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根拠のない自己肯定感は信仰に似てる

 根拠のない自己肯定感が持てるとか持てないとかいう話、僕自身は近年持っていると自覚しているのですが、なぜ持てている感じなのかというと、あるとき持つことにしたからです。以前、以下のような文章を書きました。

 

mgkkk.hatenablog.com

 さて、根拠のない自己肯定感とは、根拠がないものです。しかし、それを持ちたいと言う人と話すと、「自分が根拠のない自己肯定感を持てる理由」という「根拠」を探してしまっていることも多いと感じています。あるいは、根拠のない自己肯定感を持とうとしても、それを封殺するほどの根拠のある自己否定感が現れてしまうという話も聞きました。それも分かる話です。

 根拠のないものを使って、根拠のあるものに対抗しようとするのはとても難しい。「ただ信じる」ということは、そのような逆風の中でいざやろうと思っても意外と難しいことです。とりわけ「科学」という疑うことを根本に据えた考え方にどっぷり浸かっていると厳しくなります。

 僕はアカデミックな場所に籍を置いていた時期の経験から、自分の主張がどれほどの実験的根拠を添えれば、同じ分野の識者の人々に妥当と判断されるかということは常日頃から考えてしまったりします。そして、人々を納得させられるだけの根拠を得られるには、かなりの労力が必要ですし、可能な限り実験をしたつもりでも、論拠の弱い部分を指摘されてさらなる追加実験を求められたり、主張に対して実験が不十分であるとリジェクトされたりすることも経験的に実感しています。

 

 このように、ある事象が事実であるということを証明することはとても労力のかかることで、どれだけ労力をかけたつもりでも結果に繋がることは保証されませんし、とても面倒で難しいことです。なので、生活している中で得た知見などは、ほとんど科学的実証を伴わない仮説のままです。そして、そのような仮説は仮説のまま運用され、比較検討するほどの精度を持たない実証結果を元に、いい加減に判断されて運用され続けます。

 僕はそれは科学の話ではないので、科学の話ではないと思えばある程度は仕方ないと思っていますが、では、科学でないとすればそれは何なのでしょう?それらは科学的に実証されていないことを根拠にしつつも、信じられていることです。つまり、十分に疑われることなしに、ただ信じられていることであり、それはともすれば「信仰」に分類されるのではないかと感じています(ちなみに、僕は信仰という言葉を「ただ信じるために信じること」という同語反復の意味で使っています)。

 

 さて、世間一般で科学だと思われているものの中には、「科学的態度の元に検証されているもの」という意味ではないものも多いのではないでしょうか?

 科学的とはつまりは「疑う」ということです。疑って疑って、疑い切れなくなったもののみが当座の事実として認定されるという態度が科学の根本にあります。その疑い方は技術の進歩によって、高精度化したり、新し方法が生まれたりしますから、ある時代では科学的事実とされたものが、それから先の時代の新しい疑い方で疑われてしまい、事実ではないと認定されてしまうことも当然あります。そのように未来永劫疑い続けることが科学なのだとしたら、「無根拠に信じる」という態度はその真逆にあります。

 つまり、科学的態度を実践しようとする人ほど、何かを無根拠に信じることはとても難しいことなのではないでしょうか?そして、その科学的な考え方を実践しようとする場合に陥ってしまいがちなのが、「自分という人間には果たして値打ちがあるのだろうか?」という疑問に根拠を持って答えることが難しいという問題なのではないかと僕は思っています。

 

 そのため、僕にとっての自己肯定感とは信仰に分類されるものとして捉えることとしており、その点において僕は科学的態度を全く放棄しています。僕は個人的にそれでかまわないと思っていて、ただし、「それは決して科学的ではないし、あらゆる他人と一般的に共有できるものではない」ということだけは意識しています。

 以前の文章にも書いたと思いますが、僕は自分に生きる価値があると思うことについて、明確な根拠を求めていけばいくほどに、不都合の方が増えると感じていて、不都合が増えると弱るので、僕は自己利益のために放棄することを選択しています。

 例えば、自分に価値があるという根拠を、自分が他者よりも優れているからという部分に求めたとき、優れてい続けるために労力を払い続けることになったり、相対的な優秀さの獲得のために他人を劣っているなどと乱暴に認定する必要が出てくると思います。あるいは、誰か権威ある人に認めてもらうということに根拠を求めたとき、たとえ自分の好むものに反していたとしても、その人々に評価されるように振る舞わなければならないことになるかもしれません。そういうのがダルいと思っているので、それを放棄することにしているのです。

 

 僕のこれらの感覚の根本にあるのは、「人間は皆平等である」という思想です。他人を自分と同じように尊重するためには、「自分は他者と比較して特別優れている」という思い込みは邪魔になりますし、「誰かに認められることに価値がある」というのは、認める主体に価値を多く見積もり過ぎているので、同様に平等という考え方に反します。では、そもそもなぜ人間は平等であると考えるかというと、僕にとってはそれも信仰なので無根拠です。そう捉えることにすると僕が個人的に決めただけです。実際、世の中では人間の価値が不平等に扱われることが蔓延しています。もしかすると「人間は不平等である」ということの方が明確な根拠を見つけやすいかもしれません。

 

 僕が活用している考え方の中には、このように論理や根拠をあえて避けている領域があって、それは論理や根拠によってねじ曲がらないようにするためにやっていることです。他人からどんな論理や根拠をもって説得されたとしても、決してその考え方を変えなくて済むように、そんなものなしにいきなり結論を得ています。

 とにかく世の中には、頭のよい人が合理的に他人を自分にとって都合よく動かすために、それらしい理屈を説くことが多いです。それらの話を聞いていると、結果的に自分自身が損をするような行動ですら、やらなければならないと思い込んでしまって、言うことを聞いてしまったりします。僕は自分をそういうものにかかりやすい性質だと認識しているので、そうならないための楔を打っているのです。それが今持ち合わせている自己肯定感ですし、僕の信仰です。

 

 僕はこのような考え方になってから、宗教という存在の役割を自分なりに感じるようになりました。宗教は科学ではないので、「教祖が言っていた」とか、「経典に書いてあった」ということがすなわち結論になる場合もあります。このようないきなり得られた結論は、合理によって押しつぶされてしまうような弱さを抱えた人間にとって、それに立ち向かうための盾となり得ます。しかしながら、他人を攻撃する武器ともなり得るので、良いとも悪いとも一概には言えないかもしれませんが。

 ただ、僕は自分自身の考え方の中に、ある種の信仰を意図的に取り込んでいるので、他人が抱えている信仰や宗教的なものを咎めるような気持ちはなくなりました。なぜなら、僕は人間が平等という信仰を持っているため、自分が持っているものを、他人も持っていて何も悪いことはないと思うからです。

 もし、それに反対する場面があるとしたら、他者の持つ信仰が、僕の持つ信仰を否定してきたときでしょう。なぜならそれは平等ではないからです。そして、僕は自分の信仰が他人の信仰を否定することも平等に反すると思うので、そこがぶつかってしまう場合には、その場を去るということしかできません。いや、同様に相手が自分の信仰を変えないままに去ってしまった場合でも、破綻はしませんね。つまり、住み分けるということです。

 

 さて、僕はこのように科学と信仰を都合よく使い分けて、生活をいい感じにしているのですが、みなさんはいかがでしょうか?

 世の中には信仰とあまり認識されていないけれど信仰と呼べるものが沢山あると思います。例えば、「○○は××だ!」という文章がインターネットに書きこまれていたとします。それを事実だと考えるでしょうか?その文章には事実であることを裏付ける証拠が一切ないにもかかわらず、「そうか○○は××なんだ…」と事実だと信じてしまう人もいます。インターネットに書かれていたのを見ただけで、それを事実だと思ってしまうということ、それは経典に書かれていたことを事実と思ってしまうこととどれほど違うのでしょうか?(もちろん違う部分はありますね)

 見方によれば、それは信仰かもしれません。そして、インターネットコミュニティという名前の宗教であり、書き込みされた文章は経典であると捉えることができるかもしれません。

 

 自分が知っていることの中で、科学的な態度で検証されたものはどれほどあるでしょうか?十分疑わないままにそれを事実と捉えるのであれば、それらは科学でなく信仰かもしれません。例えば、ある分野に対するある結論に至った論文が発表されたとして、そこに書かれている内容は元論文を読めば論拠不十分と思えるようなものかもしれません。しかし、ときとして、その見出しを見た時点でそれを事実だと思ってしまうことがあります。それは科学的な態度でしょうか?

