、むしろキャラ立ちのこちら側に来てしまうことがあったりするのもなんだか不思議で、面白いことだなあと思っています。

「雑草たちよ大志を抱け」と真面目な子、そして笑顔について

 学校の掃除を真面目にやる子供を見て思う気持ちみたいなのがあります。他の子供たちが先生が見ていないのでサボっているときに、一人でもくもくと掃除を続けているような子供です。

 そのような子供がそうしている理由は様々でしょう。見られていないからといってサボっていると気づかれると怒られるかもしれないと過剰にビビッている子供かもしれません。決められたことなのだからやらないといけないと自分の中でやるべき理由を見つけられている子供なのかもしれません。

 でもまあ、学校の掃除なんて、めんどうくさいじゃないですか。そして、周りはちっとも真面目にやっていないという、自分だってやらなくてもいいんじゃないかという状況なのに、それでも真面目に掃除をするという、その子供の在り方に、なんだか色々感じ入ってしまうことがあるんですよ。

 

 さて、今した話はこれからする話と通じていないようで僕の中では通じているのですが、この前、池辺葵の「雑草たちよ大志を抱け」の単行本が発売されました。これはFEEL YOUNGにたまに載っていた関西圏の高校に通う女の子たちを主人公とした連作短編なのですが、僕はこの漫画がとても好きなので、その話をします。

 ここからは僕の解釈含みのネタバレが入ってしまうので、まずは買ってきて読んでください。

 

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 買ってきましたか?読みましたか?クリームを耳にも塗りましたか?

 

 それでは書きますが、この物語は、クラスの中心にはいない子たちのお話です。この物語の中で描かれていることは、僕が思うには、自分がありのままでどういう人間であるかということと、それは他人と比較してどうであるかということ、そして、他人との違いがあるときどのように振る舞うかということなんじゃないかと思います。

 

 物語の中心人物であるがんちゃんは、眉毛が太い女の子で、それを気にしています。ただ、眉毛が太いことを気にしているとは口にだすわけではなく、朝起きたとき、鏡を見て、手でそっと眉毛を隠してみてみるわけですよ。太い眉毛ではない自分の顔を見てみるわけです。気にはしているけれど、眉毛を整えたりはしなくて、そうしてしまうのはむしろ気にしているからこそ、そのままにしているんじゃないかと思います。そこに手を加えることは、自分のコンプレックスと正面から向き合うということだからです。

 がんちゃんは、自分の想いを相手に口に出すこともないままに失恋を経験したあと、その後も続いていく物語の中で、前髪を作って眉毛を隠そうとしたり、頑張って整えようとしたりします。でも、毎度それに失敗してしまうわけなんです。前髪は切り過ぎ、眉毛は抜き過ぎます。そして、それを周囲に指摘されて、驚かれたり笑われてしまったりもします。でも、がんちゃんはそれでへこたれたりしません。それは、そうできなかった自分から、そうしようとする自分に転換したからでしょう。変に思われるのは想像した通りで、それはだからこそ踏み出さなかったことで、でも踏み出すことに心を決めたのだから、他人の奇異な目があるのは仕方がないことです。

 この物語は、そんな控えめで、自分は物語の中心にある資格がないと思い込んでいるような、がんちゃんの周囲で起こる出来事で、そんながんちゃんだからこそ持ち得る優しさに包まれていることで、他の子たちも何らかの形で救われ、前に進んで行くことになります。

 

 中でも特に感じ入ることがあったのが2つ目のエピソードで、頑張って勉強して入った学校を、親の都合で転校することになり、それでも文句ひとつも言わずに、家事も勉強もこなす女の子、たえ子ちゃんの話です。しかし、彼女は太っていて、運動が苦手、このお話は、体育のマラソンの話です。このエピソードの主人公である彼女は、ほとんど言葉を発しません。読者は、彼女のそぶりから、彼女の心を推察する必要があります。

 マラソンを走る彼女の週には周囲には要領のよい子たちがいて、真面目に走るのではなく、先生が見ていないのだからと適当に抜け道をショートカットしていきます。その光景を見るわけですよ。でも、この子はちゃんと走るんですね、決められた道を。そういう子だからです。苦手なことだってルールを守るような子なわけです。

