漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

2016年、漫画関連個人的振り返り

 2016年は個人的にめちゃくちゃ忙しく、また、社会的立場にも色々な変化が発生したので、なんだか昼間っからダラダラと漫画雑誌などを読みつつ、自分の仕事を期日までに仕上げてればいいでしょ?的な、しばらく続いていた穏やかな状況が壊れつつある感じです。他人の面倒をみたり、指導をしたり、仕事の進みを管理したりしなければならず、いい加減な人だと思われると宜しくないという感じになってしまいました。

 とはいえ分量的には今まで通りに漫画雑誌を読み、単行本になっては買って再読し、気が向けば感想として文章に残しておくというようなことは習慣として継続してやってはいました。

 

 主要な漫画雑誌をは今まで通り読んでいるものの、書店の新刊棚を見てみれば、既にとっくに知らない漫画の方が多いような状況です。それは、読んでいない雑誌のものもありますが、Webの連載であったり、アプリで配信されているものであったり、はたまた、pixivやTwitterで話題になったものがリライトされて紙の単行本になったりしたもので、今までの自分の行動を継続しているだけでは知ることができない漫画が増えたのが大きな要因だと思います。

 特に、主要な漫画雑誌がWeb媒体も運営することが当たり前のようになっており、一部の連載が、途中からWeb掲載となったり、はたまたWeb連載がの漫画が紙の雑誌に出張してきたりと複雑な状況になっており、その全容を把握するのは今の僕の置かれている状況では不可能だなと思い始めています。

 僕はネットで知り合う人には、なんとなく「漫画を大量に読んでいて詳しい人」だという認識を持たれていることが多いのですが、実際、僕が知っている範囲は全体からしてどんどんごく一部のとなってきていて、とてもじゃないですがもはや「詳しい」と言い切れるような状況ではなくなってしまいました。

 ここで、大量に読むことだけを目標のようにしてしまえば、「一冊一冊をじっくり読んで、できるだけ丁寧に感想を書きながら、自分にとってどのように響いたかを整理しておきたい」というような自分の気持ちにも反してしまうので、そうするのは難しそうです。

 

 なので、「詳しい人」みたいなのは、その筋のもっと読んでいるすごい人におまかせして、僕はそういうところからは関係なく、好きな本を好きなタイミングで好きなように読んでは、その時々で感じたことを言うだけでありたいというか、「話題の本だから読んでみようと思う」とか、そういうのからも基本的に距離をとって、一人で片隅でゴキゲンに暮らしたほうがよいというような感じに思っています。

 なので、SNSにはいるのに精神的には引きこもっているような状態に拍車がかかっています(そして、それを心地よく感じてしまいます)。

 

 漫画の出版される量はすごく増えているように思えて、にもかかわらず、今までの読んだことのないようなお話がまだまだ沢山生まれているように思うので、その懐の深さにびっくりしてしまいます。

 今年一年で何度も読み返した漫画といえば、池辺葵の漫画です。「プリンセスメゾン」の中で描かれる人の生活と心のあり方も良かったですし、フィールヤングにたまにのっていた「雑草たちよ大志を抱け」(2月に単行本化されるそうです)では、なにも特別ではない子供の心が、他人と触れ合うことによって変化する微細な揺れ動きがとても心に響きました。また、エレガンスイブに載っていた母と娘をテーマにした連作(単行本化してほしい)では、人間のなんという表情を描くのか、この心の在り方はなんと言葉で表現すればいいのか、心の隙間にポテンヒットのように落ちてきて、その先で真芯に当たってしまうというような読書体験でした。

 全然知らなかった方面から人に薦められて読んだものでは梶本レイカの「コオリオニ」もすごく良かったです。自分とは関わりのないような属性の人々の、関わりのないような出来事を描いた物語の中に、ここで描かれているのは、まさに自分の抱えている問題そのものではないか?と思えるようなものがあることを発見して、その問題の扱われ方に救われたような気持ちにもなったりしました。

 歳を重ねてよかったのは、色んなことが自分自身の体験をとっかかりにして分かるようになったような気がすることでしょう。おそらく、今の方が10年20年前よりも、同じ本をより楽しく読める自信があります。本に込められた感情の上手い再生の仕方を獲得したからです。なので、今も毎日新しい漫画を読むのが楽しくてしかたないですし、昔の漫画も毎日別の何かを読み返しています。

 

 他に今年といえば、漫画を描いてコミティアに出てみたというのも刺激的な体験でした。大学時代は漫研にいたので、描こうと思えばいくらでも機会はあったはずなのですが、なんとなく描き切ることができず、色々中途半端になっていたものを、お仕事で培ったプロジェクトマネジメント力を自分に適用したら、なんとか最後まで描き上げられたので、もう何回かやってみて、自分の思いついたことを漫画という形式で思った通りに表現できるようになれたらいいなと思っています。

 来年2月のコミティアにも申し込んでみましたが、まだ何も描いていないので、どんな感じになるか分かりません。

 

 さて、この前、雑誌の売上が書籍を下回ったというニュースを目にしましたが、漫画雑誌もどんどん衰退しているというか、「読んでいる」と言っている人を目にすることが減っているように思います。漫画家さんと話しても、「この雑誌を毎号ちゃんと読んでいる人はあなた以外に見かけたことがない」というようにコメントされたことが複数回ありました。そもそも本屋が減っているとか、立ち読みができないとか、色んな理由はあるでしょうが、僕が最近は感じているのは、時間を貴重だと強く思っているような人がいることと、楽しむということが他人によっておもてなしされることと感じているような人がいることです。

 つまり、分かりやすく外れない漫画を読むことが効率がよく素晴らしいことで、面白くないと感じた漫画を読んでしまったことを時間の無駄と感じてしまうということではないかと思います。なので、雑誌(の時点で編集部というフィルタリングがありますが)ではなく、その後に、色々な人のオススメという形で残ってきたものを読むという行動になってしまうのではないでしょうか?雑誌という形態は、その時流に乗れていないのかもしれません。そして、一方僕は依然として乗ったままどんぶらこっこと流れています。ただ、どちらが正しいとかは別にないと思います。僕はこっちが合っていて、それが沈むなら一緒に沈むだけです。

 

 総括すると、今年も漫画を沢山読んで面白かったのですが、自分を取り巻く環境的に色々とやらないといけないことも増えてきたので、何かを削らないといけなくなってしまっていて、僕は「好きな漫画についてネットで他人と共有する」ということをかなりざっくり削ってしまっていて、十代の頃、地元にいたときのように、特に話題を共有できる相手もおらず、ひとりで何かを思ってはひとりで記録するという原点に帰ってきたような感じになっています。

 おかげで、好きなものについては不特定多数の他人と共有するしない方が、自分とその作品だけに集中できるので、むしろ楽しいという感覚に気づいたりもしています。

 

 インターネットは大好きですが、何でもかんでもネットというのはやめにして、要不要を考えて脱インターネットを進めたりもし始めたのが今年という感じでした。

 今年はそうでしたが、来年はどうかはまだ分かりません。来年のことを言えば鬼が笑うといいます。56億7000万年後のことを言えば弥勒菩薩も笑う(拈華微笑)と言います。いや、言いませんね。

2016年に買って(今ちょうど)役に立っているもの

 今実家に帰省中なのですが(道中色々寄り道の旅をしてやっと帰りついた)、スマホ2つとタブレットとゲーム機とモバイルバッテリーとなどなど、USBで充電できる機械をたくさん持ち歩いて帰ってきていて、移動中や調べ物や暇つぶしにがっつり使いまくっているので、バッテリーがなくなるのが怖くてしかたありませんでした。