 自分が何を科学的に捉えていて、何を信仰として捉えているかということは、自分自身がいかなる人間であるかを認識する上で重要な手がかりであると僕は思っています。

 僕が注意深く避けているつもりなのは、自分の中で信仰であるものを科学であると誤認することです。科学的であり続けることには大変な労力がかかり、また、少なくとも現時点では科学的手法では説明しきれない領域もあります。それを無理矢理、科学のふりをした信仰で埋めてしまうことは、自分の頭の中にしかないものを、まるで世界で共有されるべきものと誤認してしまうことであり、結果として、それが他人との境界で軋轢を生み出す火種になりうると思っているのです。

 

 根拠のあることは重要ですが、根拠をいくら探してもなかなか見つからないものもあります。しかしながらそれが必要であるならば、根拠などなくても得ることもできます。僕はそれを信仰と呼んでいて、自分の都合に合わせていくつか抱えているわけなのです。

 「自分が生きていることには、自分にとって大変価値があることだ」という感覚はそのひとつです。そこには何の論理も根拠もないものとして受容していますから、他人からどのように「お前には生きる価値がない」と論理的に説明されようが、「お前に生きる価値がない百の理由」が提示されようが、ちっとも関係ないことになります(ただ、実際そういうことを言われたら、すごく嫌な気持ちにはなるでしょうが)。

 と、このようにとても便利なやり方なので、信仰、守っていきたいですね。

 

(ちなみに、この文章のタイトルは↑THE HIGH-LOWS↓の「青春」の歌詞「心のないやさしさは敗北に似てる」と掛けようとして失敗したやつです)

コミティア119に出ます

 色々立て込んでいるはずなのに、うっかり申し込んで漫画も描いてしまったので、コミティア119に出ます。

 

 「爆弾の作り方」というタイトルのヤクザ漫画を描きました。お父さんの借金を背負わされた可哀想な姉弟が、謎の男の助力を得てなんとかかんとかするお話です。以下にサンプルページを上げました。

www.pixiv.net

 

 漫画、まだ描き方がよく分からなくて四苦八苦してますが、前よりは思ったように描けるようになってきたので、継続的に描いてうまくなっていきたいですね。以下は、「何言ってんだコイツ…」と自分で描いてて思ったページです。

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 前描いたヤクザと浮浪少年の漫画である「つじつま合わせに生まれた僕等」とか、妖怪関連本「怪奇雑考妖異変」も持って行きます。

 「怪奇雑考妖異変」は自分で言うのもなんですが、かなり面白い本なのですが(評判もよい感じがします)、在庫があと20冊ぐらいなので、そろそろなくなってしまいますゆえ、人に渡せるのはラストチャンスの可能性もあります(そうでない可能性もあります)。以下に目次とサンプルがあります。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ということなので、宜しくお願い申し上げます〜。

「人喰いの大鷲トリコ」で感じたコミュニケーションの話

 少年が目を覚ますと、そこには巨大な生物がいた。その生物は鳥のようにも猫のようにも犬のようにも見えた。少年は鎖で繋がれたその生物を解き放ち、食べ物を与えた。そこがどこかもわからない場所で、自分がなぜそこにいるのかも分からない状態で、少年とその巨大な生物は外に出るための冒険の旅に出る。その巨大な生物の名はトリコといった。

 

 

 人喰いの大鷲トリコを買うまで、僕はそれがどのようなゲームであるのかをほとんど調べなかった。いくつかの発表映像を見たことはあったけれど、特に何度も繰り返し見たわけではなく、ただ、それを遊べる日を心待ちにしていた。買うことは最初から決めていたのだ。なぜなら、前々作と前作の「ICO」と「ワンダと巨像」がとても面白かったからだ。

 僕は大学生のとき、夏休みの大学の部室で「ICO」をクリアした。夕日の差し込むその部屋で、冷房もない蒸し暑さの中で一人汗をかきながら、物語の終焉を見届けた。その後、その日の夜だったか数日後だったか記憶が定かではないが、先輩に会って、「ICOをクリアしたんですよ!」という話を熱っぽく語った覚えがある。

 一方、「ワンダと巨像」はみんなでクリアした。友達の家に集まって、みんなで交代交代にプレイしながら、夜中までかかってクリアした。失敗しては声をあげ、次の友達が挑んではまた上手くいかず声をあげる。何度も繰り返し、物語は終盤に向かう。その最後を見たとき、あれだけ騒いでいたみんなが神妙な面持ちで無言でその様子を見守っていた。エンディングが終わったあと、その解釈について、ぽつぽつとみんなで話し合ったと記憶している。

 

 そして「人喰いの大鷲トリコ」である。本当に出るのか出ないのか分からなかったけど、ついに出たので発売日に買った。ただ、既に「FFXV」を始めてしまっていて、その後に「龍が如く6」もやっていたので、本腰を入れたのはようやく正月気分が終わってからになった。

 

 

 遊びながら3D酔いをしまくったり、攻略に詰まってふてくされたりして、遊んだり休憩したりを何度も繰り返しながら、この前の日曜日にやっとクリアをした。とても良かった。様々な感情が渦巻いてしまって、涙を流しながらエンドロールを眺めた。

 

 このゲームが何のゲームであるかというと、コミュニケーションのゲームなんじゃないかと思う。それは少年とトリコとのコミュニケーションであると同時に、彼らがいたあの場所とプレイヤーたる僕のコミュニケーションでもあったのではないだろうか?

 「ICO」や「ワンダと巨像」もそうであったように、この「人喰いの大鷲トリコ」にも、説明は必要最低限しか出てこない。だから、わけがわからないと言えば、わけがわからないことも多いし、説明してみろと言われれば、上手く説明できないことも多いと思う。ただ、僕はこの冒険の舞台となった場所と、トリコや少年自身との数限りないやり取りを通じて、それをおぼろげながらに理解できた部分があると思う。それは僕の勘違いも多分に含んでいるだろうけれど、それがコミュニケーションであって、それは言葉で行われたものではなく、触れ合いで行われたことだと思った。

 

 どこに行けばいいのか分からない、何をすればいいのか分からない、ゲームを遊びながらそんな状況に何度も陥ることがあった。それは不親切なことだろうか?そうかもしれない。確かにこの前までプレイしていた「龍が如く」シリーズでは、「ヤクザの事務所へ行け!」などというメッセージとともに、地図上に目的地が表示されたり、ナビゲートしてくれたりして親切だった。ちなみに僕はこっちも全然好きです。なにしろ分かりやすいし、迷う必要がない。迷いたいわけでなければ、その方が簡単で親切で便利だと思う。でも、人喰いの大鷲トリコでは、そのような便利で親切な指示がでないこともいいと思った。なぜなら、それはコミュニケーションだと思うからだ。どこに焦点が当たっているかという違いがある。

 主人公の少年にはどんな行動がとれるのか、最初のうちには分からなくて、右往左往をする。いくつかの簡単なパズルを解いて行けば、少年に何ができて、トリコに何ができて、この場所にはどんな仕掛けがありそうかという関係性がだんだん見えてくる。それが分かるようになるまでが辛いけれど、なんとなく分かるようになりさえすれば、この場面ではどうすればいいのかの察しがつくようになる。この建物のどこをどうすれば先に進めるかが想像でき、そのためにはトリコがどのように動いてくればいいかがわかり、そのためには僕が動かすこの少年がどのように行動しなければいいかの察しがつくようになる。分からないものが分かるようになる。それは直接的に説明されていないのに、経験から察せられるようになる。それはある種のコミュニケーションだと思う。そして、コミュニケーションには付き物のアレもある。アレとはつまり「誤解」のことだ。

 

 壊れるほど愛しても三分の一も伝わらないと歌ったバンドがいるけれど、自分の考えが、自分の想いが、自分以外の相手に正確に伝わることはまれな話だ。同様に他人の考えを自分が正確に把握できることもまた、まれだと思う。分かるか分からないかで言えば、結局分からないのかもしれないけれど、それでも分かろうとすることがコミュニケーションなんじゃないだろうか?

