漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

主人公が成長してしまう物語は無限には続けられない話

 主人公が成長する物語がすごく好きです。しかし、主人公が成長する物語は連載を長くは続けられないんじゃないかと思っています。なぜなら、人間は無限に成長するわけにもいかないからです。

 それは肉体的な強さの成長でもそうですが、それ以上に精神の成長に関してそうだと思います。つまり、精神がどんどん成長してしまえば、人間としてどんどん成熟していきますし、成熟してしまえば、葛藤がなくなっていくんじゃないかということです。十分成熟した人間が主人公になると、困難に直面しても悩み苦しむことがなくなっていきます。それはそれでよいことでしょう。でも、物語としては描くことがなくなってしまうかもしれません。描くことがなくなってしまうと、その物語はもはや終わらざるを得ません。

 

 長く続けば続くほど、よい物語というわけではないので、連載は終わって全然いいのですが、主人公の成長の有無によって継続できる長さの違いはあるのではないかと思いました。100巻を超えるような長く続く物語では、延々と主人公の成長を描くわけにもいかず、良くも悪くも主人公の成長要素はなくなっていきがちなのではないでしょうか?

 

 例えば、先日200巻で完結した「こち亀」では、主人公の両さんの精神的成長はあまり見られません。いや、成長しているように思えるエピソードもあるんですが、だとしても、同じような無茶と同じような失敗を何度も繰り返し、その度懲りない様子が描かれます。もし、一回目の失敗で強く反省し、二度と同じような失敗を繰り返さない両さんであったとしたら、あのお話は数十巻も続いたあたりで描くことがなくなり、終わっていたかもしれません。

 「ゴルゴ13」でも、デューク東郷は成長しません。ただし、こちらの場合は最初からある程度成熟していますし、物語が進めば進むほどに、その精神はより盤石です。ゴルゴ13の方式は、物語の主軸が主人公ではなく、彼に舞い込んだ殺しの依頼の方にあります。主人公は、主人公であるものの、それぞれのエピソードの中では脇役とも言えます。人間がぶつかる困難や、それを乗り越えた成長などは、それぞれのエピソードごとに登場した人物が担うことがあっても、デューク東郷自身が担うことはあまりない作りになっているはずです。

 一方、主人公を成長させつつ長い物語を継続する方法としては、定期的に主人公を変更するという方法もあります。例えば、「ジョジョの奇妙な冒険」では、部ごとに主人公が交代することで、成長をリセットすることができています。新しく登場した主人公には新しい課題があり、それを乗り越えることがドラマとなるのです。

 

 繰り返しますが、人間の精神が無限に成長していくと、それに反比例して人生の中から困難が減少していくのではないかと思います。困難が減少していくことはよいことですが、そこからはドラマがなくなっていくのではないでしょうか?完璧に完成した人間は、おそらくどんな困難に遭遇したとしても動じることなく淡々とそれを解決していくでしょう。だからこそ、その完成された人間以外に、困難を糧に成長する人材が必要になります。主人公は脇役に回り、その代わりに葛藤を主に担う人材が必要となるわけです。

 

 「コータローまかりとおる」はまさしくこのような作りになっていたと思っています。「新コータローまかりとおる柔道編」では、前作で十分な精神的成長を遂げてしまった主人公のコータローは、狂言回しとしてある種の脇役に徹しており、その影響を受けた存在としての西郷三四郎や伊賀稔彦に焦点が当たっていた物語だと思いました。

 柔道編におけるコータローの役回りは、他のキャラに対しての鏡のようなものです、コータローがいることで周囲の人々の姿の輪郭が浮き上がります。コータローは空手家でありながら、柔道の領域に足を踏み入れ、様々な事情で柔道の大会に参加してきた別の部活(アームレスリング部や相撲部など)との異種柔道試合において、相手の領域で相手のルールに従いつつ勝つということを繰り返します。相手の土俵で戦うことで、相手の個性を引き出し、そして破るということが繰り返されます。

 この物語は柔道編を経て「コータローまかりとおるL」へとつながり、コータローの一族に関わる話として、再び話の焦点をコータローに戻して最終章という形式だったように思いますが、作者の健康上の理由から連載中断してもう随分になるので、続きが読めなくて残念です。

 

 主人公が成長しない物語は、主人公の周囲にいる人々に変化を与え続けることで無限に続けることができます。探偵ものの物語もこの方式であることが多いですね。

 であるがゆえに、物語が終結するときには、再び主人公にバトンを渡し、そこからのなんらかの精神的変化や、周囲の人間との関係性を変えることが終了の合図となりがちです。例えば、贋作専門のアートギャラリーを営む藤田を主人公とする「ギャラリーフェイク」では、助手のサラとの関係性が変化するようなエピソードをもって連載が完結しました。

 その意味において、普段と何ら変わりない形で連載を終了した「こち亀」は特異な存在と言えるかもしれません。おかげで、いつでも再開しようと思えばできるでしょうし、次週のジャンプに何気なく載っていたとしても、ああ、そうかと思うだけです。

 

 仮に、登場する全ての人間が完璧なまでに人間的な成長を遂げてしまった物語があったとしたらどうでしょう?それはどのような物語になるでしょうか?全ての人が分別があり、起きた出来事を淡々と解決していきます。それは面白いでしょうか?何らかの手法で面白く作ることも可能かもしれませんが、基本的には退屈のようにも思えます。

 「青龍」という漫画には、ある文明を極限にまでに進化させ、人工的な精神的成長を達成した人々が出てくるのですが、彼らが直面したものがまさに「退屈」です。彼らは、自分たちを神として猿から進化させた人間を生み出し、それによって退屈しないドラマを生み出そうと試みました。

 

 これはもしかすると、現実の人間もまた同じかもしれません。なぜなら、僕の生活は日々良い感じになっているからです。おかげで、昔のように金に困ったり、周囲の人間関係に悩まされたり、初めて手掛ける仕事が上手く出来なくて弱ったりを、なかなかしなくなってきました。