 なので充電できるタイミングにはがっつり充電をしたいという気持ちがあります。そのためにはUSBの充電のポートが1つや2つの充電器では、何度も差し替えつつ時間をかけて充電しなければなりませんから不便です。

 なので、こういう充電用USBのポートが5つついているやつを持ち歩くことにしました。


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8A USB急速充電器 AUTO POWER SELECT機能搭載 5ポートタイプ|株式会社バッファロー BUFFALO

 

 充電用USBポートが5つついていると、5つの機械を同時に充電できます。これは2つのときと比べて完全に便利です。2つのときは同時に2つしか充電できませんが、5つのときは同時に5つも充電できるからです。

 このように完全に便利ですが、今さっき僕が喜びいさんで沢山の機械の充電を始めたら、「充電しすぎ!」と12歳年下の妹ちゃんに笑われてしまったので、恥だと思いました。しかし、恥だが役に立つ!と思いました。

 

 上で挙げた製品はたまたまお店にあったのを買っただけなので、同等機能のの別のやつでもいいかもしれませんが、とにかくこれが今すごく役にたっています。バッテリーに不安があったら、電子書籍もおちおち読んでいられませんからね。今年完結したBILLY BATの最後の方でもそんな話がありましたね。

 サンキュー電気、サンキュー機械と思いました。それではみなさんもよい充電を。

物やサービスの適正価格関連、雑多な話

 物やサービスの価格を提示されたとき、それを高いと思ってしまったり安いと思ってしまったりすることがあります。それは多くの場合、「このあたりのものは大体これぐらいの価格だろう」という事前の認識を持ち合わせていて、それと比較して高いとか安いとか言っているのだと思います。

 

 どのような事前の認識はを持つかは、それを感じる主体がどのような環境にいるかによって大きく異なるでしょう。例えば、日本の感覚で東アジアの国々を訪問したとき、その差を感じてしまうのではないでしょうか?例えば、意外と物価が安くないこと、そしてインフラがやけに安いと感じることなどです。

 僕が米国と欧州、中国韓国台湾あたりを散策した印象では、世界的に同じようなものは、同じような値段で売られています。例えば日本で売ってるiPhoneが、中国であれば半額というようなことはありません。あるとしたら、iPhoneのガワを被せた別の何かでしょう。税金の兼ね合いがあるので、欧州などなら、日本で買う方が安いことも沢山あります。

 一方、インフラの価格は意外と土地によって違います。ここでいうインフラとは、例えば電車の料金ですが、このような公共的な側面を持つインフラはその土地に住む大半の人々が利用するものです。つまり、貧富の格差がある場合、貧の側に合わせて価格が決定されるはずです。でなければ、裕福な人しか利用することができず、インフラとしての側面を果たすことができないからです。そのような観点で見れば、日本の電車の料金は他国と比較して高いことが多く、そこに住む人々が比較的裕福な状態(日本全体の収入が右肩上がりに向上した時代の名残)で価格が設定されたのかもしれないと思います。

 ただ、理由は他にも探すことができて、例えばスイスのジュネーブで乗った路面電車では切符をチェックする仕組みがありませんでした。切符は販売しているものの、それをチェックする機械もなければ人もいないのです。ちなみに僕は訪問者だったので、滞在中は無料で乗りまわせるというチケットをホテルで貰った覚えがあります。この仕組みは基本的にそれでも不正をする人が少数であることを前提に構築されているものだと思っていて、たまにあるチェックで無賃乗車が見つかると高い罰金を払わされることで成り立っているそうです。

 このような仕組みで運用される場合、切符をチェックする機械も常駐する人も、それを維持するコストも不要ですから、サービスを低コストで維持することが可能になります。それも一つの方法です。ただ、日本的なやり方で言えば、不正をできるだけ許さず、それを防ぐことに十分なコストを支払うことが適切だという考えになりがちな印象があります。

 余談ですが、僕のジュネーブ滞在時には、路面電車の中にアコーディオンを持った人が演奏をしながら乗ってきて、おひねりを要求しながら練り歩き、去っていくということがありました。おそらくあの人たちは切符を買ってはいなかったでしょう。無料でも乗れるとなると、そういう人も出てきます。

 

 電力インフラなどでもそのような側面があって、以前災害によって電力が途絶した場合にいかに復旧すべきか?電力の途絶は人命にかかわるというような話を東南アジアの方面の人としていたときに、向こうの方では電力の供給が途絶して数日復旧しないというようなことが割とあることなので、なんで一瞬でも切れることが許されないのかがちっとも分からないというような反応がありました。

 このように最悪数日間の途絶を許容するだけで、送電のための冗長経路の確保や、復旧用の人材を待機させておく費用、無駄のないスケジューリングなどにかかる大きなコストを削減することができます。その代わり、電気がこないことによる被害だっておきるかもしれません。どの程度のサービス品質を保ち、それにどの程度の費用を払うかということに対する認識は、環境によって様々です。

 

 そういえば、以前京都の水道局で「社会に節水が普及することによる需要減に伴い値上げをする」というリリースが出たことがあって、それに対して「意味が分からない」という反応があったのを目にしました。

 設備を長期にわたって維持管理し、故障が起これば修繕し、耐用年数を迎える前に更改するということには当然ですが一定の費用がかかります。つまり、そのようなインフラ設備を持つ以上、最低限必要な費用というものがあって、それを今まではより多く使っている人からとることで賄っていましたが、そうはできないぐらいに需要が抑えられる世の中になったということでしょう。なので、利用者からすれば意味が分からないかもしれませんが、理屈は通っているので、仕方ないことだと思います。

 その維持管理コストを低減することもできるでしょうが、サービス品質を落とさずにそれを実現することは困難なことです。故障により、水道がしばらく使えなくなることを許容することや、配管の老朽化による事故などを許容するならば、ぐっと下げることもできるかもしれません。

 

 反面、「日本が他国より安い」というイメージで言えば外食です。少なくとも僕が行った範囲で日本は700円ぐらいで食べられる外食の豊富さと品質については、世界有数だと思っていて、諸外国では同じようなものを食べようとするとチップも含めて平気で2000円や3000円ぐらいかかる印象があります。僕が上手くお店を見つけられなかった可能性もありますが、1000円以下のファーストフードと、3000円ぐらいのレストランというような2択になりがちで(中国ならさらにぐっと安い屋台などもありますが)、日本の安さが、何によって支えられているのか不思議なぐらいです(とぼけて書きましたが、人間の過重労働がその一因のように思いますが。チップもないですし)。

 

 ここまでで言いたかったことは、何を適正価格と感じるかは環境によってそれぞれ異なるものであって、また、安いものには安いだけの、「高い物にはある何かを省いた」という理由がある場合が多いということです。

 

 コンテンツの世界では、値下げが横行しているように思います。アニメやゲームがそうですが、漫画でも近年そうなりつつあります。そのきっかけのひとつは電子化でしょう。電子書籍は、物理媒体を介さないため、増刷の費用が掛からないし、その時間もかかりません。そして、在庫を抱えるリスクがとても低いという特徴があります。

 つまり、物理的な本にあった諸々の制約が取り払われたとき、キャンペーンとして大幅な値引きや無料で配ることが容易になったということです。既に紙で新品の本を買うのと比較して(もう既に紙では新品が流通していないものも多くありますが)、タイミングさえ合えば大幅に安い価格でそれらを入手できる状況となっています。現状、物理的な本という比較対象が存在しているため、電子本の価格の妥当性はそれとの比較によって可能かもしれませんが、もし、電子版のみであったとき、自分はどの程度の価格をそれに払うのが適正と考えるだろうか?ということに思い至ります。