 分かったような気になって、分かっている前提で話を進めてしまうこともあって、でも、途中で実はなんにも伝わっていなかったことが発覚しててんやわんやしたり、なんで分かってくれないんだ!とか、そんなに沢山言われなくても分かる!とか思ってしまうこともある。それを何度繰り返したところで、100%の理解には届かないのかもしれないけれど、それでもできるだけ100%に持っていこうと試みることがコミュニケーションなんじゃないだろうか?分からないと諦めないということで、また、分かったと過信しないということで。

 

 僕はこのゲームの中で沢山のコミュニケーションをした。そこには沢山の誤解もあった。天上からぶら下がった鎖を見て「ははーん、これを登れっていうことだな」と登ってみたけれど、そこには先にいく道がなく、でも「あるはずだ!」と思い込んでいた僕は、そのあたりを歩き回っては先の道がないことに弱ったりもした。実はそのときの本当の順路は別の方向にあったのだった。ちなみに、その鎖はずっと後で別のときに使うことになるのだけれど、そのとき僕はかつて誤解でこの鎖を登ったことを思い出した。なんであのときはまずあっちを探さなかったのだろうと、すぐそこにあった正解にちっとも辿り着かなかった間抜けな自分のことをフフフと思い出すことになった。

 順路がどちらか分からないことは何度もあった。トリコの背中に乗ってさあ飛んで!と指示するのだけれど、本当はそっちに行く道なんかなくて、トリコは決して飛ぼうとしない。僕はトリコのことが最初はよく分からないので、「なんで言うことを聞いてくれないの!」と悲しくなってしまったりする。でも、トリコは賢いから、そっちには行く道がないことが分かっていて、だから動かないだけだった。トリコは気まぐれで、放っておいたら、いきなり正解の道に動いていってくれることもある。でも、そうでないこともある。僕が正解とにらんだ道があって、実際にそっちが正解なんだけれど、トリコがちっともそっちに動いてくれないなんてこともあるのだ。僕はゲームをしながら声が出てしまう。「トリコさん、何で動いてくれないの…」なんて弱々しくつぶやいてしまう。

 トリコには自分の意志があるように見える。少なくともプレイしている僕は、トリコを実在の生きている存在として取り扱った。そう考えれば色々なことは当然の話で、トリコはトリコ自身のために生きているのであって、僕のために生きているわけではない。トリコが僕のためにわざわざ動いてくれるいわれはないのだ。だから、トリコが僕の行きたい方向に動いてくれたときには、感謝の気持ちを示そうと思う。言葉が通じないトリコの体をなでまくり、感謝の気持ちを伝える。お腹を空かせているのなら、食べ物を持ってきてあげる。それが、僕がトリコに伝えられる精一杯の感謝の気持ちだ。

 

 これはただのゲームだろ?と言われたら、まあゲームなんだけれど、それを言いだしたら漫画や映画にだって感情移入もできなくなる。物語の中の登場人物は実在しない。そんなことは分かっているわけですよ。でも、それを実在しているかのように思い、感情を動かすことは、僕にとっては大切なことだ。そもそも、現実に存在している人のことだって、何にも分からないじゃないかと思う。仮に僕の周りにいるのが、全員精巧なロボットだったとしても、僕は気づけやしないだろう。僕は今だって周囲の人たちとやりとりしたわずかな手がかりから、その人がどうやら人間らしいと推定して生きているだけなのだ。

 

 トリコは僕を助けるために戦ってくれたりする。その体は剣で斬られたり、槍がささったりしてしまう。戦いを終えたトリコはボロボロになったりする。それは僕がどんくさくて、余計に傷つけてしまったのではないかと思ってしまう。責任を感じてしまう。でも、ゲームの中の僕にはろくに戦う力がないから、僕にできるのは、戦いを終えて傷ついたトリコに刺さった槍を抜いてやり(駄洒落だ!)、血だらけになって羽毛もけばだった部分を一生懸命撫でてやることだけだった。

 

 

 そんなことを繰り返すうちに、僕はなんとなくトリコと仲良くなった気がしてくる。トリコは僕の言うことを素直に聞いてくれることが増えたように思う。僕のお願いの仕方も変わる。ゲーム的に意味があったのかなかったのかはよく分からないけれど、トリコに指示をだしたとき、僕は一緒にトリコを撫でる。それは僕のわがままなお願いを聞いてもらうために、トリコを喜ばそうとしているからだ。

 ただ、それでも言うことを聞いてくれるとは限らない。例えば、僕がいくら言っても聞いてくれなかったのに、僕がトリコの背中から降りた瞬間に水の中に潜って、一人先に行ってしまったこともある。「なんでよ~…」ととても悲しくなってしまったけれど、すぐに戻ってきてくれた。僕はまた背中に乗り、首筋を撫ででトリコトリコと名前を呼びながら、また潜って先に行こうとお願いしたのだった。そうすることで、やっと今度は僕のお願いを聞き届けてくれた。

 少年である僕と、トリコには役割分担があった。僕は狭い所に入れるし、身軽に色んなところを渡ることができる。様々な仕掛けだって動かせる。でも、高い所には登れないし、戦う力もろくにない。トリコは、その大きな体で高い所に背が届くし、戦う力がある。そして、その伸びやかな肢体を躍動させて大きくジャンプすることだってできる。

 僕とトリコは良いコンビで、助けたり助けられたりした。僕は臆病なので、鎧兵が襲ってきたら、なすすべもない自分の非力が怖くてしかたがなかった。逃げ回ることしかできない。体当たりをしたって大して効きはしないんだ。戦うにはトリコの力がいる。だから、トリコのいる場所を離れるととても怖くなる。トリコの大きな体では、自分の後ろをついてこれない道に入ったのに、意味もなくトリコの名前を呼んだりしてしまうようになった。

 

 

 色んな冒険をした。傷ついていたトリコは段々と元あった様子を取り戻しつつあり、色んな姿を見せてくれるようになった。その中にはとても感激してしまう光景もあった。僕が一番助けて欲しいときに現れてくれるのもトリコだ。そして、僕はトリコに食べ物を運び、トリコの苦手なものを排除し、そして、感謝の気持ちを込めて撫で回し続けた。

 

 物語の終盤に何が起こるかはあまり具体的には書かないようにするけれど、僕にはとても辛いことがあった。(具体的ではなくともネタバレがあるのでご注意ください)

 

 僕はある段階で、この物語はもう終わりかなと思って、夜との境にさしかかる時間、美しい太陽を見つめるトリコを見て、なんだかとても感激していた。とうとうこの旅は終わるのだと思って、最後にトリコの前進をなで回した。毛羽立った羽も、血の染みも全部綺麗にして、全部綺麗になったのにまだ首の後ろや頭の先をなで回し続けた。それは僕なりのこの旅が終わることを受け入れるための儀式のようなものだった。

 

 しかし、物語にはまだ続きがあった。そこでトリコはとても傷つけられてしまう。さっきまで一生懸命に綺麗にした毛並みは、また血にまみれ、ボロボロにされてしまうことになる。何より辛かったのは、僕の察しが悪く、そのトリコが傷つく光景を長い間見続けなければならなかったことだ。僕はトリコを傷つける存在に向かって立ち向かおうとするけれど、僕の力はあまりにも無力だった。そちらに攻略の順路はない。その場において、僕とゲームとのコミュニケーションは失敗している。

 だから、それは完璧に無力なことで、完全に無意味な行為だった。トリコを必死で守ろうとしたけれど、それが叶わないということ自体はすぐに分かったけれど、どうすればいいのか分からない。自分という存在はなんと無力なのかを思い知らされることになった。「やめて…もうやめて…」と泣きながら無意味に走り回り、立ち向かおうとしてははね飛ばされるようなことを繰り返す時間が過ぎた。

 

 気づくべきだったんですよ。この物語を集結に向かわせるためのヒントは、ものすごく目立つ感じに光り輝いていて、ただ、僕が見るべきものを誤解してしまっていたがゆえになかなか気づけなかっただけだった。僕のコミュニケーションが拙いせいでやってしまった無意味が行動がなければ、あのトリコが傷つき続ける長く心の痛い時間はなかったのかもしれないと思う。それを打ち破るとっかかりを見つけてしまえば、破綻していたコミュニケーションは連鎖的に繋がり、それは物語のクライマックスとなった。

 

 エンディングの光景はとても美しく、そして、ここまでで培って来たものに思いを馳せる時間であった。上手くは行かないプレイだったような気がする。でも、それが重要だったんじゃないかと思う。正解ばかりではない、誤解含みの迷ってばかりのプレイが、どうにかちゃんと結末まで辿り着くことに成功した。間違ってしまったことは沢山あるけれど、それは分かろうとしたということだろう。分からないまま終わらせずに、動いて、試したという軌跡なわけです。分かることが難しいからこそ、分かろうとすることは尊いのではないかと思ったりもするんですよ。