 その僕がわざわざ漫画を読んでいるわけです。未成熟で、困難に直面しては葛藤し、それを乗り越えていく人々の登場する、漫画の中のドラマに一喜一憂しています。自分の成長が停滞してしまったことで、ひどく退屈しているからなのかもしれません。

 

 自分という物語においても、無限に成長していくことができないなら、人生の道半ばで描くべきことが無くなってしまうでしょう。ただ、自分が十分成長したといっても、それはごく限られた分野での話です。新しい分野に手を出せば、またイチから始める必要があり、また継続的な成長が望めるかもしれません。もしくは、次世代の人材の育成を手掛けたり、困っている他人を助けるという主役を他人に回すのもよさそうです。あるいは、肉体の衰えや周囲の変化によって、新たな課題に直面させられることもあるでしょう。

 

 人間が漫画と異なるのは、人気のあるなしに関わらず、いつ終わりがくるかが分からないことでしょう。退屈でも生きなければなりませんし、成長中でも死ぬかもしれません。

 ともあれ、自分の人生が今成長物語なのか、成熟して他人の依頼を解決する物語なのかなどと考えてみるのも面白いかもしれません。成長物語は無限には続きません、なので、どこかで仕切り直す必要があるとか考えたりもします。成熟した物語は、何らかの外部を取り込まないと退屈です。退屈も過ぎれば、それを一旦捨てて、また成長物語に身を投じることもよいかもしれません。

 とりあえず今はいる場所が比較的退屈になってきたので、漫画を読んで未熟な人々が頑張っているのを追体験したり、別の人を助けたり、気が向いたら新しい何かにチャレンジしてみようかとおもったりしています。

事件を起きる前に解決できない探偵関連

 事件を解決する物語の中の「探偵」の基本的な性質のひとつは「手遅れ」であるということです。探偵という存在を物語におけるを機能として考えると、何らかの事件が発生することでようやく、その解決のために出動要請がかかります。多くの場合、どんな有能な探偵でも、最低ひとつの事件が起こってしまうことを見逃さざるを得ません。なぜならば、事件が何ひとつ起こらなければ、解決は必要でなく、探偵には存在意義がないからです。もちろん、事件を企てている人をわずかな兆候から察知し、その事件の発生を未然に防ぐ探偵もいます。しかしながら、それらはやはり傍流ではないかと思います。

 

 探偵は探偵の役割があるゆえに、様々な最初の事件が起こることを見逃さざるを得ません。その事件の被害者には探偵の友人や親族、恋人などが含まれることもあります。探偵あるところに事件あり、その事実に一番傷つけられるのはもしかすると探偵自身かもしれません。

 

 さて、現実世界は物語ではないので、事件は未然に解決されることも多くあります。ただし、それらは未然に解決されているがゆえに事件であると知覚されないことが多いのではないでしょうか?

 事件という結果があるとき、常にそれに対応した事件の原因も存在するはずだと思います(なお、その原因はひとつとは限りません)。しかしながら、事件の原因は、ことの時系列には逆行し、常に事件の結果より後に生まれるものだと思います。なぜならば、結果が存在しなければ原因は原因として認識されないからです。

 例えばある設備の老朽化が進んでいたとしましょう。その老朽化した設備において、事故が起こらないままに廃棄されるまで設備寿命を全うしたとしたら、老朽化を放置したということは何かの原因となるでしょうか?老朽化が進んでいた設備を使い続けていたことは、とても危険なことですが、それによる事故が起こる前には、それが強く問題視されることは少ないかもしれません。しかし、一旦その老朽化起因による事故が起こってしまえば、「なぜ老朽化が進んでいた設備を運用していたのか?」と一転強く問題視されることになります。老朽化した設備の存在は、事故が起こったときも、運よく起こらなかったときも同様に危険です。しかし、それが糾弾されるかされないかは、それによる事故が起こったか起こっていないかによって全く変わってくる場合があります。同じ事象が結果によって、原因とされたり、されなかったりするということです。

 

 さて、良識ある事業者によって運用されている設備であれば、老朽化が進む前に、予防保全として部品が交換されると思います。これはまさしく事件を未然に防ぐ行為です。ただし、まだ悪い結果が出ていないものを交換するということには、場合によっては反対意見が出ることがあります。「それは本当に必要なことなのか?」と。もちろん、それは安全面から必要なことですが、どのタイミングで壊れるか分からない場合、チキンレースのように、壊れるギリギリまで使い続けられれば、交換費用を節約できるかもしれません。さて、そんなとき、みなさんはどうするでしょうか?

 定期的に新しいものに交換をするべきであると答える良識のある方もいるでしょう、でも、そう答えた人に質問があります。例えば、自宅の電球を交換する際、まだついているものを交換しているでしょうか?実は切れてから交換してはいないでしょうか?もし、そうであるならば、その実体験について質問があります。まだついている電球を、ついているうちに交換するのはもったいないとは思っていなかったでしょうか?それは、老朽化した設備を使い続ける危険な行為と不可分ではないのではないのではないかと僕は思います。

 何かが起こる前に、それを察知して、事前に対処しておくことはとても大変なことです(しかしながら素晴らしいことにそれをやっている人が世の中には沢山います)。もしかすると、交換したことがヤビヘビとなり、新たな問題を招いてしまうということだってあるかもしれません。だからこそ、今問題なく動いているものは、何か起こるまでは、できるだけ手を触れずにそのままにしておきたいという考えを持つ人も存在するのです(それが必ずしも間違っているわけでもありません)。

 事前に兆候に気づかず、対処しないでいると、うっかり電球が切れてしまい、電気がついて欲しいときにつかないという結果を得ることになります。そしてその不便さを得ることで、初めて、電球を交換する理由を持つことができたりします。そのように手遅れになった結果、電球を新品に交換をするまでの間には、電気がつかない不便な時間ができてしまったりするのです。

 

 何かが起こる前に対処するということは、電気がつけられない時間を最小に収める努力のことです。僕が思うに、世の中では、既に結果に繋がったものと、まだ結果に繋がっていないものを比較すると、繋がったものの方が重要視される傾向があるのではないでしょうか?なぜならば、結果というものは具体的であり、重要さの算出が容易であるために、誰の目にも分かりやすい理由となるからです。