 

 「○○に払えるお金」というものの適正さは、基本的に前述の「常識」と、あるいは「比較」によって判断されがちなものではないでしょうか?つまり、異なる常識を元に価格設定されたものを見れば、「ぼったくり価格」とか「不当に安い」とか思いがちということ、そして、比較として「○○に××円払うのと、△△に××円払う方のではどちらが得か?」と考えることでも同様のことが起こり得ます。

 自分の中に何らかの適正な価格と思っている数字を見出したとき、それがどのような理路で導き出されているものなのかを考えてみるのもよいかもしれません。漫画の単行本の場合、1冊が少年誌で500円前後、青年誌で700円前後、判型の大きなもので1000円前後というものが多少のばらつきはあるにせよ一般的な感覚でしょう。実際の本もこの辺りに価格設定されているものが大半です。

 

 ここで気になるのは判型が大きいと価格が高くても妥当に感じるという僕の感覚です。少年誌と青年誌で価格設定が違うというのは、おそらく顧客層の違いと連動していると推測していて、少年誌の場合購買層に子供が多いため、より入手しやすい価格に設定する必要があります。一方、青年誌ではより購買力のある大人を対象としているため、高めに設定しても大丈夫なはずです。しかしながら、同じ判型で同じようなページ数であった場合、買う側にその価格差に納得できる理由が見つけられるでしょうか?そこを埋める方法が、本を一回り大きくする方法なんじゃないかと思っています。

 その、より分かりやすい例が、四コマ漫画誌の単行本が主に大きな判型(A5版)で売られているということです。四コマ漫画はその性質上ページ数を稼ぎにくく、その割にエピソードが詰め込まれやすいので、単行本化するならば、一般的なストーリー漫画よりもページ数が薄くなりがちだと思います。つまり、漫画の性質上、薄くて(ページ数が稼ぎにくい)高い(出せる頻度が低いの採算分岐点を低くしたい)ということにならざるを得ないということです。

 これを少年誌の漫画と比較して倍の値段で売る妥当性を見出すためには、本を大きくするということが有効なのではないかと思いました。そうすれば体積が大きくなるからです。なんと、自分は本の内容は関係なく、体積の大小によって価格の妥当性を見出しているのではないか?ということに思い至りました(もちろんこれだけが理由ではないと思います)。

 

 これは質量の側面による比較ですが、電子版の場合、その差が読者の使う端末に依存するため、そのような比較ができません。しかも最近では、紙で1冊だった単行本を電子では複数冊に分け、1冊あたりを安くして分売するという試みも見られます。これまであった、価格の妥当性は、今後紙媒体が衰退してしまった場合、より曖昧になり、曖昧になると多くの場合は価格が低い方が妥当と思う人が増えてしまうのではないでしょうか?

 実際、紙では絶版になった本が電子書籍で廉売されているケースも散見されますし、広告を付けて無料で読めるようにする試みや、読み放題サービスに取り込まれるということも起こっています。この状況は、これまで各々が漫画に持っていた「適正価格」を変化させる可能性があるのではないかと思います。

 

 価格は安い方が絶対いいとか、高い方が絶対いいとかいうものではなく、状況によってケースバイケースだと思いますが、その市場を維持するために最低限必要な額を稼げなければいけないので、あまりに安くなると分野が衰退してしまうということはあると思います。

 ただ、その際に「安くて当たり前」と思ってしまう人が悪いわけではないと思うんですよ。それはそういう環境に生きていて、培われた適正価格の妥当性が、そのようになっているというだけで、それは僕らが700円のちゃんとした定食が食べれるのが当たり前と思っている状況が、世界的に見れば不当廉売のように見えたとしても、それは当たり前じゃないかと思うようなものです。そういう環境にいれば、そういう風に思うのは、個人の意思とはあまり関係ない部分で知らず知らずのうちに食い込んでいるものです。

 例えば「日々最新の情報に更新される地図アプリを無料で使えている」という状況を異常には感じないでしょうか?それは、本来無料では維持できないものが何故か無料で提供されているという辻褄が合わない状況です。

 それを提供している会社は、別に収入源があるために利用者には無料で提供できるのであって、それはとても便利なことですが、その市場には別に収入源のない会社はもはや食い込むことができなくなります。なぜなら、「地図アプリは無料が適正価格であり、有料で提供するのはぼったくり」と思ってしまう感覚が根付いているからです。

 

 このような、「人々が考える適正価格」と「それを維持するために必要なコスト」にどうしても乖離がある現象は、色んな分野に存在します。ある製品やサービスを届けるには当然一定のコストがかかりますが、それを妥当と思ってくれる人々がお客さんでない場合、見かけ上の価格を下げる必要があります。

 それはゲームで言えばアイテム課金と呼ばれたり、ガチャであったりするかもしれません。あるいは、本であれば、売れている本がはじき出している売り上げが、売れていない本の赤字分を補てんしていたりもします。

 コストで考えれば、売れる本は売れるために安く価格設定することが可能で、売れない本は高く設定しなければならないはずです。そうでなければ採算が合わないからです。でも、こと漫画に置いては、基本的に同じ価格帯で販売されています。それは、ある種の価格統制ですが、売れるものが売れるゆえにより売れて、売れないものが売れないゆえにより売れないという、市場の一極集中を防ぐ効果もあると思います。それは、多様性を担保するために有効に機能しているのではないでしょうか。でなければ、売れるか売れないかの予測がつきづらい新人の単行本を出すことはできなくなります。

 実際問題として、この容易ではない状況にもはや負けてきている側面があると思っていて、近年では、ネットである程度人々の注目を集めることが認知されたものを優先的に単行本化しようとする動きも見られますし、動きが悪い単行本を早めに損切りしてしまったり、過去の実績を参照されて売れない単行本は売ってもらえないこともあるようです。

 完全に世知辛い感じですが、なるべくしてなっているのであって、その動きに自分が荷担していないと言い切ることができないため、吹く風の流れに自分が介入できないように、ただただ眺めているような状況です。

 

 物が安いことが当たり前になり過ぎることで、買っている側は嬉しいようでして、もうこれ以上生活の中で読めない漫画や遊べないゲームが山のようにあり、そして、それらが十分な利益が生み出せない場合があることで、十分な生活費が稼げない人も多くいるような状況を目にします。

 価格が高くなれば、それが改善するかと言えば、それも言い切れません。収入が高くなる可能性がある(少なくとも物の価格が下がり続ける状況のままでは所得が高くなる可能性がとても低い)としても、結局物やサービスの価格も高くなるのでは、生活の余裕は生まれないかもしれないからです。世の中は循環しているので、何かを変えてもそれに連動して別の何かも変わってしまいます。

 なので、僕はこうすれば良くなるという正しい解を持ち合わせてはいないのですが、昨今どんどん物を作っている人の厳しい採算の話が流れてきていて、それでいて、手間暇をかけて作られたものの多くが、溢れる情報の中で、その内容の良し悪し以前にさほど注目されぬままに流され過ぎ去ってしまうというような状況を見てはいます。なんかこのしんどい状態はずっと続くものなのだろうか?と思ったりします。

 

 だらだら書いていたら長くなったのでそろそろ終わりにしますが、最後に、最近コミックビームが提供する月額1980円のサービスに加入しました。さて、この価格は皆さん妥当と感じるでしょうか?僕はそれぐらいの元はとれると思ったので加入しましたが、知人と話をする感じでは、多くの人は高いと感じるそうです。