 上手くいかなかったことも、重要な体験だと思う。最初から正解なんて出せない自分の不器用さは、分かろうとする前に止めてしまうような結果にだって繋がったかもしれないはずだ。でも、それでも投げ出さずに、少しずつ理解しようとしたことで、前に進んだということなんじゃないかと思う。そこにそうしたいだけのものがあったからだ。そして、その分からないものを分かろうとコミュニケーションをとろうとし続けたことこそが、僕がトリコに対して感じていた絆の正体であったのかもしれない。

 それは、見ているだけの物語ではなく、コントローラーを通じて僕自身が理解し、干渉しなければ先へと進めないゲームという媒体であるからこそ、体感できたことなんじゃないかと思う。このゲームが終わるとき、トリコとの別れを迎えなければいけないことを、僕はとても寂しく思った。

 

 さて、この写真は、僕がまだトリコと上手くコミュニケーションをとれないときに、こちらを半分だけ見て微動だにしないトリコさんですが、「魔法陣グルグル」に登場した「ミグミグげきじょう」という、やけに気になる何かがこちらをじっと見続けて敵の行動を縛るやつっぽくて、1人でめっちゃウケてたときのものです。ウチのPS4の中にはこのようなトリコとの思い出が山ほど残っている。

 これはゲームだけれど、僕の人生の中の思い出のひとつにもなったと思った。

FF15でプレイヤーの僕が果たした役割について

 FF15は一ヶ月前ぐらいにクリアしたんですが、結構速めにプレイ時間が40時間ぐらいでクリアしてしまいました。なぜなら、その後すぐに龍が如く6も買ってしまったので、このまま無限に遊べそうだけれど、そうすると他のゲームができないから仕方がないと、断腸の思いでクリアせざるを得なかったからです。本当は少なくとも100時間ぐらい遊んでからクリアすれば良かったと思ったのですが、両方やりたかったので仕方がありません。

 ちなみに、龍が如く6をクリアした(これも面白かった)ので、ここのところは人喰いの大鷲トリコとFF15を交互に遊ぶような感じで、今のプレイ時間は56時間という感じです。クエストは結構こなしましたが、まだいくつかのダンジョンが残っています。未配信のDLCなども購入済みなので、まだまだ遊びます。

 

 以下は、ゲームの内容というよりは、ゲームをやっている間の僕自身の心の動きを書いたものですが、何をどう思ったかという点に関連してごりごりにネタバレも含まれているのでご了承ください。

 

 さて、このゲームのエンディングでは、僕はめちゃくちゃ泣いてしまったのですが、FFシリーズを遊んで泣いたことは初めてで、ただ僕自身が30歳を過ぎてからとにかく涙もろくなったということもあって、それがこのゲームの特徴かどうかは判断がつきません。しかし、とにかく非常に感情を揺さぶられたのは事実です。それは、この旅が終わってしまうという寂しさと、今まで楽しかったという思い出が溢れてしまったからです。

 

 この物語の主人公であるノクトくんは、王子様であり、人間関係の中心です。しかしながら、この物語の中で起きていることについて、彼はとにかく蚊帳の外です。重要なことは何一つ教えられず、後から知らされて怒ったり悔しがったりそんなことばかりです。それは彼が皆に大事にされてきたということでしょう。そして、であるがゆえに彼自身が、自分の無力さに傷つけられてしまっているように思いました。僕はその様子を見ては悲しくなってしまいます。

 自分は周囲の人々に守られてばかりいる存在で、頼りにされるほどの強さを持ち得ないということ、弱いということ、弱さとは自分の意志を突き通すことができないことで、それはとても悲しいことです。そして、僕はそのような人間の弱さをとても愛おしく感じます。なぜならば、弱さを嘆くことは、強くありたいことを願うことだと思うからです。僕は人がそうありたいと思い描き、願う姿がとても好きで、そして実際にそうなってしまうことに感情を揺さぶられがちです。

 これは世間知らずのお坊ちゃんが、独り立ちをする物語だと思います。大きな責任を負わなければならないお坊ちゃんにとっての、最後のモラトリアム、この旅はその卒業旅行なのだと思います。

 

 ちなみに、世間の大学生の多くが行くと伝え聞く卒業旅行には僕は行かなかったんですよね。南米にマチュピチュを見に行こうと友達に誘われてはいたのですが、修士論文のあと、別の学会で発表することにしてしまったので断ってしまいました。今思えば卒業要件とは関係ない学会なんて行かなくたってよかったかもしれませんが、ともかくそんなわけで、僕は卒業旅行というものには縁がなかったのです。僕の学生生活はなんとなく終わり、何となく就職のために上京しました。

 そのゲームはそんな僕にとっての卒業旅行の疑似体験です。終わりがあることを知った上で、残された猶予を楽しみ続ける、良くも悪くも夢のような日々です。

 

 さて、FF15の楽しい旅の終わりは、機械仕掛けの神の御業のように残酷で理不尽なものです。ゲームの中でも進んでいいのか?と確認を求められ、ある種の決断を元にその流れに入っていくことになります。

 起こるのは襲いくる沢山の理不尽であり、それはそれまで存在した旅の楽しさを破壊するものです。広く自由だった旅は、急転直下で狭く不自由な行軍に押し込められ、そこから抜け出すためのあがきを求められます。仲間との絆は破壊され、いつも一緒だった仲間たちを失い、たった一人の孤独な戦いを強いられます。仲間の大切さを再確認するためのシーケンスとしては、少々あからさま過ぎる様子ではありました。しかし、いつも一緒に戦ってくれていた仲間たちがいないということ、例えば、FF15ダンジョンは暗くて狭くて、探索するには怖いことも多いのですが、今までそこで仲間たちの軽口が響いていたことが、これまでどれだけ安心感を生み出していたかということを、まんまと確認せざるを得ませんでした。

 仲間と再会した安堵、そして再び一緒に戦ってくれることの力強さ、自分の代わりに、自分と一緒に、喜び怒り悲しんでくれる仲間たちがいるということを噛みしめ、迫りくる世界の終焉と、それに伴うであろう大きな喪失の予感に胸がざわつきます。

 

 「あなたは選ばれた」、これはRPGでは定番の台詞であり、FFの過去シリーズでもこの言葉は使われています。さて、「選ばれる」ことは果たして幸福なことでしょうか?ノクトくんは選ばれた青年です。そこに明確な理由はありません。彼は王子として生まれてしまったがゆえに、選ばれてしまったのです。見方を変えれば、彼は生贄です。この物語は藤子F不二雄の「ミノタウロスの皿」のようでもあります。

 ミノタウロスの皿では、牛の形をした宇宙人が人の形をした宇宙人を食べる星に、人間の主人公が迷い込んでしまいます。そこでは、牛に食べられることは喜びであり、人はそのために飼われています。双方とも知性があり、言葉を交わせる間柄でありながら、喰う者と喰われるものに別れてしまっているのです。そして、牛に食べられる人は、そのために選ばれたことに喜びを感じます。喜んで皿に乗り、牛に食べられようとする女の子に対して、主人公は何もできず見送るしかありませんでした。その女の子は選ばれし者です。彼女は、自ら進んで贄となります。果たして、彼女は幸福だったのでしょうか?