 であればこそ、世の中には理由としての事件を、事故を、悲劇を求めてしまう人がいるように思います。その人たちは、自分たちの側に悲劇が起こることを悲しみながらも、その事実を便利な道具として使ってしまいます。そして、僕はそれが気に喰わないと思っています。

 なぜ、気に喰わないかと言うと、例えば死亡事故が出たことを強い理由に改善が進むなら、改善を進めたければ死亡事故が出た方が効率がよいことになってしまうからです。その状況では悲劇が起こった方がよかったとならないでしょうか?理想を言えば、事故が起こらなくても改善が進む方がよいはずです。でも、そうはならないとすれば、誰かが犠牲になることで、ようやく前に進む糸口が得られたということになります。

 これに関しては、人柱のことを思い出します。人柱に選ばれた人が生贄として死ぬことと、例えば、川に上手く橋がかかることなどに関係性を見出すことは僕にはできません。その人柱は無意味だと思います。そして、それまで危険視されていたものが危険であることについても、死亡事故が出ようが出まいが、その危険性自体には本来変わりはないはずです。しかし、人が死んだことでようやくことが動くということがあるのだとしたら、それは人柱と似たようなものなのではないでしょうか?より悲劇的な理由を持たなければことが動かないのだとしたら、悲劇は世の中を駆動するための燃料です。世の中が動くためには、より多くの生贄が必要とされるということです。その世の中はよい世の中でしょうか?

 

 結果に繋がってしまった悲劇的な原因が、優先的に解決されうる状況では、自分たちの側に被害がでたということをアピールすることが重要になってきてしまうのではないでしょうか?それは、とても辛いことではないかと感じてしまいます。そしてそのような悲劇的であるがゆえに耳目を集め、目立ってしまう事例の下に、山ほどの起こる前に解決されている事件があります。本当はそうあるべきだと僕は思っています。しかし、それらは起きる前に解決されているがゆえにあまり注目されません。

 これは悲劇が起こることで必要とされる場が生じる、物語の中の探偵の悲しみと似ているのかもしれません。真に有能な探偵であれば、事件を最初から起こさずに話を終わらせることができるはずです。しかし、それでは物語にはなりにくい。

 

 消防士の漫画「め組の大吾」では、主人公の大吾は、火災がめったにおこらないめでたいめ組と呼ばれる、めだかヶ浜出張所に配属になったことに落胆を覚えます。出動が少ないことはつまり、自分の活躍の場が少ないからです。しかし、その火災が少ないということは、ただ運がよいわけではなく、そこにいる消防士たちの日々の火災を起こさない努力が成したものであって、火災なんてそもそも起こらない方がよいということがわかります。これはとても正しいことだと思います。

 しかし、大吾は通常のルールが通用しないような火災の中で特異な能力を発揮する人間であり、命の危険を賭して様々な人命救助を行います。それは、常識的に考えればやってはならないことだらけです。しかし、大吾はそれをやる人間であるのです。そして、自分が必要とされるには何らかの災害という悲劇が必要であり、それらがなくなることを望みつつも、もし完全になくなってしまえば自分の居場所がなくなるのではないかという恐怖も抱えます。

 これはとても悲しい話です。物語は事件を求め悲劇を求め、ヒーローはそれがなければ必要とされません。

 

 では、事件が起こる前に解決するということをよしとする物語はないのでしょうか?もちろんあります。

 例えば、ゲームにはよくあります。「かまいたちの夜」には、数々の選択肢を選び、事件を解決する方法を選んだ先に、雪山のペンション内で事件が起こる前に解決してしまうシナリオが存在します。これは、あらゆる悲劇が起こったことを体感したのちに、起こらなかったことにでき、事件という盛り上がりがありつつも、最終的に人が死なずに終わるというとても気持ちがよいお話です。

 

 ただし、このようなゲーム的な物語構築を逆手にとったゲームもあります。

 あるゲームでは(タイトルを明言しないことでネタバレでありつつも何のネタバレであるかを隠匿するテクニック)、並行世界を渡り歩くことができる人々によって、ある惨劇が未然に解決されるというエンディングがあります。そのエンディングに至るまでに、真犯人によって用意された無数の罠によって、何人もの人々が殺され、またあるときは互いに殺し合うように仕向けられ、人間を狂気に追い詰めるほどに、非人道的な犯行が行われた時空が存在しました。並行世界を渡り歩ける人々は、それらの惨劇を潜り抜けてきた人々です。場合によっては自らの手を汚してまで生き延びてきた人々です。彼らが持つのは怒りでしょう。真犯人対する怒りです。人を人とも思わない残酷な犯行を行った真犯人を許せない怒りです。

 そんな怒りを抱えた彼らは、誰も死なない時空に到達し、まだ犯行を起こす前の真犯人に詰め寄ります。真犯人を断罪しようとします。しかし、その真犯人は主張します。彼は並行世界が存在することを知っていると、そして、この世界にいる自分は犯罪者ではないのだと。彼はただ、実際に実行しうる凶悪な罠を沢山用意しただけであり、それを実際に使ってはいないのだと主張します。その言葉はとても正しい。少なくともこの時空の真犯人は、法で罰されるべき、凶悪な殺人を起こしてはいないのです(犯行可能な準備を進める過程における何かしらの罪はあるかもしれませんが)。さて、見事事件の起こらない時空を獲得した人々は、その真犯人に罰を与えることは可能でしょうか?そして、それは正しいことなのでしょうか?