 そこで目にするのはがんちゃんたちです。がんちゃんたちも運動は苦手で、走りたくないし、走るのも遅いのに、ズルをせずに走っています。それを見て、この子は救われているのではないかと思います。他の自分よりも走るのが苦手ではない人たちが、当たり前のように手を抜いているところを、自分は手を抜くことができないということがあるからです。その感覚はもしかすると恐怖なわけですよ。

 僕は「真面目であること」には、真面目でいなければならないと脅迫的に思い込まされていることと、真面目という生き方がたまたま自分に合っていることの2つの側面があると思っていて、それは自分が真面目な生き方をしていると思っている本人にも明確に区別がつかないことなんじゃないかと思っています。つまり、自分の抱える真面目さが「美徳である」ということに自信が持てないということです。

 だから、真面目な子が自分が真面目であるということに対する悩みを抱えるということがあると思っていて、自分はなぜこんなに真面目という生き方をしてしまうのかという葛藤を抱えてしまったりもするんじゃないかと思います。少なくとも、漫画を読んでいて僕が思ったのはそういうことで、自分の生き方を自分で真っ直ぐに肯定できないときに、あまりにも自然体で、同じ道を歩いているがんちゃんたちを見て救われるということがあるんじゃないかと思いました。

 

 がんちゃんの友達で、いつも無表情だけれど走るのが得意なひーちゃんは、周回遅れのこの子に声をかけていきます。背筋を伸ばして、胸を張って走るということを一声伝えます。たえ子ちゃんにとって苦手な体育、いつもビリになります。やりたくはないけれど、ズルはしない、最後まで走るということ。他人の目線を気にせず、自分が走っている方向を見るわけです。目の前に広がる空へと目を向けるわけです。へとへとになりながら走り切って、それはやっぱりビリなんですけど、それはいつものビリとは意味が違うことでしょう。自分が抱えているしんどさとの新しく、もう少し気楽な付き合い方を覚えて、彼女もまた少し先へと進むわけです。

 

 この物語に登場する人々は、皆それぞれ何かを抱えていて、それは他人からすれば、しょうもないことかもしれません。でも、そんなしょうもないことなのに、他人から言及されると、自分の心の中に楔のように刺さって抜けないことがあります。

 笑い方が気持ち悪いと一度他人に言われただけで、人間は笑えなくなったりするのです。

 

 体の特徴や、自分の好きなこと、性格、しぐさ、誰だって他の人とは違う部分を抱えていて、それが違うということを違うがゆえに気にしてしまいます。自分が他人と違うということ、それを誇ることが出来る人もいれば、押し隠して、ないもののようにしてしまうことだってあるかもしれません。人間である以上、他人と違うところはあります。それは、それぞれの人がそれぞれのやり方で、それらとの付き合い方を模索していくわけです。

 

 この物語の全体を包んでいるのは、がんちゃんの持つ優しさで、彼女の笑顔が言葉が全てを許してくれる力を持っています。彼女の持つ優しさは、ともすれば彼女の抱えてしまっているしんどさにも関係していることじゃないかと思っていて、自分のような人間が、あのきらきらとした人々と同じようなものを得られるわけがないという、最初から抱えた諦めによるところもあるのかもしれません。自分が持たざる者であるという自覚が、皆の抱えるものと同じ目線に立ち、味方するということに繋がっていて。

 単行本で追加されたエピローグには、そのがんちゃんの抱えているしんどさに対してかけられる言葉があるわけですよ。それがとてもよかったわけです。

 

 最近、人間の笑顔の絵はすごい力を持っているなとよりいっそう思うことが多くて、人間が笑っているだけの絵で感極まって涙が出てしまうことがあります。「雑草たちよ大志を抱け」の最終話が載ったFEEL YOUNGでは、「13月のゆうれい」も最終回で、両方とも笑顔で終わるんですね。もう、それがよくてよくて、雑誌を読みながら感情が昂ってぐずぐずになってしまいました。