 

 ノクトくんは、自ら決意して力を受け入れ、真の王となります。それは人であることをやめることであり、悪を倒すための犠牲となる道です。引き返すことのできないはずの一本道です。彼のために犠牲になった人々が、彼が引き返すことを阻む理由となります。世界は闇に包まれ、その終焉を回避するには、悪を倒さなければなりません。そのためにノクトくんは真の王とならなければなりません。彼らの旅は、守るべきものを、人々の生活を見てしまいました。彼は自らの意志で皿の上に乗る生贄なのです。その責任を取らされるに値するほどの罪を、彼は何一つ犯してはいないのに。

 

 一方、この物語のラスボスとなる男もまた別の種類の生贄です。彼はかつて、その身に他者の病を取り込むことで人々を救った英雄でした。しかし、悪しきものを取り込み過ぎた彼は、それによって呪いとも言える永遠の命を獲得し、彼自身もまたまた悪しきものとして迫害されることになります。人々のためにその身を犠牲にしたこというのに。彼はその復讐心につけ込まれ、この星にあだなす者としての役割を演じていくこととなりました。

 

 彼らの最後の戦いは、善なるものと悪なるものの代理戦争でしょう?(説明が省略されている部分が多いので確証は持てませんが)代理となる彼らはそれぞれその犠牲者であり、だとすれば、ただただ哀れな存在です。皆に守られた世間知らずのお坊ちゃんは、ついに、自分の意志で犠牲となることを選ぶ大人の男になりました。しかし、それは幸福なことだったのでしょうか?僕には哀れに思えます。その運命から逃げることができなかった、許されなかったノクトくんの存在はとてつもなく悲しい。これはとても悲しいお話です。

 彼はその旅の終焉に一枚の写真を持って行きます。それはプレイヤーに任された選択ですが、僕が思うに、そこで何の一枚を選ぶかは大した問題ではありません。その一枚を選ぶために、今までの旅の中で撮ってきた写真を見返すことこそが、このゲームの一番のポイントではないかと思います。

 僕の手元には100枚ほどの写真がありました。それは、一枚一枚があの楽しかった旅の毎日の中で、毎夜選んだ写真です。僕が自分の意志で「良い」と思って残した思い出の集積です。だから、一枚一枚に見覚えがあり、そこには何らかの僕の意志と決断があったのです。その一つ一つの決断を思い出したこと、ゲームを始めてわずか40時間ほどでしたが、これまで歩いてきた道を思い出したこと。最初は何を残せばいいか分からずに、適当なものばかり選んでいた自分の決断を思いだし、後半になれば150枚までという縛りを意識して、印象的なものだけに絞ろうとしていた自分の気持ちを思いだし、最初から最後までを吟味しました。

 結局選んだのは、何の変哲もない一枚です。ゲームを適当に進めていれば誰でも手に入るような一枚です。でも、それを選びたかったわけですよ。なぜなら、4人みんなが写っているからです。幽遊白書の仙水編の最後じゃありませんが、この中の誰か一人が欠けても嫌だと思ってしまうわけです。

 

 そんな平凡な写真を手にしてノクトくんは大きな決断の道を選びます。その一枚は僕がしてきた100枚の決断のあとの、最後の決断を乗り越えて成し遂げられます。僕は彼の自己犠牲を思うわけです。かつての弱々しかった青年は、物語の中で強制的な十年の時を経て、大人の顔をして、凛々しく最期の戦いに向かいます。それは誇らしく、寂しく、悲しいことです。

 

 で、ですよ。エンディング見た人は分かると思いますが、あれですよ。やっぱりあれだったわけじゃないですか。人はそんなに簡単に大きくは変われないわけですよ。それを噛み潰して、何でもないような顔をして一歩足を踏み出すわけじゃないですか。色んなことを我慢して、彼は進んで生贄になるわけですよ。彼が体験した最後のモラトリアムは、本当に最期の、最期になってしまった楽しかった思い出になるわけですよ。その楽しかった時間を提供したのは誰ですか?他ならぬ僕自身じゃないですか。

 僕がこのゲームのプレイヤーとしてやったことは、死にゆく運命を背負わされた、哀れで悲しいノクトくんに、最後の楽しい時間を作ってあげられたということではないかと思いました。だから僕は40時間でクリアしてしまったことを少々後悔したわけです。もっともっと楽しい時間を長く続けられれば、もっと色んな沢山の思い出を作っておければよかったのにと。

 

 エンディングの最後の最後のシーンについては、あれが何を意味するのか手がかりがないので、ゲームとしては好きに解釈してくださいということだと思います。僕は、あの光景は「ノクトくんの魂は救済されたよ」ということじゃないかと思っていて、彼は犠牲となったし、彼以外にも多くの人々が犠牲になったが、それは決して悲しいばかりのことではないということであって、やるせない気持ちを癒してくれるこの物語の優しさではないかと思いました。

 

 これは僕がこう思ったということだけで、正しい解釈が何かは分かりませんが、とにかく楽しい旅を続けられたということがこのゲームをやって良かったということです。そして、クリア後に再開すれば、まだまだ新しい思い出を増やせます。DLCも待ってます。

 僕はその後の辛く悲しい運命を受け入れるノクトくんを知ってしまっていますから、今回はまだまだそこに行く必要はないぜ~と思いながら、チョコボに乗って遠くに行き、どうでもいい敵を倒して帰ってくるだけの時間や、一日釣りをするだけで過ぎていく時間、どこにあるんだか分からないものをぐるぐる歩き回りながら探したりする時間、空から降って湧いてくる鬱陶しい帝国兵をしばき上げたり、まだレベル的に倒せない敵に出会ってしまって、命からがら逃げてきたり、そんな日々をまだまだ過ごしたりしています。

 

 それが逃れられない運命を背負った男に対して、僕がしてあげられる唯一のことであるからです。そしてなにより、僕自身も彼らと旅することが楽しくてたまらないからです。

僕の人間関係不得意の話(2017年初頭の状況)

 とにかく対人関係が苦手である。

 

 それでも生きていくためには他人と関わらないといけないので、どうにかこうにか工夫をして沢山の人間の中で暮らしている。そもそも自分はなぜ他人の存在がが苦手なのだろうか?ということを昔からずっと考えているのだけれど、今現在の結論としては、「他人を意識し過ぎてしまっている」ということだと思う。同じ空間に他人がいるとき、その人が何を考えているのかを想像し過ぎてしまうのだ。

 例えば道を歩いているときに、前にいる人が一瞬こちらを振り返ったとして、「なぜこの人は今振り返ったのだろう?」と考え始めてしまう。これがひとりならまだ平気だけれど、人数が増えれば増えるほど、色んな人のことを同時に考え始めてしまう。そうすると自分の頭がパンクしてしまう。つまり、その場にいる全員の所作を確認して、何を考えているのかを想像して、それに合わせて問題が出ないように行動をしようとしてしまうのだけれど、たくさんの人間がその場にいる場合には僕の脳の処理能力が限界になり対応できなくなるのだ。その場にいる人が何を考えているかの想像を十分にできないと、どうすればいいか分からないので(周りが全て地雷原であるかのように思ってしまうので)行動ができなくなる。だから黙り込んでしまう。動けなくなってしまう。そこから抜け出そうと頭をフル回転させるので、とても疲れてしまうし、それでも結局足りないので上手く行動できない。

 このようにして、とてもしんどくなってしまうので、最終的にはその場を去ってしまうか、場の隅っこに移動して存在を消すように心がける。上手く周囲を把握できなくても、自分の行動が周囲を断絶しているならば問題は起こらないからだ。

 

 なぜ、他人の考えていることを想像してしまうかというと「失敗をしたくないから」だと思う。その恐怖がある。目に見えていることだけを頼りに何かの行動をしてしまうと、目に見えていない他人が実は考えていたことを見落としてしまい、結果的に間違った行動をしてしまうことがある。それをとても恐れているのだ。自分が良かれと思ってした行動が、その見落としによって悪い行動になってしまう可能性を考えて、もしそうなったら嫌だと思っている。

 面倒なのでできるだけ行動をしたくないのに、それでも行動した結果がプラスではなく、ゼロですらなく、マイナスになってしまうのならば、最初から何もしなければよかったんじゃないかと思ってしまう。怖い。今でもまだまだ全然怖いので、失敗しないように他人のことを見て、他人が何を思っているかを考える。このように失敗しないためのことを考え過ぎてしまうのでとてもしんどくなる。

 だからこそひとりでいると、とても解放的な気分になる。そのため、ひとりの時間を生活の中にできるだけ作ろうとする。

 

 近年は、他人と一緒にいるときに、目の前の人が何を考えているかを把握したり、把握しなくてもいいことに対しては適切に感覚を鈍化させてなんとかするという技術が多少熟達してきていて、2人や3人程度であればあまり辛さを感じないでいられるようにはなってきた。でも大人数になるとやっぱり限界を迎えて黙ってしまうことも多い。

 困るのは大人数の前で喋る仕事などをしないといけないときで、その場合は、全身の感覚を一生懸命鈍化させて、目の前の人々を感じないように努力し、まるで壁を相手に喋るように徹することになる。そうすれば、やり過ごすことができる。しかし、その帰り道などで感覚をまた鋭敏に戻ったとき、それまで無意識に知覚していた他人を認識する感覚が遅れて津波のように襲ってきたりする。それを一気に引き受けてしまうことで陰鬱な気分になる。あらゆる後悔が始まってしまう。だから、この手の仕事はできるだけしたくないと思う。