 プレイヤーが最終的に回避と思われる悲劇的な物語は、ただこの場がそうではないというだけで、別の時空では実際にはあったことだと感じるのです。最終的に誰も死ななかったとして、真犯人の企てたことは許されるべきであるのか?という疑問をプレイヤーに突き付けます。

 

 これは、最終的には幸福に終わったんだからいいじゃないかという言い訳を潰されるので、たいへん厄介な気持ちになってしまいます。

 

 あと、事件が起こる前に問題を解決することに対する考え方でいうと、「ドラゴンボール」も示唆がある物語のひとつですね。人造人間編では、ドクターゲロが人類を滅ぼす人造人間を生み出すということを、未来からやってきた少年トランクスに教えられます。主人公の悟空たちには選択肢があります。ドクターゲロが凶悪な人造人間を生み出す前にやっつけてしまうという方法です。

 しかし、まだ事件を起こしていないドクターゲロを攻撃することを悟空は望みません(なにより人造人間と戦ってみたいという理由もあります)。これが悟空のよさであり、悪いところでもあるように思います。もちろん人造人間たちは倒され、人類は滅亡の危機に瀕することはありませんが、これが現実なら、起こる前に解決した方がよかったのではないかと思ってしまいます。

 実際、トランクスは、現代の人造人間セルに対しては、育つ前に殺すという方法をとります。トランクスにそれができるのは、その後におこる惨劇を誰よりも知っているからではないでしょうか?トランクスは悲劇が起きてしまった未来の住人です。悲劇が起こる可能性がなくなるということの重要さを誰よりも知っているのです。

 そして、直近のアニメ映画「復活のF」では、悟空が同じ状況に追い込まれます。復活したフリーザに止めを刺すことを躊躇した悟空は、フリーザに地球を破壊されてしまうのです。その結果、破壊神の従者であるウィスの時間を戻す能力によって、もう一度のチャンスを貰えた悟空は、今度は躊躇なくフリーザを殺すという選択をします。それは結果を、その喪失を知ってしまったからでしょう。それは、かつては持ち得なかった、事件が起こる前に解決するということの重要さを獲得した悟空の姿でした。

 

 何を書こうかちゃんと考えずに書きはじめたので、思いついた方向のことを書きまくって、話がえらい散漫になりましたが、物事は問題が発生する前に解決するのが一番いいと僕は思っているものの、「悲劇が起こるかもしれない」という想定は、「悲劇が起こってしまった」という事実の前では、あまり大きな力を持てないことが多いのではないかと思います。その最良の手段が最良と認識されにくいことを悲しく思います。

 そして、その悲劇こそがドラマであると感じたりもします。現実に被害のないフィクションであるならば、そのような悲劇をむしろ求めてしまうということもあるかもしれません。それはそうなのかもしれないけれど、だとすると辛い話だなあと思ったので、そういうことが言いたかったという感じでした。

 

 ともあれ、そのような事件が起こることでようやく必要とされる探偵は、ある種悲しい存在ではないかと思いました。

「HUMANITAS ヒューマニタス」と矛盾する複数の常識の話

 ビッグコミックスペリオールにたまに載ってたオムニバスシリーズ「HUMANITAS ヒューマニタス」が単行本になったので、やったーと思って買って読んで、めっちゃ面白いなー!とか思っているので、その話を書きます。

 

f:id:oskdgkmgkkk:20161030150114j:plain

 

 ヒューマニタスの単行本は、3つの話で構成されており、それぞれ「15世紀のメソアメリカで生まれた双子が殺し合わされる話」「ソ連時代に国を背負って戦うチェス選手の話」「遭難した白人男性がイヌイットの女性に助けられた話」です。その3作に共通するのは、登場人物たちのそれぞれが、彼らの置かれた環境の中で、彼らの感性において最善を尽くしたという話だと思います。そして、彼らの感性は、今とは時代も場所も環境も異なるため、今のこの場のこの環境、つまり、現代の日本の都会の常識からすると、ある種の不可解とも思える感性による選択のように見えるかもしれません。

 その不可解さを否定してしまう自分の常識と、それでも彼らが生きてなしたことに対する賛辞の相反するような気持ちが胸の中に渦巻くのが本作の面白いところだと思います。あと絵がめちゃ格好良くて可愛くて美しくていいですね。めっちゃ好きですね。

 

 単行本の後書きにおいて、ヤノマミ(南米の先住民族)を取材したテレビ番組を見たこと(具体的には書かれていませんがおそらくそう)が本作を描くきっかけとなったと書いてありましたが、それは個人的にとてもガッテンがいく話で、なぜなら僕も似たような割り切れなさ、単純な答えの出せなさを以前同じ物について抱いたからです。

 ヤノマミは子供を産むと、それを育てるか、精霊に還すかを選択します。精霊に還すとは、生まれたばかりの子供をバナナの葉でくるみ、シロアリの蟻塚に置き去りにするということです。シロアリに食べられたその子供はもちろん死ぬことになります。これは嬰児殺しであり、少なくとも現代の先進国の常識としては犯罪に分類されることです。しかし、これが彼らの常識です。

 文明がもたらしたもののひとつに人口密度の過密化が可能になったというものがあります。もし、原始的な狩猟と採集が主な生活であれば、一定地域に住むことが可能な人数は低いままでしょう。なぜなら、そこに自然に生み出される食べ物や安全な場所などには限りがあり、人数が多いことは住む場所や食料の取り合いによる争いを招く危険性があるからです。人間の数の調整は、原始的な生活における知恵とも言えるのではないでしょうか?少なくとも彼らはその方法で今まで上手くやってきたのでしょう。

 彼らの行為は我々の常識からすれば犯罪的行為ですが、それを咎める権利は我々にあるのでしょうか?

 

 もちろん、過去に存在した現在の常識では悪いとされていること(とはいえまだまだ存在はしていますが)、例えば人種差別や男尊女卑、身分による格差などを克服してきたのが歴史であり、その意味において、現代は過去の理不尽からすれば一番ましと考えたいものです。今がそれが良いということであったとして、では、過去の人々はみな不幸だったのでしょうか?それは「ある部分ではそうとも言える」し、「ある部分ではそうとは言えない」のではないかと僕は感じています。一概に全てを否定し得るほどに、僕は世界の正義というものを唯一無二の絶対的なものとして認識できていないからです。

 人種によって役割が区別されることは悪いことですが、昔の物語に登場する、黒人の乳母と白人の少年の関係性にある種の幸福感を感じ取ってしまうことがあります。男尊女卑は否定されるべきものですが、昔の映画などを見て、女性は男を建てるものという古い常識の中に存在した、夫と妻の関係性に、良さを感じる部分が自分の中にないとは言えません。そして、それらの中にたとえ少しでも自分が良さを見出してしまうことに、自分の中の現代的で冷静な常識が否定的な見解を述べるのです。