 サービスの内容としてはコミックビームの電子版(500円相当)と、毎月ある編集部の開催する生放送や漫画家の動画、過去作からピックアップした単行本読み放題、そして、当月に出たの新刊の期間限定の読み放題という感じです。僕はそもそも毎月雑誌を買っていたのでそれが500円ぶんあり、あと1480円の元をとればいい話ですが、生放送で500円、動画で200円、残りの単行本読み放題で780円ぐらいの感覚で捉えています(漫画喫茶に数時間行く場合との比較)。ただ、フルで楽しんでようやく元が取れるという印象なので、そもそも結構読んでいた人なら元がとれるという感じの価格設定で、そうではない他の人にお得だから是非とも加入したまえとまでは思いません。

 加入した最後の一押しは、コミックビームという雑誌が好きだからです。他の雑誌なら載らなかっただろうと思う連載が沢山あったので、なくなって欲しくないと思っているよという意思表明です。ただ、たかだか月額1980円ぽっちでは、収益的には何の支えにもならないでしょうから、なくなるとすればなくなるのでしょう。この事例だけでなく、そういうのはもはやどうしようもないなあと思っています。

 

 それはおそらくある漫画やゲームやアニメなんかが、存在し続けることに必要な最低限の価格と、その享受者であるところの僕たちの持つ適正価格感が折り合わなくなったということなのでしょう。僕は誰かが悪いとかは思いませんが、そうなったとしたら、なくなるものはなくなりますし、それは仕方ないと思います。そして、もし何らかの理由でそうならなければ、続いてくれるのでしょう。

作品の適切な褒め方がいまだにちっとも分からない話

 何かの作品を見て、ウワーッこれはすごい!!と感動したときに、それを褒める言葉にするのはどうすればいいのか、いまだに適切な方法が分かりません。

 ひとつの方法としては、自分が他人に褒められて嬉しかったことを参考に、同じことをしてみるというものがあります。ただし、僕は自分自身がやっていることを言葉で褒められてもあまり嬉しくならないことが多いので、どのように言葉で表現するか?という観点では、自分自身の体験があまり参考にならず、また、自分の感性が一般的かどうかにも疑問があるので、これは僕は嬉しいけれど、他人が嬉しいかどうかは分からないな、とも思います。

 

 そもそも、僕自身は言葉をあまり信用しておらず、それよりは行動の方を信用しています。つまり、嬉しいのは、相手が言葉で褒めてくれることより、行動を継続してくれることです。例えば、僕が書いた文章や描いた絵、する話なんかを喜んでくれる人がいたとして、それに対する言葉による感想を僕は特に必要としておらず、それよりは、それやその次作ったものをまた、読んでくれる見てくれる聞いてくれるという行動を継続してくれるということの方を嬉しく思います。それは相手が僕が作ったものに対して「そうしたい」と思ってくれているということだと感じるからです。お金を払ってくれるのもその範疇です。

 どれだけ美辞麗句を並べて褒めて頂いても、次に作ったものに興味を持たれていないのであれば、その言葉は、その時その場で適当に並べたてられたものでしかなく、体重が乗っていないように感じてしまいます。もちろん、その時その場だけでも褒めようとしてくれたのはありがたいことではありますが、結局それが行動を促すほどのレベルに達していないのであれば、その程度の評価のされ方なのだろうと思ってしまいます。言葉は重厚だけれど、その中身は軽いものだなと感じてしまうのです。

 

 僕はそういう考え方なので、その感覚に従って行動すれば、好きな漫画家さんなどに対し、第一にすべきこととして考えているのは、新しい作品が出てくればそれをちゃんと読むこと、そして本になったなら買うことだと思っています。なおその行動は、自分に「読みたい」「手に入れたい」という十分な気持ちが伴った場合のみ初めて実行することです。自分の感性に沿うならばこのような感じですが、このままでは結局持て余す「感動した」という感覚をいかにして言葉にすればいいのかが分かりません。

 

 良いと思ったのは事実なのに、何をどのように褒めればいいのか分からないのです。

 

 書道の漫画「とめはねっ」に、三浦清風先生という書道の偉い人が登場します。この三浦清風先生は、作中に登場する数々の書道作品を評価していくわけですが、この人は本当にその書のどこがどのように良いかを具体的に褒める人で、読んでいてすごいなあと思います。

 書道においても、賞の話になると、それぞれの書道作品に序列がついてしまいます。芸術的な分野では単純な数値による比較が行いづらいため、そこでつけられる序列に十分な根拠が示されなければ不公平感が出てしまいます。それは読者としても納得できるものであって欲しいと思います。なので、評価される人々やそれを眺める人々が、納得できる形で個々の作品を評価するということはとてもすごいことで、そのためには「良いものとはどのようなものか?」「悪いものとはどのようなものか?」「悪いものの何を直せばより良くなるか?」を、独善的ではなく一般的に納得できる形で示せなければなりません。

 三浦清風先生の尊敬できるところはもうひとつあります。それは、作中で前衛書を見せられたときに「自分にはこれを評価できない」という態度をとったことです。前衛書とは、書道作品を一般的な枠組みを逸脱して表現された作品のことだと思います。しかし、三浦清風先生は、自分では前衛書を書かず、前衛書に対する十分な知見を持ち得ないと判断したため、この作品が何かを表現しようとしたものであることまでは分かる、しかし、申し訳ないが自分にはこれを評価する能力がないと発言します。

 

 これはなかなかできないことだと思っていて、なぜなら自分が分からなかったとき、それを「良くない作品だ!」と判断することもできるからです。そして、それだってひとつのやり方です。しかし、その「自分がどう感じたか」のみを元にされる評価はあくまで自分の中の評価のモノサシに照らし合わせただけの話であって、それが世間一般で共有される評価のモノサシと一致するという自信でもなければ、「こう改めるべきだ」というような返答にはならないはずです。

 自分の価値判断が正しいのかどうか?それを常に刷新し続け、自分は何を判断でき何を判断できないかということを把握するということは、作品を作る人に対してフィードバックとしての意見を送る上では、重要なことなんじゃないかなと思います。

 

 僕はこの辺の普遍的な感覚を持ち合わせている自信がないため、作品の評価は行っていません。あくまで自分がどう感じたかという感想のみを書いているつもりです。だから、僕が書く感想文は、本当にあくまで自分がそれをどのように感じたかという内容でしかなく、だから、その文章が、作者は今後どうすべきだとか、これをもっとこうすれば良くなるというような意見と誤解されないように気を付けています。

 僕は自分の中のモノサシは持ち合わせている自覚はあって、それに照らし合わせればこの作品はこのように整理されるということはできるのですが、僕のこのモノサシは僕の個人的な心の問題でしかないので、普遍的な価値を持ち得るものではないし、それを混同されると弱るということを常々思っているのです。

 

 感想を「個人的な話」として捉えると、それが仮に作品の内容を多分に誤解したものであったとしても、常に正しいものです。そして一方、普遍的な評価と称されるものの場合は、その評価基準に対する世間一般からの納得を求められます。そのような納得を提供できる鍵は何なのか?それが分かりません。より多くの作品を見てきた経験があるとか、その人自身がより良いと評価されているものを作る能力があるとかは関係しているような気もしますが、それも絶対的なものではなく、常に流動する曖昧模糊としたものなのではないかと感じています。

 どこかのタイミングで、えいやっと自分のモノサシを普遍的なモノサシとしてすり替えるぐらいの豪放さが必要なのかもしれません。ただ、それを僕はできないので、感想に留めているのが実情です。