 心からの笑顔は、人間が自分や他人を心から肯定することを示しているのかもしれません。そういえば、他人を笑わせないと呼吸困難になるゾナハ病というものが登場する「からくりサーカス」にも沢山のいい笑顔が登場しました。上手く笑うことができない人や、笑いという感情が分からない自動人形が、笑うべき時を知って、笑う場面がとてもよい漫画です。その中に登場する言葉に「笑うべきだとわかった時は、泣くべきじゃないぜ」というものがあります。

 そんな言葉を思い出しながら、人が笑う場面を見て、自分が泣いてしまうというのは不思議な話だなと思ったりしました。

根拠のない自己肯定感は信仰に似てる

 根拠のない自己肯定感が持てるとか持てないとかいう話、僕自身は近年持っていると自覚しているのですが、なぜ持てている感じなのかというと、あるとき持つことにしたからです。以前、以下のような文章を書きました。

 

mgkkk.hatenablog.com

 さて、根拠のない自己肯定感とは、根拠がないものです。しかし、それを持ちたいと言う人と話すと、「自分が根拠のない自己肯定感を持てる理由」という「根拠」を探してしまっていることも多いと感じています。あるいは、根拠のない自己肯定感を持とうとしても、それを封殺するほどの根拠のある自己否定感が現れてしまうという話も聞きました。それも分かる話です。

 根拠のないものを使って、根拠のあるものに対抗しようとするのはとても難しい。「ただ信じる」ということは、そのような逆風の中でいざやろうと思っても意外と難しいことです。とりわけ「科学」という疑うことを根本に据えた考え方にどっぷり浸かっていると厳しくなります。

 僕はアカデミックな場所に籍を置いていた時期の経験から、自分の主張がどれほどの実験的根拠を添えれば、同じ分野の識者の人々に妥当と判断されるかということは常日頃から考えてしまったりします。そして、人々を納得させられるだけの根拠を得られるには、かなりの労力が必要ですし、可能な限り実験をしたつもりでも、論拠の弱い部分を指摘されてさらなる追加実験を求められたり、主張に対して実験が不十分であるとリジェクトされたりすることも経験的に実感しています。

 

 このように、ある事象が事実であるということを証明することはとても労力のかかることで、どれだけ労力をかけたつもりでも結果に繋がることは保証されませんし、とても面倒で難しいことです。なので、生活している中で得た知見などは、ほとんど科学的実証を伴わない仮説のままです。そして、そのような仮説は仮説のまま運用され、比較検討するほどの精度を持たない実証結果を元に、いい加減に判断されて運用され続けます。

 僕はそれは科学の話ではないので、科学の話ではないと思えばある程度は仕方ないと思っていますが、では、科学でないとすればそれは何なのでしょう?それらは科学的に実証されていないことを根拠にしつつも、信じられていることです。つまり、十分に疑われることなしに、ただ信じられていることであり、それはともすれば「信仰」に分類されるのではないかと感じています(ちなみに、僕は信仰という言葉を「ただ信じるために信じること」という同語反復の意味で使っています)。

 

 さて、世間一般で科学だと思われているものの中には、「科学的態度の元に検証されているもの」という意味ではないものも多いのではないでしょうか?

 科学的とはつまりは「疑う」ということです。疑って疑って、疑い切れなくなったもののみが当座の事実として認定されるという態度が科学の根本にあります。その疑い方は技術の進歩によって、高精度化したり、新し方法が生まれたりしますから、ある時代では科学的事実とされたものが、それから先の時代の新しい疑い方で疑われてしまい、事実ではないと認定されてしまうことも当然あります。そのように未来永劫疑い続けることが科学なのだとしたら、「無根拠に信じる」という態度はその真逆にあります。

 つまり、科学的態度を実践しようとする人ほど、何かを無根拠に信じることはとても難しいことなのではないでしょうか?そして、その科学的な考え方を実践しようとする場合に陥ってしまいがちなのが、「自分という人間には果たして値打ちがあるのだろうか?」という疑問に根拠を持って答えることが難しいという問題なのではないかと僕は思っています。