 常識で言えば正しいことは分かっているのです。しかし、自分の中にはそればかりではないということにも気づいてしまっています。

 

 15世紀のメソアメリカで生まれた双子の少年たちは、彼らの部族の常識において、どちらか片方しか、生きる権利を得られず、互いに殺し合うことを運命づけられてしまいました。その戦いは無意味でしょう。僕の持つ常識で言えば、そんな戦いは最初からすべきではありません。

 彼らの常識は作中でも疑われます。逃げ出して生き延びてもいいのではないかと。しかし、彼らの至った結末は、彼らの常識に寄り添った形で行われます。そして、そこには戦った彼らの姿があるわけです。それを読者としての僕は無意味なことだったとは思えないということです。

 そこには「正しい」と「間違っている」が同時に存在しています。立ち位置の違いです。その両方の視点を同時に満たすいい感じの答え、つまり、ある種都合がよい答えが提示されるわけでもありません。

 

 個人を犠牲にして国威高揚のために戦うチェス選手は、個を重んじる常識を背にして見れば、騙され搾取されていると思えるかもしれません。ただし、彼にも意志があるわけです。彼は何を大切にして、何のために戦ったのか、それが別の何かを犠牲にするものであったとしても、彼には大切と思えるものがあったのでしょう。それは本当に無意味でしょうか?彼は果たして国家に利用されていただけと言えるのでしょうか?

 

 遭難した白人男性はイヌイットの生活に、ぎょっとしてしまいます。仕留めたアザラシの生の肉を口を血だらけにして食べること、彼らの持つ家族というものの考え方、それはイギリス人である彼が持ち合わせていたものとは異なるものでした。イギリス人である彼の常識は比較的現代の我々のものに近く、彼は読者の持ちうる違和感を、イヌイットの人々に対して表明します。

 自然とともに生きるイヌイットたちの美しさと力強さに圧倒される彼は、ここで生きるのであれば、その中に自分も入らなければならないと思ってしまいます。そして、そう思ってしまったことは、人と人との間に、文化、慣習、常識などのように言い表すことができる、ただの個人を超えた巨大な壁があるように感じられてしまいました。なぜ世界中の人々の間にはこのような壁があるのか?その理不尽を感じてしまいます。

 そして、それから長い月日を経て、彼の心に去来するものは一体なんであったのか?それは未読の人は読んでもらうとして、この断絶は、必ずしも理不尽ではないのではないかということに思い至ります。

 

 世界には様々な環境があり、様々な状況があります。常識はそれらに合わせて生き延びることに最適化された形で構築されます。それゆえに、全ての人々の常識が完全に一致することはとても難しいと思います。

 他の文化を尊重するということは、他の文化を全く異質と捉えて、壁を作り、干渉しないようにすることでしょうか?自分たちの文化の良さを広めることは、他の文化を破壊し、こちらの常識で塗りつぶすことでしょうか?どちらも、極端で、正解とは言えないのではないかと思っています。そして、絶対的な一意の解は未来永劫見つからないのかもしれません。

 対立しうるのは、常識と常識、文化と文化かもしれませんが、その先端にいるのは人と人です。それぞれの人と人の背後にそれらがないということはないのだと思います。あらゆる常識はある状況では正しく、別の状況では間違っているのかもしれません。そして、その事実には常識が異なる他者がいて初めて思い至ることなのかもしれません。

 

 ヒューマニタスを読んで、そういうことを思いました。

「聲の形」の映画を観たので、漫画も読み直した関連

 「聲の形」の映画を観たんですが、アニメだからこそできる部分、つまり色のついた絵が動き、音があるということで、原作では漫画というフォーマットであるために表現が難しかった部分も描かれている感じがして、とても良かったです。

 

f:id:oskdgkmgkkk:20161024002015j:plain

 

 聲の形は、耳が聞こえない少女、西宮硝子と、小学生時代に彼女を虐めてしまった少年、石田将也が、高校生になり、互いに相手と自分自身を理解しようと孤軍奮闘する物語だと思います。漫画で全7巻の物語を映画の尺に収めるために、原作にあったシーンを色々端折ってはあったのですが、物語の本筋としては原作から不足するところなく描かれていたと感じました。

 アニメになって絵が動くということは手話がより描きやすいということです。音があるということは、西宮さんが発する上手く発音できない言葉が聞こえるということです。そしてなにより、この映画を観ている自分に聞こえているあらゆる音は、西宮さんには(補聴器によって全くというわけではないものの)聞こえていないのだということがより明確に感じられるということです。

 

 さて、映画の物語は、原作漫画とは少し異なる描かれ方がしていると思いました。なぜなら、物語の視点が石田くんよりも西宮さんの方に寄っていたと感じたからです。原作の方の序盤では、石田くんが西宮さんのことを見る徹底的に主観的な視点が描かれていて、それによって、耳が聞こえず、言葉を上手く喋ることができない人との交流の難しさが浮き彫りになるわけです。

 しかし、映画では、最初から視点が西宮さんの方にも寄っていたように思えました。もちろん、その内面がモノローグなどで明確に描かれることはないですが、いくつかのシーンの追加や、表現の追加によって、この子は今何を感じで、何を考えているんだろう?と思い、それを考える手がかりのようなものが多く描かれていたように思えたのです。

 

 というか、小学生時代の最初の手話のシーンで、僕は既にボロボロ泣いてしまっていました。なぜかというと、西宮さんが自分の持っている耳が聞こえないというハンデがあるのに、いや、そのハンデがあるからこそ、それを乗り越えていくために、自分から積極的に他人と関わって行こうとしている姿が見て取れたからです。そして、それがこの先どれほど困難なことであるかについて思いが走り、感情が溢れてしまったのでした。

 

 彼女が手話で伝えようとしたのは、「友達になろう」ということで、それは、手話ができない小学生時代の石田くんには理解できないものです。しかし、見ている僕は原作既読なので、伝えようとしていたことが分かるわけです。彼女が伝えようとしたその言葉が、まるで届かなかったということをも分かるわけです。