 

 評価するということ、どのように褒めるか?ということには、僕はずっとこのようなジレンマを感じていて、結局「この作品のこの部分が僕には響いて素晴らしく感じた!」ということは言えても、それ以上のことは言えないなと日和っています。しかし、この辺りの葛藤をすっとばした褒め方もあるように思います。それは芸術的なものに対しては適用しにくいはずの「数値による比較」です。それを無理矢理やる方法です。

 

 分かりやすいもので言えば売上でしょう。この漫画は素晴らしい、なぜならば100万部売れているからです!などというものです。同様に、序列の方を勝手に先につけるという方法もあります。なぜ素晴らしいかというと序列が高いからで、なぜ序列が高いかというと素晴らしいからだという循環参照を繰り返し、説明なしに価値があることを主張できます。つまり、何とかランキング1位とか、何とか大賞受賞とか、今季ナンバーワンの漫画だ!とかです。この漫画が他の漫画と比べて優れているのは、数字の大小比較によって自明であると主張することは、単純で分かりやすく便利な方法です。

 ただし、その方法は便利な反面、選ばれない漫画を序列の下として配置する犠牲のもとに成り立っているので、僕はあまりやりたくありません。例えば、売れている漫画を売れているから素晴らしいと言ったとき、売れていない漫画には価値がないということを同時に主張してしまうことになるかもしれません。今季ナンバーワンの漫画がこれだと言ったとき、では、他に読んだ漫画にはそれほど価値がなかったということになるのでしょうか?それらはどれも自分の感覚に矛盾してしまいますし、矛盾した行動をとりたくないので、実行するには抵抗があります。

 

 結局、個別の作品について自分が何をどう思ったかをつらつら書き連ねる以外のことができません。

 

 そもそも作品を「褒める」って何のためにやるんでしょうか?作者の人に、自分が良いと思った部分を伝えて、それによってその部分がより良くなってくれれば、自分がより嬉しくなっちゃうみたいなことでしょうか?あるいは、その作品とそれを好きな自分と同一視し、この作品の評価が高まることを、まるで自分の評価が高まることのように捉えることで嬉しくなっちゃうということでしょうか?それとも、ただただその作品に触れて湧き上がった感情の持っていき場がなく、言葉として溢れ出してしまったという事実でしかないのでしょうか?

 

 僕がやっていることは2番目と3番目でしょう。何かを良いと思ったら、何かを書きたくなり、そして、自分が良いと思った感性がその作品の中に含まれていたら、その感性の部分が素晴らしいと言ってしまうのです。それは結局作品の中に見つけた自分との共通点であって、つまりは自己アピールでしかないのかなと思います。と思えば、しょうもないことをしているような気持ちになってきます

 

 このように、よく分からないわけです。自分が何のためにそれをしていて、それをする以上は適切なやり方であるべきと思っていますが、何が適切かが分かりません。分からないという気持ちをそのまま書いているだけなので、この文章には結論なんてありません。

 ただ、分かんねえなあと思いながらも、良い作品に出会ったときに生まれる何かしらこうエネルギーみたいなものを持て余すので、なんとか文章に変換して書き残していこうとしています。

「この世界の片隅に」の映画を観たあとに思ったこと関連

 映画を公開初日に観たんですが、ようやく言葉になってきた感じがするので今さら感想を書きます。ちなみに原作は連載時に既読です。

 

 上映開始してすぐにすごく泣いてしまっていました。なんでかというと「絵が動いている!」と思ったからです。絵が動いているのはすごいなあ、最高だなあと思って、気持ちが溢れてダバダバと泣いてしまいました。

 僕は泣くとき「コップが溢れてしまった!」と感覚的に思うんですが、どういう感覚かというと、頭の中に感情を入れる用のコップ(概念)があって、それに液体のような感情が注がれるような感じです。そして、感情がコップのふちを超えてしまうと、涙として外に溢れ出てくるような感覚があります。歳をとったことにより、コップ自体が小さくなってしまったのか、コップが最初からある程度の感情で満たされた状態になっているのか、あるいは、注がれる感情の弁がガバガバでどっしゃりと流れ込んでしまうのか、それともそれら全てなのか、とにかくすぐに泣いてしまうようになりました。

 本を読んだり映画を観たりゲームをしたりして、よく泣くので、泣いたこと自体はよくあることで、だからどうということではない感じではあります。ただ、この映画に登場する風景と人々の所作から、なんらか自分の感情を動かすものをたくさん読み取ってしまったということなのでしょう。

 

 「この世界の片隅に」は、太平洋戦争時の広島を舞台にした物語で、すずさんという女の子が、成長して呉に嫁に行き、そこで生活をする様子を描いた漫画とそのアニメ映画です。これが何の映画であるかというと僕は「戦争の映画」だと思っていて、そして、その戦争と日常の生活が切り離せないほどに融合しているお話だと思いました。

 これは戦争が起こっている中での日常の話です。そして戦争中というのは、平和な状態と比較すると狂っているのだと思います。それゆえ、その中の日常の生活も多かれ少なかれ狂っています。その狂いは知らず知らずのうちに広がっていたものではないでしょうか。つまり、戦争がなければ起こっていなかった狂った出来事が沢山巻き起こり、そして、狂った世界の中にいては、その世界が狂っていることになかなか気づくことができません。

 ちなみに僕は「狂っている」という言葉を、「正常(というものがあるなら)な状態とは異なる価値観によって判断が行われること」と考えていて、それゆえ、狂っている側の視点を持てば場合、正常の方をむしろ狂っていると思ってしまうような、相対的なものだと捉えています。

 その意味で言えば、他人の視点を使うなら誰しも互いに多かれ少なかれ狂っているのです。そして、この物語の中には戦争という大きな狂いが存在します。

 

 今の平和な世の中に生きる僕からすると異常なことが、当たり前のような顔をして登場します。しかしながら、その異常さが日常に巻き取られ、埋没しています。そのおかしな状況を、以前から地続きの日常と捉えてしまうような強い恒常性が、人間の持つ強さであり、そして、それは吹雪の中で裸でいて、なぜ寒いか分からないような異様なことかもしれません。

 この物語では、戦争の激化に従って、異常さの表面に糊塗されていた日常という化けの皮がはがれ、その背後にあった世界の異様さが眼前に露わに広がります。それは耐えがたい光景として繰り広げられ続けるのです。終戦という転換点を迎えるまで。

 

 映画では原作漫画以上に、空襲の様子が強く、具体的に描かれていました。それを観ていたときの自分の感情は、「もうやめてくれ!」と強く願うしかないような状態です。それはさながら、防空壕の中でただただ空襲が終わるのを待っているような気持ちかもしれません。

 なぜこんなことが起こるのか。呉が海軍の重要な拠点であることは知っていて、戦争ならば、そこを潰すための作戦行動があることも分かっています。しかし、民間人の家を焼き、機銃で攻撃するようなことまで本当に必要でしょうか?なぜ、こんなことが起こっているのか?という疑問と、その状況に耐えるしかない辛さを感じました。

 そして、ここまで来て、一切お話の中に出てきていないことがあることに気づきます。それはこの戦争が、日本が仕掛けたことで始まったということです。そして、日本の国民が強いられているこの状況に相似する何かしらが、日本の外では日本人の手によって行われていただろうことです。そこが地続きであるということに思い至ります。

 

 主人公のすずさんは、目の前にある状況をそのまま受け入れがちな人であるように思います。何かが起こったとき、それをまず受け入れ、それからどうしようと考える性質の人であるように思いました。