 

 ここ1年ちょっとぐらいは、通っている仕事場の立地の関係で満員電車に乗ることも増えた。満員電車はとてもつらい。例えば、電車の加速減速で右の人に押されてしまったとき、その勢いで左の人を押してしまうことがある。それは不可抗力だけれど、左の人からすれば、僕が押したと思うかもしれない。満員電車は毎日のことなので押された方も慣れてはいるだろうけれど、それでもいい気持ちはしないだろう。だから僕は吊り革をぎゅっと掴んで、他の人に体が当たらないように注意するし、吊り革が空いていなければ、なんとかバランスをとって当たらないように頑張ろうとする。それも当然疲れてしまう。

 ただ、満員電車に乗る時は周囲が知らない人ばかりであることで多少救われる。なぜならその場限りだからだ。その場をやり過ごせばそれで済むからだ。これが知り合いであったとしたら、そこでしたことは、長い付き合いの中に組み込まれてしまう。だからより必死に、他人に不快感を与えないように接しようとしてしまう。それはさらに疲れてしまう。なので、できるだけ時間を調節して満員電車に乗らないようにしているし、乗らざるを得ないときには、上手く自分がストレスを感じないように、それはつまり他人にストレスを与えてしまったという実感を得ないように工夫をすることになる。努力がなんとか緩和してくれる。

 

 「他人にどう思われるかを考え過ぎてしまう」というのは、やめようやめようと思うけれど、自分の性質に深く食い込み過ぎてしまって、どうにも排除することができない。僕にできるのは、自分がそういう人間であるということを受け入れた上で、そのままで社会との間に感じてしまう軋轢をどれだけ減らすことができるかということだ。

 

 基本方針はひとつである。他人と深く関わらないことだ。他人との接点をなるべき希薄にし、その場その場の一瞬をやり過ごせばいいだけに仕向けることで、対応しなければいけない状況を限定的にする。これだけでかなり楽になる。そして、空いた時間は漫画や映画やゲームに耽溺する。これらのいいところは、こちらを見てこないことだ。僕がそれらをどれだけ見たところで、他人の目線を気にしなくていいのはありがたい。

 ただゲームがこちらを評価してくることはある。でも、相手がゲームの場合は低評価だからといって大して気にならない。それは記号的なもので、人間を相手にしたときのように気にしてしまうことはない。ゲーム内の評価が低ければ練習をしたり戦略を考えたりして少しずつ上達していけばいいと思う。自分の能力が別に高くないことは分かっていて、評価が低いこと自体は認識の通りだから全然辛くは感じない。

 困るのは、その低い評価を根拠に他人に何かを言われてしまうことだ。他人が求める結果を出し続けないといけない状況になると辛くなる。それに頑張って応えないといけないんじゃないかと思ってしまうからだ。元来不器用な自分が、ちょっとずと改善を積み増して、できなかったことができるようになる過程自体は楽しいので、それだけなら続けることはできるのだけれど、そこに他人の存在が関わると全然別の話になる。その時その場で、他人に求められているほどの結果を、すぐに出せないことが辛くなる。だから他人と強く関わるネットゲームなんかは続いた試しがない。

 

 承認欲求という概念をいまだに実感をもって理解することができない。褒められるのも貶されるのも僕の中では似たようなもので、その他人が提示した基準に、自分を沿わせることが求められていると感じてしまう。それを見てしまうと、自分がやりたいことを横においておいて、他人により貶されず、より褒められることをしようとしてしまう。それは欲求ではなく、追い立てられるようなものだと感じている。それが怖いので、他人からの承認はできるだけされたくないと思ってしまう。

 趣味で絵を描いたり文章を書いたりするけれど、特に反応は必要ではないし、あってもあえて見ないことが多い。より多くの人に評価されることが、生きていく上で有利になるように繋がっているのなら、それは仕方ないし、仕事ならばそんな感じなのでちゃんと見て反映するけれど、趣味は別だ。趣味はそれをすることが楽しいのであって、他人にどう思われるかを考えたくないと思ってしまう。他人の目を意識してしまうと、趣味が仕事のようになってしまう。しかも、他人の目に則しても代わりにお金はもらえないので、仕事よりしんどい面倒な何かということになってしまう。だから誰からも大した反応がないのがいい。他人の注目が大きく集まってしまったとき、僕はそれを止めることになると思うからだ。

 

 逆説的に言えば、自分が他人に影響を与えてしまうというのも辛い。自分が他人に何かを伝えたことで、その人の行動や考えに影響を与えてしまった場合、その動向を見守ってしまうことになる。上手く行ったときにようやくゼロでほっとする。そして上手くいかなかったときには、そのマイナスの責任を勝手に感じてしまう。

 だから僕が言ったことに誰も影響を受けないで欲しいと思うし、それゆえに、本を読んでも映画を観ても、ゲームをしても、それの批評みたいなことをしたくないと思う。僕の意見は世界で一番ちっぽけで、誰にも何の影響も与えないのであればいいのにと思う。それはとても楽だからだ。

 

 でも、そうばかりも言ってはいられない。社会的な立場も年齢や経験に従って変化するし、僕は他人に指示を出すことも増えてしまった。自分の考えはあるし、理由を積み上げてそれがきっと良いはずだと思ってはいるのだけれど、その内容を他人に伝えるときにとてもしんどくなる。他人に指示を出して作ってもらったものが、僕の考える良さにそぐわないときに、やり直してもらう依頼をするのにとてつもない苦痛を感じてしまう。僕の抱えている正しさには、他の誰も別に寄り添わなくていいと思っているはずなのに、その自分が嫌悪している行為をせざるを得ないことになる。だから、他人に頼まずにできるだけ自分の手でやろうとしてしまったり、やってもらったことはそのまま残しておいて、その間を繋ぐアダプタのようなものを自分で用意して、なんとか辻褄を合わせることに終始してしまいがちになる。

 ただ、それは自分の仕事を無限に増やしてしまう行為で、関わっているものの規模を鑑みた立場上、そればかりをしていては回らないような状況になってしまった。それがこの1年ぐらいの話だ。だからこの弱った状況をなんとかしようとしてとても頑張っている感じです。

 自分の社会生活に向かない心性を、どうにか社会に適応させるための工夫を山のように積み増して、なんとか自分が関わっているものを思い通りの形に組み上げることに全力を傾けている。この前、そのうちのひとつが、外から見れば何の滞りもないように完成を迎えた。僕はほっと胸をなでおろしたのだけれど、その過程で必要に迫られて自分の精神の構造改革をめちゃくちゃにやってしまったので、年末年始は無数のその場しのぎの工事を行ってしまったつぎはぎの精神を立て直さなければならなくて、ひたすらダラダラと過ごした。

 30代も半ばにさしかかると、もっとずっと大人になっていることを10年前は期待していたけれど、確かに精神的な成長は遂げている実感はあるものの、その階段は一歩一歩自分で登らなければならなかったもので、とても疲れるし、まだまだ全然道半ばで、どこまで登らなければいけないのかと気が遠くなる。

 

 ただ、自分が今まで登ってきた階段を振り返って見下ろすと、ここまでは登ってこれたという実感があり、救われる気持ちになる。例えば、20代半ばの頃は、外食店の忙しそうな店員さんに「お会計お願いします」と言いだせず、手が空きそうなタイミングまで黙って待っていて、しかも、店員さんの方を見てしまうと、気にするかな?と思うので目はそちらを向けないように意識し、その状態で外食後無意味に十分ぐらい居座っていた(余計に迷惑だろう)、そんな頃の自分を思えば、今ではだいぶ人間らしくはなったのではないかと思う。

 もう少し色んな工夫を取り入れて、あと5年ぐらいかけて、人の集団の中でものつくりをする中でも平気に振る舞えるようになれればいいなと思っている。

 

 人と接するとき、僕の心の中では色んなことが起こっているのだけれど、他の人からみればそこまで変には見えてはいない場合もあって、本当にそんなに人間が苦手なの?と聞き返されることがある。精神は直接比較できないので、僕がどれだけ人間が苦手かを一般的に語ることは難しいのかもしれない。でも、そのように振る舞うためには上記のように無数の努力をしているのは事実だし、感覚としては、そのようにすることでなんとか人間社会にしがみついているわけなのだ。