 その後のシーンではもっと残酷です。彼女はある理由から、聾学級ではなく、一般の学級で学ぶことを希望しました。そして、その際の象徴となるのが、文字によって級友と交流するためのノートです。しかしながら、それらは全くの裏目にでてしまい、些細な切っ掛けから、彼女は孤立し、イジメの対象となってしまうのです。ノートは彼女が、耳の聞こえる人たちと交流をしようとしたという気持ちの象徴でしょう。そのノートを池に捨てられた彼女は、一度は拾おうとしたものの、結局そのままそこに捨てていってしまいます。

 他人と関わろうとしたこと、そのために頑張ったこと、それらは全て徒労に終わっただけでなく、裏目に出てしまい、仲良くなれなかっただけでなく、嫌われてしまいます。そして、彼女はそれを自分のせいだと思ってしまったのではないでしょうか?そう思うために理由を付ける方法はいくらでも見つけられます。

 「ありがとう」と「ごめんなさい」、彼女はこの2つの言葉を多用して、どうにか耳が聞こえる人たちの中に溶け込もうとしました。しかし、それは必ずしも良い方法とは限りません。それらは、使い勝手が良い便利な言葉だからです。相手が自分の言葉を理解するのに歩み寄りが必要なように、自分も相手の言葉を理解するためには歩み寄りが必要です。便利な言葉は、その過程を省いてしまいます。自分は相手に理解してもらえなかったということは、自分も相手を理解しようとできなかったという理由付けで相殺されてしまうかもしれません。

 この悲しさは、最初から相互理解を諦めていれば起こらなかったことです。困難であることは分かっていたことなのに、進もうとしたこと。それが、やらないほうがよかったという結論に至ってしまうことはとても悲しいことです。ノートを捨てたことは、諦めでしょう。自分がハンデがあるなりに他人と関わろうと頑張ったことへの、誰かと分かりあおうとすることへの諦めです。頑張りきれなかったということです。それは、一度は頑張ろうとした自分に対する否定なのです。

 

 僕は、求めれば求めるほどに、逆に遠くなってしまうという光景をとても悲しく思います。そういうとき、最初からやらなければよかったと思ってしまいます。しかし一方、何もしないままではさらにどんどん状況が悪くなってしまったりもします。

 「最強伝説黒沢」では、いい歳した大人なのに、どうにも人間的にダメで、周囲の人々にそのダメっぷりを見られまくってしまう黒沢さんが、皆に対して「俺を尊敬しろ」と絞り出すように言うシーンがあります。これも本当に心にグサグサくるシーンなんですが、自分を尊敬しろというみっともない大人が、尊敬されるはずがありません。でも尊敬されたかったわけでしょう。そして、それが手に入らないことがとても悲しい。でも、最初から諦めていればよかったのでしょうか?それは望んではならないことでしょうか?

 

 原作漫画では、西宮さんの心の中は、後半になってやっと描かれ始めます。それまで彼女が何を思っているのか?困ったような、噛み殺したような笑いを見せる真意はなんなのか?彼は石田くんのことをどう思っているのか?それらは、終盤になるまで物語の枠の中に入ってきません。それは、読者が石田くんの視点で、彼女のことを見ることで、分からないということ、しかし分かりたいということ、そして、それがとても困難であるということを体感できるような構成になっているからだと思います。

 終盤に起こるある悲劇的な場面において、当時連載で読んでいた僕には、その時点で彼女がなぜそこまで思い詰めていたのかということを上手く理解できませんでした。そして、その理由は、そこから先のお話を読むことで、なんとなくわかったような気持ちになります。

 

 原作を読んでいたこともあり、演出上の違いもあり、映画では、序盤の高校生になった石田くんと西宮さんの再会のシーンで、もう西宮さん側の気持ちのことを考えていました。西宮さんの視点からすればこの、石田くんが「友達になれないか?」とやってくる光景は、かつて投げかけて、届かず、諦めた自分の声が、少なくとも1人には届いていたことが分かったというものだと思います。それは一度は諦めてしまったこと、かつての自分がやろうとしたことが無駄ではなかったということです。それはとても希望のある場面ではないでしょうか?

 しかし、同時にある疑念も生まれるはずです。この関係性は、相手が自分に抱いた罪悪感によって成立しているだけのものではないのかと。もし、そうだとすればそれは最初に望んだものではないはずです。

 

 一方、石田くんからはまた全く別の光景が見えていたと思います。かつて、他人の視点に立ってものを考えることができなかった未熟な自分が、理不尽に傷つけてしまった相手への謝罪です。それは受け入れてもらえますが、だからといって石田くんの中で終わったことにはなりません。かつてあったことは、なかったことにはならないからです。それを後悔しているならなおのことです。石田くんは、ここから先、自分は本当に許されていいんだろうか?ということを考えなければならなくなります。

 

 読み切り版ではここはエンディングでしたが、連載版ではようやくスタートの場面です。他人の心はわかりません。言葉をいくら尽くして分からないこともあります。言葉がなかなか通じないならばなおのことでしょう。石田くんと西宮さんは、友達になろうと言ったものの、本当に友達になれたのか、その確証を持てぬまま、お互いの言葉が本当に通じ合っているのかもわからぬまま、関係性を模索していくことになります。

 

 さて、西宮さんの視点でこの物語を見たとき、つまり、音がない状態でこの映画を見た仮定したとき、その場面場面の内容が理解できるでしょうか?ある程度は分かるかもしれません。でも、分からないことも多いはずです。

 例えば、誰かと誰かが口論をしているとき、その内容も分からず、そして、気を使われて、それが何故であったかを教えられなかったとしたらどうでしょうか?想像の余地は言葉が聞こえるときよりもずっと大きく、それは疑心暗鬼となるための入り口となってしまいます。そして、何より、自分以外の人たちは声による言葉で話しあっているのです。分かっていないのは自分だけです。それは深い孤独です。

 それは耳が聞こえないという状況であることで、より輪郭がくっきりとしてきますが、誰しも少しは持ち合わせているものではないでしょうか?