 その姿は、ともすればバカのようにも見えます。受け入れるという行為そのものには本人の考えを見出しづらいからです。考えがないように見えてしまうのです。夢見がちの夢心地で、現実から遊離しているようにも思えるかもしれません。すずさんは絵を描く人です。絵は現実ではありません。現実を種として広がった空想の世界です。すずさんは現実を生き、同時に、その右手で描いた夢のような世界も生きていた人なのではないかと思いました。

 すずさんは、道を切り開く強い意思を見せるのではなくでなく、ただ状況を受け入れていく姿を見せます。しかし、そこで何も感じていないわけではないでしょう。色々考えて、感じて、それでもそのように生きているのだと思います。そしてそれを「普通」という言葉で表現されます。

 狂った世界の中で、ただ一人普通であること、それは見方を変えれば別の意味で一人狂っているのかもしれません。その生き方には彼女の右手の描いた、絵の世界が関わっていたように思いました。そして、その右手は爆撃に巻き込まれたことによって失われてしまうのです。

 玉音放送後のすずさんの慟哭は、正常が異常に、そして異常が正常になった姿ではないかと思いました。夢と現の垣根が壊れてしまったということです。今まで何に目をつぶってきたのか、そこから何に向き合わなければならないのか。今まで生きてきた生活とは何だったのか。それには本当に意味があったんだろうか。そこにあったのは戦争というものの被害者の姿かもしれません。そして同時に、無自覚に戦争に加担していた加害者でもあったという事実も突き付けられた姿なのではないでしょうか?

 この国から飛び去ってしまった正義のこと、暴力に屈するということ(それはまた、暴力で押さえつけていた何かもあったということ)は、それまでの笑える日常とともにあり、目を向けなかったものに気づいてしまったということではないかと思います。

 

 何が夢で何が現であったのか?この物語は最初から夢のようなシーンで始まります。最初に登場した謎の人さらいは、最後にも登場します。彼の姿は、戦争に行って帰って来なかったお兄ちゃんのその後を、すずさんが想像した姿と繋がります。それは夢かもしれません。でも、物語上は事実です。さて、この物語は夢なのでしょうか?それとも現なのでしょうか?

 

 夢と現、空想と現実、日常と戦争、それら二つが合わせ鏡のように存在しています。遊離し、乖離しているかのようにも思えたそれらが、合わせてひとつのものであるということを描いているように僕には思えました。

 このお話は作り事です。しかし、現実にあったことをよく調べて作られているそうです。そのよく調べ、調べた結果が再現されているということは、映画では原作よりさらに仔細にビジュアルとして表現されていると思いました。これも夢と現ではないかと思います。実際にはなかったことを描くために、実際にあったらしいことを細部にわたって積み上げることで、そのなかったことを浮かび上がらせているように思いました。

 この世界に片隅を作るため、それ以外の世界を具体的に詳細に描いたとも言えるかもしれません。

 

 ただ果たして、この映画で描かれていた戦時の生活が、本当にリアルであるのか?ということに対して、僕は意見を持ちません。なぜならば、僕自身がリアルな戦時の生活というものを知らないからです。正解が分からない以上、リアルかどうかを判定する能力がありません。ただ、リアリティ(もっともらしさ)は感じました。

 僕は以前色々思って、戦争体験の話を色んな人に聞いたことがあります。一番印象的なのは玉砕命令を受け、からがら生き延びたもののソ連軍に拿捕されてシベリアに抑留されていた父方の祖父の話です。

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 反面、母方の祖父と祖母は、当時地元の山奥の農家の子供だったので、空襲も体験していなければ、食料にもそこまで困っておらず、特に悲壮感を感じないものでした。人間の数だけ、戦争体験はあり、何が正しいのか正しくないのか、誰を基準とすればいいのかも分かりません。人から聞いた話から、なんとなく想像はしてみますが、それは人の語りの中の話であって、事実とは乖離もあるんじゃないかと思います。それもまた夢かもしれません。

 

 人は夢と現の狭間を行き来しながら生きているのかもしれません。夢とは自分の頭の中にあることで、現とは自分の頭の外にあるものなんじゃないかと思います。頭の中にいる限り夢は正しく、頭の外にある限り現は正しいと思います。ただ、夢(頭の中)をそのまま現(頭の外)に持ち出そうとしたとき、逆に、現(頭の外)をそのまま夢(頭の中)に持ち込もうとしたとき、それらがどれだけ乖離しているかによって、その差を一気に埋められるという動きが発生し、そこで大きく感情が動いてしまうということがあるように感じています。

 この映画を観ていたとき、僕はそこで感情が溢れていしまっているのではないかと思いました。日常と戦争の間にあった薄皮が剥ぎ取られてしまったとき、夢を描くために使っていた右手が失われてしまったとき、そして、それでも続いていくのだと思ったとき、頭の中に用意されている感情のコップには押しとどめておけないほどの様々な感情が流れ込んできて、終盤はずっと泣きながら見ていました。それは怒りとか悲しみとか喜びとか様々な感情が混ぜこぜにされたもので、それらが区別されず同じコップに注ぎこまれてしまっていて、ただ溢れてしまっていたような体験であったように思います。

 

 漫画は連載であったこともあり、さらに自分のペースで読めるので、少しずつ消化しながら読んでいたものが、映画では映像や音の強さもあって一気に津波のように流れ込んでくるので、感情がずっとオーバーフローしていたように思いました。

 

 それがすごく良かったなと思いました。おわり。

 

 

 あと自慢なんですが、こうの史代さんには昔ある経緯でサインを頂いたことがありますので見せびらかしておきます。

過去や未来や異世界を舞台にした物語に現代の常識が紛れ込む問題

 例えば過去や未来や異世界を舞台にした物語の中で、なぜか現代の日本の常識を持った人物が登場するということがよくあります。それはなぜでしょうか?

 

 結論から書くと、それはその物語の想定読者が現代の日本の常識を持った人間だからだと思います。

 

 人間の常識、つまり「言わずとも当たり前である共通理解」は、時代や場所によって異なります。もちろん、同じ人間である以上、それらを超えて理解できる部分はあるでしょう。でも、例えば、食の問題一つをとってみても、タコを食べる日本人を理解しない外国人もいれば、犬や猫を食べる外国人を理解しない日本人もいます。

 極端な例で言えば、食人の習慣のある人々がいたとして、人間を食材にした料理が食卓に上がったとすれば、そのような常識を持たない現代の日本人からすれば狂気に溢れる光景のように見えるかもしれません。しかし、何らかの機会には人を食べることもあるという常識を持っている人々がそれを見たとしたら、それをよくある風景と思ってしまうかもしれません。同じ光景を見たとしても、見た主体の持つ常識によって全く異なる理解をしてしまうのです。

 

 あらゆる伝達手段には、発信者と受信者の間で握っている暗黙の了解があります。そのような了解があるからこそ、言葉や文字に意味を込めて情報を伝えることができます。もし、それがなかったとすればどうでしょうか?例えば、地球人と何も前提を共有していない宇宙人から、何らかのメッセージが地球に届いていたとして、それが何かを意味するかを解読することは困難です。そして、そのメッセージを解読した結果も地球人にとっては意味不明で理解不可能なものかもしれません。

 

 つまり、「現代の日本の常識を持った人が物語に登場する」ということは、少なくともその登場人物の主観の部分においては、現代の日本の読者にも理解可能なものがあるということです。