 また、人間が苦手という割に、自分から他人を遊びに誘うことも結構あるのだけれど、それだって平気でやっているわけではなく、そのようなことを自分がしてもいいのか、都度ものすごく悩んでいることが多い。なぜ自分から能動的に人に声をかけるかというと、僕の精神の性質上、素直に振る舞い過ぎると、世間から完全に孤立するのが目に見えているからだ。孤立し過ぎると色々難しくなるので、何らかの意味で尊敬している人や、接しても平気だったタイプの人とは出来るだけ自分から仲良くしようとしている。ただ、僕がそうしていることがその人にとって迷惑ではないのかな?とずっと考え続けてしまうのはやめることはできない。

 

 他人は僕の思う通りにならなくていいと思う。他人を変えるぐらいなら自分を変えるか、その場を去りたいと思う。でも、それはしんどいからやりたくないだけで、とりわけ仕事上の役割としては、「他人を変える」ということをやった方がいいと思うような状況にもここのところぶちあたっている。技術のなさを運動量でカバーするようなことは、もうこの先続けられないかもしれない。だから、どうにか人と関わって関係性を構築して行くべきだろうと思う。ただ、それは僕にとってとても難しいことだ。

 無人島でひとりで暮らせるぐらいのパワーがあれば、こんなものは悩みではないのかもしれない。他人を意識しなくても生きていけるからだ。でも僕はとても脆弱なので、社会に寄生しなければ生きられない。寄生しなければ生きられないくせに、そこが辛いと思ってしまうのが、とても残念な身の上だと思う。でも、だからといって黙っていても、誰かがうっかり助けてくれるのを待ったとしても、何も解決しないという経験がある。人と会いたくないからといって人と会わなくても十分生活できるのは、何かしら状況に恵まれている人だけだろう。僕のいる状況はそんな風ではないし、何もせずに待っていたら、たぶんこれまでのどこかでのたれ死んでいたに違いない。

 

 この先も社会の中で生きていたいし、そのためには他人と少なからず関わらないといけない。別に誰も嫌いじゃない(ただ嫌いな行為はある)、むしろ好きな人が多い。でも、好きな人にうっかり嫌われたらいやなので、いっそ関わりたくないとか思ってしまうこともしばしばだ。弱ったなあと思いながら生きているわけですが、これはもう仕方がないと思っているんですよ。人間が苦手でも社会の中で生きていくためには技術が必要で、それらを習得するために、日々変化をしていかないといけないと僕は思っていて、だから、おっかなびっくりそうしようとしているわけなのです。

伝統的な漫画表現技法というものについて

 「伝統」という言葉は使い方が難しく、例えば明治時代以後に慣習となったような行事に伝統という言葉を用いてしまうと、「近代以後に作られたものを伝統と呼ぶなどけしからん」と物言いをつける人がいるそうです。ある慣習が100年以上続いていても伝統と呼ぶのが難しいのであれば、200年なら伝統なのでしょうか?それとも1000年は必要なのでしょうか?その辺の塩梅は判断する人によって異なるかもしれませんが、何を満たせば伝統であるかについての一般的な合意はないと考えられるため、気軽に伝統という言葉を使ってしまうと、それが伝統であるか否かの認識齟齬について面倒なことになる可能性があります。

 

 さて、僕個人の考えとしては、伝統かどうかを判断する基準は年数ではなく代替わりの回数だと思っていて、最低三代は続かなければ伝統とは呼びにくいと思っています。三代続くということがどういうことかというと、それが次代に継承された実績があることで、その仕組みが確立されている可能性が高いということです。一代限りで終わってしまったことは伝統とは呼ばないでしょうし、弟子に引き継がれたとしても、孫弟子には引き継がれずに消えてしまったものも伝統とは呼びにくいでしょう。三代続いたものは「自分が始めたことでないものを引き継いだ人が、それを次の世代に引き継げた」という事実を示します。であるならば、四代目以後も続いていく可能性が高いと考えられます。

 つまり、数学的帰納法のようなもので、始まりがあり、N番目が成り立つ場合にN+1番目も成り立つことが保証されているならば、それが無限に続いていく様子を想像することができます。このように、媒介となる人間を次々に変えながら、無限に伝播していける可能性が想起されることであるならば、それを伝統と呼ぶための最低限の条件を満たしているのではないかと僕は考えています。

 さらにもう一つ条件を付け加えるなら、今も続いているということです。既になくなってしまったものを、現在も伝統と呼び続けることはあまり考えられないからです。

 

 さて、伝統というものをこのように捉えた場合、漫画の中に伝統はあるでしょうか?漫画家にもアシスタントという徒弟制度に似た仕組みがあるため、技術の直接的な継承関係にある場合が多いと考えられます。ただ、最近は諸事情によりそうではないケースも多いかもしれませんが。

 ともあれ、漫画は主として記号的な絵を用いて構成されるため、時代的な流行り廃りの存在する中での模倣の文化と捉えることができます。様々な人が新しい表現を考案しては、それを他の人が模倣して作品に取り込んでいきます。その中には長年受け継がれて続いているものもあれば、一時の流行りとして消えてしまうものもあるでしょう。

 

 例えば、福本伸行の漫画には、想像上の出来事を具体的に絵として描くとき、コマの枠線を点線で描くという表現が使われています。これは漫画内での事実と空想を区別するための分かりやすい方法ですが、少なくとも僕が目にしていた90年代以降ではあまり使われない技法です。しかし、例えば前田治郎の「博打流雲ナグモ」には同様の表現が登場します。前田治郎福本伸行のアシスタントをしていたそうなので、これは師匠から弟子に一代受け継がれた表現技法であると捉えることができます。しかしながら、この表現は前田治郎以後の漫画家に受け継がれている様子が僕には確認できておらず、そもそもの福本伸行が最近は使わなくなってきているように思うので、伝統とはならなかった表現と考えることができます。

 

 一方、奥浩哉の「変」は、男性の肉体が奇病によって女性化していく過程をリアリティをもって描いた漫画ですが、この作中に胸が揺れる様子を乳首の残像によって表現するという技法が登場します。この表現技本については「GANTZ」の後書きにおいて、奥浩哉自身が自分が考案したものであり、後に多数の模倣が生まれたという話が記載されています。

 この表現技法は今も残っており、そして、その全てが奥浩哉の「変」を読んだことをきっかけに模倣したとは思い難い状況です。おそらくは孫引き、曾孫引きとなった表現であり、もはや最初の考案者が誰であったかは意識されていないのではないでしょうか?(あるいは、独自に同じ表現に辿り着いた人もいるのかもしれませんが)

 現在も存在しており、次世代に継承されているという条件を満たしていることから、「乳首の残像で動きを表現する技法」は、僕の定義において、日本の漫画における伝統的表現と呼べると考えられます。

 

 例を挙げれば枚挙に暇がありません。大友克洋の漫画における物の壊れ方や、動きを表現する為の時間の切り取り方の技法、鳥山明の描くアクションや放出される気のエネルギーの表現、あるいは井上雄彦の描く顔(特に鼻)のデフォルメ表現は無数のフォロワーを生み出していて、それは既に孫引き以後の段階に至っているために、伝統的漫画表現と呼べるものと成りつつあるのではないでしょうか?手塚治虫に至っては沢山あり過ぎて把握もできないかもしれません。

 その一方、場の緊迫感が「ゴゴゴゴゴ」と擬音で表現する技法は伝統というよりは荒木飛呂彦のものという印象が強く、他の漫画で使われる場合はそのパロディと認識されます(冨樫義博のズズズは、その影響下にありつつも少し違う気もしますが)。

 ただし、時間の経過にしたがって、今はまだ伝統となっていないものでも、それらの直接的な元ネタに関係なく表現のみが受け継がれて行くという段階変化していくかもしれません。昨今「イタコ漫画家」と呼ばれている、特定の漫画家の絵柄の模倣が行われているのはその過渡期だけの特殊な現象なのではないでしょうか?