 

 原作も映画も含めて、この物語はとても誠実に作られているように感じました。なぜそう思うかと言えば、物語を通じて一足飛びに結論に至れるような絶対的な正義のモノサシが登場していないと感じたからです。"正しい"考えによる"正しい"答えは、そのモノサシに沿う者だけを肯定し、そのモノサシに沿わないものを否定してしまいます。誰かが悪く、その悪い誰かが断罪されて終わるのは、分かりやすくてすっきりしますが、それはそんな現実にはめったにない理想的なモノサシを登場させているからそうなのであって、そのようなモノサシが存在しないのが当たり前の世の中では、そのような分かりやすい帰結とはならないという事実を浮かび上がらせてしまいます。

 この物語に登場する人々は、誰しもその主観において正しく、客観において何らかの間違いも抱えています。だからこそ分かりあうのが難しい話でしょう。だからこそ、分かりあおうとすることが尊いことでしょう。そしてそれは上手く行くとは限らないものでしょう。

 

 僕はこの漫画の読み切り版(特に週刊少年マガジン掲載版)を読んだとき、慰撫されたような気持ちになったのですが、それは自分がもつ加害者の側面に対するものだと思います。自分が犯していた過ちに気づいたこと、そして、それを後悔し、新たな関係性を築きたいと思ったことは、過去の罪悪感を和らげてくれます。

 そして、連載版では、可哀想な被害者という一面的な視点から変わって、そのとき、一人の人間としての西宮硝子は何を感じていたのかが描かれ、こちらにも共感する部分があることに気づきます。

 誰しも自分の中に加害者と被害者を両方持ち合わせているでしょう。自分の行動や発した言葉が、一度も誰かを傷つけなかった人はいないでしょうし、同様に、他人の行動や発した言葉に傷つけられたこともあるはずです。加害を肯定するなら、被害者の落ち度を指摘してしまい、被害を肯定するなら、加害者の責任を追及してしまいますが、どちらの態度をとっても、冷静に考えてみれば、何かしら自分自身の悪いところもまた指弾してしまうのではないでしょうか?

 聲の形はその両面をグラデーションのように描いていて、どちらも正しく、どちらも間違っているように描いていて、そこにあるのは、だとしても「他人と関わることを諦めない」ということではないかと思いました。

 僕自身は結構すぐに人間関係を諦めてしまうので、これは手厳しいなと思ってしまいますが、読後感としては、それを肯定するでも否定するでもありません。ただそうであることを自分自身が意識するということに注意が向いた感じであったのでした。

 

 あと全然関係ないですが、西宮さんの妹の結絃が制服を着て登場したシーンで「どうでい、どうでい」と見せびらかすシーンがめっちゃ可愛いなと思いました。

自分流、根拠のない自己肯定感の持ち方について

 僕が考えるに「根拠のない自己肯定感」を持つ方法はひとつです。それは「今この瞬間からいきなり持っていると認識する」というものです。

 なぜならその自己肯定感には根拠がないので、それ以外に持ち方があるはずがありません。もし、根拠のない自己肯定感を持つために必要な努力や手続きがあったとしたら、それはもはや根拠でしょう。何かに対して相応の根拠を持てば安心ですが、逆に恐ろしくもあります。なぜなら、その根拠を崩されてしまったら、そうではないことになってしまうからです。

 他人に認められることで得た自己肯定感は、他人に否定されたら傷つけられるかもしれません。自分が他人より優秀であるということによって得られた自己肯定感は、衰えやより優秀な人の出現によって失われてしまうかもしれません。何かの条件を付けて得られたものは、その条件が失われるとなくなってしまうのです。そうなれば、その条件が崩されないように頑張ったり、新しい条件を得ようとしたりして頑張り続けないといけません。頑張り続けなければ自己肯定できないのであれば、いつの日か疲れ果ててしまう可能性があります。疲れてしまったときに自己否定に陥ってしまえば、そこからもはや抜け出すことができないでしょう。そうなれば、自分はダメな人間だ、自分には価値がないと思いながら日々過ごさなければなりません。それはとてもしんどいでしょう。しんどいことはしたくないでしょう。

 

 思うに、根拠のない自己肯定感とは、どんなに最悪の状況であったとしても、今笑うに足ることにできるというとても便利な道具です。だとすると、あった方が便利なので、僕は持ち合わせるようにしています。なぜそれを持つことが出来るようになったかというと、前述のようにあるとき全く無根拠に持つことに決めました。持つことに決めたら持てたので、非常に良かったのですが、全く無根拠ですし、やり方もあったものではないので、他の人にも同じことができるかどうかは分かりません。

 

 「自分が優秀な人間だから、自分を肯定できる」というような考えを、僕はあまりしたくありません。現実問題として、自分は優秀ではない可能性が高いからです。世の中に、優秀な人と優秀でない人がいるとしたら、きっと優秀な人の数は優秀でない人の数よりずっと少ないはずです。だとすれば、自分がその数少ない優秀である方に入っている可能性は確率的に低いということになります。確率が低いことに対しては、そんな期待はしない方がいいのではないでしょうか?期待して裏切られると辛いからです。

 仮に自分が客観的に見て優秀でなかったとしても、それでも、自分が優秀であると認識したい場合には、自分よりさらに優秀でない他人を探すでもするしかありません。相対的な優秀さを確保する必要があります。そのために、毎日自分より優秀でない人を探して、優秀でない人がいかに優秀でないかを確認し続ける必要があります。それは完全にダルい作業だと思うので、僕はやりたくないのです。

 

 「他人に認められたから、自分を肯定できる」というような考えも、僕はあまりしたくありません。なぜなら、全く何もせずに認められるならいいですが、それはよほど運がよくなければそうならず、実際にはその他人に認められるために、その他人の価値観に沿うように生きなければならないと思うからです。