 その登場人物が、訪れた過去や未来や異世界に存在する別の常識に触れたときに持つ違和感は、読者が持つ違和感と同じものになるはずです。異文化を描くときには、このように現代の常識を持つ人物を登場させる方法がよく使われます。その物語に登場する異文化は、読者の持つ常識とどのように違うのか?そこで相互理解に至るにせよ、理解不能と言う結論に至るにせよ、その差を認識するために効果的な方法です。

 

 さて、現代のある場所で作られる物語は基本的に、現代のその場所に生きる人々に向けて描かれているものです。なぜならば、それらの物語は誰かが読むために作られているからです。その誰かが「既に亡くなった遠い昔の人」であったり、「まだ生まれていない遠い未来の人」であったり、あるいは「自分とは一切かかわりのない遠い世界の人」である物語があるとしたら、それらはかなり特殊なものでしょう。

 なので、その物語の舞台が過去であれ未来であれ異世界であれ、物語を「何かを伝達するもの」と認識する以上は、現代のその場所に生きる人々のために作られていると考えられます。であるからこそ、現代のその場所に生きる人々に理解可能な常識をその中に内包する必要があるのではないかと思っています。

 

 例外的なもので言えば、過去の異国で描かれた物語を、現代の日本人が読むというような場合でしょう。なぜなら過去の異国で描かれた物語は、過去の異国に住んでいた人々を読者として想定して描かれているからです。そのような本を実際に読んでみると分かりますが、意味がとれない表現が沢山でてきます。

 例えば、「不思議の国のアリス」では、様々なジョークがその物語の背後に存在していますが、それらの意味は説明なしには現代の日本人には分からないことが多いはずです。帽子屋(The Hatter)は、頭のおかしい言動を繰り返すキャラクターですが、彼は「as mad as a hatter」という当時の慣用句を元に作られているそうです。しかし、そのような言葉を日常使うことがない現代の日本人にとっては、解説なしには理解することは困難です。

 自分が想定読者として含まれていない本を読む場合、このような意味のとれなさはよくあります。しかし、例えば外国の物語が日本に向けて翻訳されたものを読むのであれば少しはましになります。なぜなら翻訳者が、翻訳先である日本の常識に合わせて内容を変換してくれることが多いからです。そのせいでむしろ本来の意味が分かりにくくなることもあるかもしれません。しかし、少なくとも全く意味の分からない言葉は分かる言葉に置きかえられて表現されるようになっているはずです。

 

 では、これが地域ではなく時代、例えば過去の日本であればどうでしょうか?僕は100年ぐらい前の本をちょいちょい読んでいるのですが、文章の意味を上手くとれないことがよくあります。

mgkkk.hatenablog.com 例えばあることを肯定的に書いているとして、それを本当に肯定的に主張したいのか、皮肉でそういうことを書いているのか、あるいは、なんらかの意味を持ったジョークとして言われているのかを明確に区別する方法を持ち合わせていません。

 そのような分からない中で、似たような本を大量に読んでいると、その時代の常識が段々と蓄積されてくるので、なんとなく意図が分かったような気になることもあります。しかしながら、それらはやはり、限定された書物の中から得た常識でしかなく、当時の人々が持ち合わせていた常識と完全に一致しているという保証はないわけです。いったい、その時代のその本の読者は、何を思ってその本を読んでいたのか?それは不確実な認識のもとにしか理解することができません。

 

 同じ時代の同じ常識を共有している人ですら、ある本を読んだ結果の認識は様々です。時代や場所が異なればなおのことでしょう。過去の人々が過去の人々のために描いた物語の中には、読者として想定されていない自分では上手く受け取れない何かが含まれています。そして、自分を読者として想定した現代の人々が描いた物語にも、この時代のこの場所の人間にしか分からないようなものが含まれているはずです。それが、過去や未来や異世界を舞台にした物語の中にも存在したとして、否定されるべきものでしょうか?

 つまり、そのような現代の常識が紛れ込んだ場合については、その物語は、現代の人間が理解しやすいように翻訳して描かれているというふうに理解すればよいはずです。もちろん、外国の本を原書で読むように、自分に向けて描かれていない物語を異文化を理解する気持ちでそのまま読むという体験もよいものでしょう。ただ、それが唯一の正しいものであるとは僕は思いません。

 場所や時代の常識に反する表現が物語の中に登場したとして、それは物語を通じて伝えたいものを伝えやすくするため、想定する読者の理解に寄り添うために登場しているものであって(とはいえ単純な考証不足の場合もあるでしょうが)、間違っていると呼ばれるものではないと思うのです。

 

 そして、過去や未来や異世界の常識を、そもそも僕らは持ち合わせていないという問題もあります。例えば、「300年前の人々はこんな常識を持っていた」という話があるとして、それは事実でしょうか?おそらくそのような話を口にしてしまうとき、300年前に書かれた書物を大量に読んだ結果得た常識を元に類推しているのではなく、「300年前の人々はこんな常識を持っていた」と書かれた本を1冊2冊読んだというような根拠しかなかったりはしないでしょうか?それは本当に事実であると語るに足る証拠でしょうか?

 いい加減なことが書かれたと思われる書物も沢山あります。「過去にはこういうことがあった」ということを事実として断定するには、かなりの証拠集めが本来は必要なはずです。でも、薄弱な根拠をもとに、分かったような気になってしまっていることがあります。そのような根拠とは、おそらく、現代に描かれた過去を舞台にした物語なども含んだ様々なものを今まで読んできたことの集積でしょう?でも、それはやはり、過去の事実と完全に一致することはないのではないでしょうか?

 一度立ち返って、自分は何故その時代にはそういう常識があったと思っているのかを探ってみる必要があるかもしれません。そのとき、実は「ある本にそう書かれていたから」以外の理由が見つからないのであれば、そのわずかな手がかりを、事実と置き換えて認識しているということです。それらの参考文献もまた、現代の人々に対して翻訳して描かれていたものであるかもしれません。事実を語るのは非常に難しく、それが事実であるのかどうかを検証するのも一筋縄ではいきません。

 過去の事実や感覚についてどれだけ忠実に再現しようとしたとしても、そもそも正解を読む側である自分が把握しておらず、また、その物語が現在において現在の人々に対して描かれたものであるならば、その中には現在の感覚で分かるものが混ぜ合わされるものだと思います。そして、分かるものをとっかかりにして分からないものにも手が伸びるという作りになっているのではないでしょうか?

 

 さて、不思議の国のアリスの帽子屋は当時の慣用句を元にしたと上で書きましたが、その話は不思議の国のアリスがモチーフとして登場する漫画の「ARMS」が好きで好きでたまらなかった高校生のときに読んだ本に書かれていたもので、実際にそのような慣用句が日常的に使われていたかどうかの証拠を僕は持ち合わせていません。

 もし、この文章を読んでいる人がその話をさっき初めて知ったとして、それが事実であると信じたでしょうか?Wikipediaで検索してみれば、同様の話が出てきますが、それを持って事実であると思えるでしょうか?もしそうなのだとしたら、ある本やブログにいい加減なことを書いた人が、注目されにくいWikipediaの項目にそれを反映したとして、その両方を目にしたとき、それを事実ではないと見抜くことができるでしょうか?何が本当に事実であるかを断定的に語ることは、真摯に取り組もうとすることは、前述のようにとても手間がかかることです。

 自分が生まれ育った環境以外の常識を正確に把握するのはとても難しいことです。

 

 まとめると、現代の日本の常識が、過去や未来や異世界などの別の常識が存在する場所に紛れ込むのは不自然です。しかし、読者である自分が現代の日本の常識に基づいて生きている以上、それを全く排除した場合、物語として自分が理解できるとっかかりが失われてしまうかもしれません。言葉や常識、感覚が異なる場所では、必ずしも現代の日本人が理解して納得できる物語として成立しない可能性があるからです。