 

 そのため、僕にとっての自己肯定感とは信仰に分類されるものとして捉えることとしており、その点において僕は科学的態度を全く放棄しています。僕は個人的にそれでかまわないと思っていて、ただし、「それは決して科学的ではないし、あらゆる他人と一般的に共有できるものではない」ということだけは意識しています。

 以前の文章にも書いたと思いますが、僕は自分に生きる価値があると思うことについて、明確な根拠を求めていけばいくほどに、不都合の方が増えると感じていて、不都合が増えると弱るので、僕は自己利益のために放棄することを選択しています。

 例えば、自分に価値があるという根拠を、自分が他者よりも優れているからという部分に求めたとき、優れてい続けるために労力を払い続けることになったり、相対的な優秀さの獲得のために他人を劣っているなどと乱暴に認定する必要が出てくると思います。あるいは、誰か権威ある人に認めてもらうということに根拠を求めたとき、たとえ自分の好むものに反していたとしても、その人々に評価されるように振る舞わなければならないことになるかもしれません。そういうのがダルいと思っているので、それを放棄することにしているのです。

 

 僕のこれらの感覚の根本にあるのは、「人間は皆平等である」という思想です。他人を自分と同じように尊重するためには、「自分は他者と比較して特別優れている」という思い込みは邪魔になりますし、「誰かに認められることに価値がある」というのは、認める主体に価値を多く見積もり過ぎているので、同様に平等という考え方に反します。では、そもそもなぜ人間は平等であると考えるかというと、僕にとってはそれも信仰なので無根拠です。そう捉えることにすると僕が個人的に決めただけです。実際、世の中では人間の価値が不平等に扱われることが蔓延しています。もしかすると「人間は不平等である」ということの方が明確な根拠を見つけやすいかもしれません。

 

 僕が活用している考え方の中には、このように論理や根拠をあえて避けている領域があって、それは論理や根拠によってねじ曲がらないようにするためにやっていることです。他人からどんな論理や根拠をもって説得されたとしても、決してその考え方を変えなくて済むように、そんなものなしにいきなり結論を得ています。

 とにかく世の中には、頭のよい人が合理的に他人を自分にとって都合よく動かすために、それらしい理屈を説くことが多いです。それらの話を聞いていると、結果的に自分自身が損をするような行動ですら、やらなければならないと思い込んでしまって、言うことを聞いてしまったりします。僕は自分をそういうものにかかりやすい性質だと認識しているので、そうならないための楔を打っているのです。それが今持ち合わせている自己肯定感ですし、僕の信仰です。

 

 僕はこのような考え方になってから、宗教という存在の役割を自分なりに感じるようになりました。宗教は科学ではないので、「教祖が言っていた」とか、「経典に書いてあった」ということがすなわち結論になる場合もあります。このようないきなり得られた結論は、合理によって押しつぶされてしまうような弱さを抱えた人間にとって、それに立ち向かうための盾となり得ます。しかしながら、他人を攻撃する武器ともなり得るので、良いとも悪いとも一概には言えないかもしれませんが。

 ただ、僕は自分自身の考え方の中に、ある種の信仰を意図的に取り込んでいるので、他人が抱えている信仰や宗教的なものを咎めるような気持ちはなくなりました。なぜなら、僕は人間が平等という信仰を持っているため、自分が持っているものを、他人も持っていて何も悪いことはないと思うからです。

 もし、それに反対する場面があるとしたら、他者の持つ信仰が、僕の持つ信仰を否定してきたときでしょう。なぜならそれは平等ではないからです。そして、僕は自分の信仰が他人の信仰を否定することも平等に反すると思うので、そこがぶつかってしまう場合には、その場を去るということしかできません。いや、同様に相手が自分の信仰を変えないままに去ってしまった場合でも、破綻はしませんね。つまり、住み分けるということです。

 

 さて、僕はこのように科学と信仰を都合よく使い分けて、生活をいい感じにしているのですが、みなさんはいかがでしょうか?