 

 新しい漫画表現は今も多数生まれています。その中には、継承され続けて生き残り伝統となるもの、一時の流行りとして消えてなくなってしまうもの、誰にも継承されないままの唯一無二のものなど様々なものがあります。面白いのは、青木雄二の絵のように個性の塊のようなものが、そのアシスタントの系譜によって、多数の模倣と継承が行われているということでしょう。その表現の一般性が強く利用しやすいために継承されていくとは限らないということです。不思議ですね。

 最後に、僕が好きな「決して伝統にならないだろう唯一無二の表現」を紹介しますが、トニーたけざきの「岸和田博士の科学的愛情」11巻102ページにある「陰毛バブル」です。これはお風呂に入ったときなどに、陰毛に細かな気泡がついてしまう様子の絵ですが、漫画の中でこれが表現されているのを僕はこの1コマしか知りません(もしかしたらエロマンガを探せばあるのかもしれませんが)。この表現はおもしろいだけで、特に役に立つわけではないので今後も模倣者が出てこないのではないでしょうか?なぜなら、おもしろさの模倣はパクりと呼ばれてしまいがちだからです。

 ということで、陰毛バブルは恥じだが役にも立たない(でもおもしろい)、と特に上手くもないことを書いて終わりにします。

「BILLY BAT」における白と黒の違いについて

 以前、最終巻発売後にざっくりとした感想を書きましたが、もうちょっと細かい解釈の話を書きます。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 「BILLY BAT」は浦沢直樹の漫画で、ビリーバットという謎にキャラクター急かされるように漫画を描く漫画家たちを主軸にした物語です。この漫画の特徴としては、彼ら漫画家に描かれた物語が、その後、現実で実際に起こってしまうという、ある種の預言書のように機能するという点が挙げられます。それら預言書のような漫画を描くためのインスピレーションの源泉こそが、ビリーバットという存在なのです。

 

 普通の人には見えないビリーバットを見ることができる登場人物は、彼ら漫画家以外にも、歴史上の有名人物や、漫画内に登場する悪役たちなどの中にも存在し、彼らもビリーバットに導かれるようにして物語は二転三転を繰り返します。さて、彼らの言動の中で気になるポイントがあります。それはビリーバットには、白のビリーバットと黒のビリーバットの2種類が存在するというのです。

 彼らの話を聞く限り、白のビリーバットは善良なる登場人物に見えるもので、黒のビリーバットは悪辣なる登場人物に見えるようものに思えます。これら白黒の違いについては、最後に至るまで明確には描写されませんが、さらに月に存在していた第3のビリーバットを含めて、もしかしたらこうなんじゃないかと考える解釈を思いつきました。

 

それはつまり、

ではないかということです。

 

 前回の感想で、「BILLY BAT」とは漫画を描くという行為そのものを漫画化したものという解釈を書きましたが、その行為を大きく分割すると上記3種類のビリーバットになると思います。白と黒が、善と悪になぞらえられるのは、その意味でミスリードであり、しかしながら、結果的にはそれらはかなり近しいものとなってしまうという側面もあるのではないでしょうか?

 つまり、ストーリーを紡ぐことにおいては、悪こそがそれを牽引する役割を持っており、善が善であることを示すには、悪の作り上げたその道の上で反発を示すという方法が使われがちであるということです。悪が描こうとするストーリーに対して、作中で唯一反発できる存在こそが善なるものであり、それは主人公とされることが多いと考えられます。

 

 最終巻における第3のビリーバットの月からの降臨のシーンにおいて、白と黒はそもそもひとつであるという説明が成されます。これはつまり、物語を形作るためにはどちらか一方では不足するということでしょう。

 例えば「MONSTER」ではヨハン・リーベルトが、「20世紀少年」ではともだちが担っていたのが悪であり黒の役割です。そして白の善なるものとは、Dr.テンマやケンヂたちでしょう。物語の基本構造を創る黒と、その枠組みの中に収まらない白の争いこそが、物語を躍動されるために必要不可欠な行為であり、「BILLY BAT」では、おそらくそれらの経験を踏まえた上で、より具体的に象徴的に直接的に意図的にそれを行ったということではないかと僕は解釈しました。

 この物語は、実在の事件や実在の人物、およびそれに類する何かが多数登場していますが、それらはあくまで物語の構成要素として名前や立場や構造を借りてきているだけで、これはあくまで漫画であり、また漫画でなくてはならないのだと思います。

 

 これらの白と黒の狭間にある葛藤を、見下ろすように存在するのが月が象徴しているのが「テーマ」ではないかと思います。白黒の争いが物語を当初の予定から脱線させ、あらぬ方向に向かわせようとしたとしても、それらを大きく包み込み、見守る役目がテーマだと思います。月のビリーバットは、「最初に地球に隕石が衝突したことで、生まれたもの」が月であり、同時にそこに飛ばされたものが自分であると表現します。つまり、この物語の生まれる最初から存在していたものということです。

 そして、この物語のテーマとは、言葉で表現するならば、漫画家ケヴィン・グッドマンの口から語られる「なぜ相手と許しあうことができないのか」というものではないでしょうか?2つに分かれて争っていたものが手を取り合い、1つの結論に向かうこと、それは作中の最後のエピソードで描かれるものであり、そして、白黒のビリーバットが協力して物語の終結に向かわせることにもなぞらえられていると解釈できます。

 この物語の要所要所では、空に輝く月が物語を見守るように登場する場面があります。そして、実際にロケットで月に到達した男は、この物語のテーマに干渉して、変更し、自分のための物語に描き替えようとするというエピソードもありました。

 

 他の漫画において通じるところがあるものとして思い出すのは藤田和日郎の「月光条例」です。「月光条例」は、おとぎ話の登場人物が、青い月から降り注ぐ光を浴びてしまうことによって変貌し、物語の筋を破壊して、自分の欲望を満たすために動き始めるという物語です。

 上記の「BILLY BAT」の解釈に当てはめれば、青き月の光とは、白のビリーバットのことであり、物語という牢獄に閉じ込められていた登場人物に対して、それを自由に無視する権利を与えられたということです。そして、主人公の月光が執行する月光条例は、彼ら彼女らを再び物語の中に押し戻すための黒のビリーバットと同じ力となります。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 あるいは、「ダイの大冒険」におけるヒュンケルの存在もあります。ヒュンケルとは人間でありながら魔物に育てられ、そして勇者アバンに助けられて弟子となった男です。彼は人間でありながら、人間に対する憎悪を抱いており、しかしながら、勇者アバンに対する尊敬の念もまた隠し持つという葛藤を抱えた男です。

 ヒュンケルはダイに敗れて仲間となり、人間の側の光の力を強く発揮していくことになりますが、物語の終盤において再び悪の力を受け入れることになるのです。ヒュンケルの闇の力の師匠であるミストバーンは、ヒュンケルの力の源泉は「葛藤」、つまり光と闇の力の決して相容れぬものをその身に抱えた状態であると表現し、光の力のみを頼った今のヒュンケルにはかつてほどの力がないと断じます。ヒュンケル自身もそれに気づき、あえて闇の力を受け入れたという展開になるのでした。

 これは、作中では戦闘能力のことを直接的には意味していますが、同時に物語の登場人物としての強度の話でもあったかもしれません。内面に葛藤を抱えないキャラクターは明瞭な存在となり、ある状況があれば、当然その役割に応じた反応を返すことになってしまうはずです。それは分かりやす過ぎると感じてしまう部分があると思います。

 善悪の2択を迫られたとき、躊躇なく善を選ぶキャラクターよりも、悪を選ぶだけの十分な理由を抱えてしまったキャラクターの方が魅力的とは思えないでしょうか?物語の中で「正しいこと」を主張する役割は、実は善よりも悪の方が多いのではないかと僕は思っています。ともすれば正しい悪と間違った善、ヒュンケルという存在はそんな黒と白の葛藤を一人で表現できるキャラクターであり、そこが魅力であるという話なのではないかと思いました。

 

 「BILLY BAT」の物語は、作中の根幹を示してくれる月のビリーバットの降臨のシーンで、実は全てを描ききっているのではないかと思います。そこから先は、白と黒と月を、そもそもひとつであるという解釈を与えた上で、これまでの経緯を元に、アドリブ的に、ジャムセッションのように、自由に描かれたものであったのではないでしょうか?

 この物語が至った結末は、作中の漫画や絵として予め表現された象徴的なシーンと、最初から存在していたテーマ、そして、そこに至るまでの白黒の葛藤によって形作られたものだと思います。それは、この膨張した物語を綺麗に収束させつつ、そしてまた、その先にも開かれているものであるかのように思いました。

 

 と、いうふうに僕は解釈して読みましたが、そうであるという証拠はないので、勝手な妄想です。本年もどうぞ宜しくお願い致します。