 筒井康隆の「最悪な接触(ワーストコンタクト)」では、地球人とは感情回路の異なるマグマグ人が登場し、彼らの感情論理に基づいた行動をとります。それは地球人には全く理解不能なものとして描かれていて、行動をしっくりくる形で受け取ることができません。その物語がマグマグ人のために描かれているならよいでしょう。あるいは、この物語のように理解しあえないということが主題であれば納得できます。しかし、そうでないならば、やはり、なんらかの形で現代の日本の常識は物語の中に紛れ込むはずです。

 綿密な取材と考証によって、過去をできるだけ再現した物語であったとして、それはその中への現代の常識の埋め込み方がさりげなく、やり方が上手いということであって、現代の日本の常識がそこから完全に排除されたということではないのではないでしょうか?そして、そのさりげなさに、別の常識の方を精緻に把握できていない読者は気づくことができないかもしれません。

 なので、僕が思うには現代の常識が紛れ込む不自然さと、同じくそれらが盛り込まれているはずなのに自然に見えるものとの差は、表現したいことを何としているかに基づく手法の選択の問題であって、作品の出来の優劣を決める要素とは異なる話ではないかと思います。

 

 本当に現代の常識が入らない物語を読みたければ、過去や外国で作られた物語を原書で読むという方法もあります。僕はたまにやっていますが、それらは現代の日本の常識ではないものに基づいて描かれているために「わかんねえ~」という気持ちを抱えたまま読み終わることになることも多いです。そして同時に、それでも「わかる~」という部分もあるのが、場所や時代を超えて同じ人間であるという共通点を感じて面白いところですね。

「晴れ間に三日月」を読んだ関連

 イシデ電の「晴れ間に三日月」を読んだのですが、面白かったのでその感想を書きます。

 

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 このお話は、ある女の人が彼氏(バンドマン)を、幼馴染の親友に紹介したところ、その彼氏がその幼馴染に一目ぼれしてしまい、目の前でフラれてしまうというところから始まります。そして、実は既に子供を身ごもっていたその女の人は、妊娠の事実を告げることなく、町を離れ、水商売をしながら一人でその子を育てることにしたのでした。さて、その息子も中学生になるほど時間が経ったあるとき、その女の人は祖母の経営するパブを継ぐために、また生まれ育った町へと帰ってきます。

 そこには、かつて自分から恋人を奪った幼馴染が、その元恋人と子供二人と、温かい家庭を作っているのです。会いたくないですよね。会いたくないでしょう。でも、再会してしまうお話なのです。さて、彼女たちはその後、どのような人間関係を構築していくのでしょうか。

 

 冒頭のあらすじを読むと、どろどろとした陰鬱な物語なのかと思ってしまいそうですが、必ずしもそういうものではありません。そのようなことが「かつてあった」ことを前提に描かれる、日常の中のお話ではないかと思います。そして日常のお話でありながら、その背後にはそういうことがあったということ、それがなかったことではないということだと思います。

 

 もし「正しい人付き合いの仕方」というものがあったとして、「それに沿う人を正しい人」、「それに沿わない人を間違っている人」としたら、僕が思うに大半の人はなんらかの部分で間違っている人なんじゃないかと思います。そもそも何をもってして正しいとするかという問題がありますが、例えば、全く無理をせず自然体で過ごしながら、周囲にいる人たちに理不尽な負担をかけることなく助け合い、毎日楽しくやっていくということを「正しい」としたら、僕自身はそれを満たして生きている自信がありません。

 誰かと付き合うために何らか無理をしていることもしばしばですし。自分が自然体で付き合って楽しいと思っていても、相手に知らずに負担をかけているかもしれません。その辺は本当に自信がないんですよ。だから僕は自分は多分間違っている側の人だと思います。そして、それは気づいたとしても、自分でも簡単にはどうにもなりません。

 

 このお話の中にも、多くの間違っている人がいると思います。そしてそれは特殊なことではないとも思います。誰しも多かれ少なかれ間違っていて、このお話では最初から色々な間違いを発見することができます。恋人がいながら別の女性に心を奪われてしまった間違い、親友の恋人を奪ってしまった間違い、もしかすると、それによってひとりで町を去ったということも間違いかもしれません。

 人間関係における正しさというものが僕にはどうにもよく分からず、もっとよい方法があったのではないかと常に考えてしまいます。そしてその考えは、自分が間違ってしまったんじゃないかと思ったときに一番よく頭をよぎります。

 

 僕の経験的な感覚として、多くの人間はあまり自由に生きておらず、自分が背負っている役割などが求めてくるものの方が、自分の意思よりも強く自分の行動を決めているように感じたりします。朝仕事に行くのは自分の意志ではなく働き手を求める仕事の意志でしょう。夜にご飯を食べるのは自分の意志ではなく生きるための肉体の意志でしょう。やることを求められているため、それに応えているだけのように思うのです。

 でも、普段はあまりそれを意識していません。そして、意識せずにいられることはある種の楽な状態なのかもしれません。ただ、時折、その背負った役割ゆえの行動が、役割を持ち合わせていなかったと想像した場合の自分と、すごくギャップがあるように思えて驚いてしまったりもします。

 自分は自分の意思でこのようなことをしているつもりだけれど、ふと立ち戻って考えたとき、そもそもそれは自分のしたかったことなんだろうか?もしかしたら、そうすることで誰かが喜んでくれるから、あるいは、そうしなければ誰かが怒ったり傷ついたりするから、そのようにしようと思っているだけなのではないかと思ってしまうのです。

 

 この物語は、自分の本当の意志に気づける人と、自分の本当の意志に気づけない人を取り巻くお話であるように思いました。でも、その差は100と0のような明確ではなくて、60と40のような微妙な違いのように思います。それは当たり前のことで、自分の意志しかない100の人も、自分の意志がまるでない0の人も、傍からみればある種の異様な人です。なので、そうではないことは普通ということです。

 多くの人間は普通で生きていくしかありません。普通の生活では、日々揺れ動く自分の意志の割合が表に出てくるレベルになったり、表に出てこないレベルになったりして変動します。それが葛藤でしょう。それに決着をつけるのが、なんらかの人生の節目ではないかと思ったりします。

 

 この物語の最後では、そのような節目を迎えます。

 

 裁定者のような目線を得て、誰かを間違っているとすることは可能で、誰にだってなんらかの間違っている部分を探すことができます。そして、そんな間違っている部分はその人を気楽に責め立てるとっかかりになりやすいものです。そういうことはいくらでもできます。でも、じゃあ、それを気楽にできるほどに自分が間違ってはいないのかというと、自分にも全く間違っている部分があると思ってしまいます。だからといって、他人の間違いを見過ごすことが正しいかというと、それもよく分かりません。

 そんな曖昧な状態で、日々生活は続いて行くようなものだと僕は感じているのですが、このお話ではある種の節目に至りました。それは重要なひとときで、鮮烈な場所です。そして、だとしてもその先も続いていくものです。

 

 この物語における、日々の生活に曖昧に埋没しない感じ、かといって、なんらかの客観的な正しさで他人を塗りつぶそうとはしない感じ、そして、それが全ての終わりではない感じがとても心地よく感じました。

 この漫画をまた読んで感じた色々を、頭の中でぐるぐるさせながら、昨夜は小雨の降る夜の道を、喫茶店から家までてくてく歩いて帰ってきました。