 世の中には信仰とあまり認識されていないけれど信仰と呼べるものが沢山あると思います。例えば、「○○は××だ!」という文章がインターネットに書きこまれていたとします。それを事実だと考えるでしょうか?その文章には事実であることを裏付ける証拠が一切ないにもかかわらず、「そうか○○は××なんだ…」と事実だと信じてしまう人もいます。インターネットに書かれていたのを見ただけで、それを事実だと思ってしまうということ、それは経典に書かれていたことを事実と思ってしまうこととどれほど違うのでしょうか?(もちろん違う部分はありますね)

 見方によれば、それは信仰かもしれません。そして、インターネットコミュニティという名前の宗教であり、書き込みされた文章は経典であると捉えることができるかもしれません。

 

 自分が知っていることの中で、科学的な態度で検証されたものはどれほどあるでしょうか?十分疑わないままにそれを事実と捉えるのであれば、それらは科学でなく信仰かもしれません。例えば、ある分野に対するある結論に至った論文が発表されたとして、そこに書かれている内容は元論文を読めば論拠不十分と思えるようなものかもしれません。しかし、ときとして、その見出しを見た時点でそれを事実だと思ってしまうことがあります。それは科学的な態度でしょうか?

 自分が何を科学的に捉えていて、何を信仰として捉えているかということは、自分自身がいかなる人間であるかを認識する上で重要な手がかりであると僕は思っています。

 僕が注意深く避けているつもりなのは、自分の中で信仰であるものを科学であると誤認することです。科学的であり続けることには大変な労力がかかり、また、少なくとも現時点では科学的手法では説明しきれない領域もあります。それを無理矢理、科学のふりをした信仰で埋めてしまうことは、自分の頭の中にしかないものを、まるで世界で共有されるべきものと誤認してしまうことであり、結果として、それが他人との境界で軋轢を生み出す火種になりうると思っているのです。

 

 根拠のあることは重要ですが、根拠をいくら探してもなかなか見つからないものもあります。しかしながらそれが必要であるならば、根拠などなくても得ることもできます。僕はそれを信仰と呼んでいて、自分の都合に合わせていくつか抱えているわけなのです。

 「自分が生きていることには、自分にとって大変価値があることだ」という感覚はそのひとつです。そこには何の論理も根拠もないものとして受容していますから、他人からどのように「お前には生きる価値がない」と論理的に説明されようが、「お前に生きる価値がない百の理由」が提示されようが、ちっとも関係ないことになります(ただ、実際そういうことを言われたら、すごく嫌な気持ちにはなるでしょうが)。

 と、このようにとても便利なやり方なので、信仰、守っていきたいですね。

 

(ちなみに、この文章のタイトルは↑THE HIGH-LOWS↓の「青春」の歌詞「心のないやさしさは敗北に似てる」と掛けようとして失敗したやつです)

コミティア119に出ます

 色々立て込んでいるはずなのに、うっかり申し込んで漫画も描いてしまったので、コミティア119に出ます。

 

 「爆弾の作り方」というタイトルのヤクザ漫画を描きました。お父さんの借金を背負わされた可哀想な姉弟が、謎の男の助力を得てなんとかかんとかするお話です。以下にサンプルページを上げました。

www.pixiv.net

 

 漫画、まだ描き方がよく分からなくて四苦八苦してますが、前よりは思ったように描けるようになってきたので、継続的に描いてうまくなっていきたいですね。以下は、「何言ってんだコイツ…」と自分で描いてて思ったページです。

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 前描いたヤクザと浮浪少年の漫画である「つじつま合わせに生まれた僕等」とか、妖怪関連本「怪奇雑考妖異変」も持って行きます。

 「怪奇雑考妖異変」は自分で言うのもなんですが、かなり面白い本なのですが(評判もよい感じがします)、在庫があと20冊ぐらいなので、そろそろなくなってしまいますゆえ、人に渡せるのはラストチャンスの可能性もあります(そうでない可能性もあります)。以下に目次とサンプルがあります。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ということなので、宜しくお願い申し上げます〜。