 うどんを食べるかそばを食べるか決めるとき、他人の評価を気にするならら、自分はうどんを食べたかったとしても他人が好きなそばを食べる必要があるシチュエーションがでてきます。他人の価値観に合わせて行動するということを全くしたくないというわけではありませんが、それしかないということ、常に相手のご機嫌を損ねないような選択をし続けなければならなくなると、やはりダルいでしょう。その人に認められるために、自分の本来の欲求を押し殺し続けなければならないのだとしたら、自己肯定感と引き換えに失われるものが沢山あるので、僕はできるだけやりたくないのです。

 

 上記の2つは代表的なやりたくないことですが、ただ、全くやりたくないわけではないんですよ。自分がちょっと他人より上手くできたとか、自分がちょっと他人に褒められたとかで嬉しくなってしまうということは全然あります。でも、それはあくまでおまけのプラスアルファの部分であって、根底には、そんなものに依拠しない自己肯定感があった方が便利です。それがなければ、自己肯定感を得るために頑張る必要があり、毎日ダルいダルいと思いながら生活しなければならないからです。

 

 僕が何より好きではない言説があるのですが、それは「幼少期に周囲から肯定されてきたかどうかが人間の自己肯定感を育む」みたいなやつです。なぜ好きでないかというと、それは幼少期に周囲に十分肯定されてこなかったままに大人になると、手遅れということになるからです。

 一方、僕自身は全然幼少期にちっとも肯定されてこなかったと思いますが、今では十分に自己肯定はしているので、その理屈は少なくとも自分にとっては間違いです。穴のある理屈を根拠に、「あなたには自己肯定感は手に入らない」というようなことが事実であるように語られると弱ってしまいます。

 また、結局他人に認められることで得た自己肯定感は、他人に否定されたときに耐えうる強さを持ち得るでしょうか?僕は強固な自己肯定感を錬成するために、根拠なんていう脆弱なものを持ち合わせるということはしないようにしています。

 

 ちょっと別な話ですが、他人の意見を変えたい人というのは、相手に今の意見の根拠を求めてくることがあります。そして、そこで提示された根拠を崩すことで、自分の意見を受け入れさせようという戦略をとったりします。そういうとき、素直な人が、根拠を崩されたことで自分が間違っていると思って言うことを聞いてしまったりするのを目にします。しかし、その人の言うことを聞くことで実は損をしてしまうかもしれません。なぜ自分が損をする選択をしなければならないのでしょうか?相手の言うことが筋が通っているからでしょうか?筋が通った理屈を作れるということは、他人に損な選択を強要するぐらい価値のあることなのでしょうか?僕はそんなもの、「なんとなく嫌です」と言っておけばいいと思っています。これは強いです。

 「なんとなく」は理屈による説得に対して強い防御力があるので、理屈を考えるのが得意な人の言うことを嫌々聞かなければならないシチュエーションを減らすことができます。「なんとなく」は使いこなせるととても便利な盾なので、理屈をこねくりまわして相手に言うことを聞かせたい人に対してどんどん使っていきましょう。

 

 さて、無根拠な自己肯定感が強まってくると、自分が好きなものと嫌いなものに対して素直になれるんじゃないかと思います。あらゆる価値判断に他人の価値観が入ったり、他人との比較を意識する必要性が薄まるので、好き嫌いの判断が自分自身にとって、より純なものになってくるからです。そして、その純粋な好きなものを生活の中に増やして、純粋な嫌いなものを生活の中から排除するように行動すると、段々と毎日が心から好きなものばかりになってくるので、非常に良い環境だと感じます。

 しかしながら、自分が好きなものを好きと思い、自分が好きでないものを好きでないと思うということは、簡単なようでいてなかなかできません。僕もできていない部分が多くあると感じます。例えば、「世間で話題になっていないマイナーなものが好き」という感覚があったとします。それは一見、自分の感覚に素直になっているように見えて、「世間で話題になっていない」ということを意識してしまっている段階で、実は「世間で話題になっているメジャーなものが好き」という感覚と構造的には同じだと思います。結局他人の価値観に影響を受けてしまっています。

 他人を意識してしまうと、自分の素直な受け取り方とは違うことを表面上思ってしまう場合があるので、自分が好きなことをしているつもりで、実は好きではないことをするはめになってしまい、好きなことをしていると回復するはずの心のゲージが、いくら頑張っても全然回復しないという迷路にハマってしまったりするのではないでしょうか?

 

 本を読んだ感想などは、本来、自分とその本の間の話であって、その本によって自分にどのような変化がもたらされたかを記録すればいいものだと思います。しかしながら、うっかりすると、その本に対してではなく、同じ本を読んだ他の人たちに向けての感想を書いてしまうことがあります。それは本に対する純粋な話ではなく、自分が意識しているコミュニティに対して、自分がどのようなポジション取りをするかを決定するために、言うことを決めるという人間関係の話になっていると思います。

 人間関係は人間関係で重要でしょう。でも、そのポジション争いのために、好きな本を好きでないといい、好きでない本を好きというようなことになったりします。そして、その判断があたかも正当なものであるかのように小理屈をつけて、自分の柔軟性を失わせてしまいます。そしてまた、自分に合う最高の本を探すより、自分が意識している人々がより多く言及している本を探すようになってしまったりします。それは、ただ本を読むことを楽しみたいだけなのであれば、間違った方法ではないでしょうか?ことによると、その本を読んでいないのに言及して、良いの悪いの言うというわけのわからない話になったりします。

 

 結局のところ、本を楽しく読みたいなら、ひとりで読んでいるのが一番楽しいと思っているのが最近の僕の感覚です。そうすることが、自分が感じたことに対して素直になり、無根拠な自己肯定に寄り添うということと親和性が高いからではないかと思います。

 

 一方、僕は相変わらず自己評価は低いままです。それは冷静に見れば当たり前です。なぜなら、自分の能力に対して、自分よりすごい人がすぐに目に入ってしまうからです。自分には大した能力がないと思います。それは事実なんですよ。そんな状況において、自己評価を高く感じるようにしようとするということは、要するに嘘やごまかしなので、それに気づかない努力をしなければなりません。でてきました、努力!頑張る!継続する!絶対にやりたくありません。

 

 僕は自己評価と自己肯定を切り離すことにしているので、自己評価が低いことは何も問題ではありません。僕は自己肯定感を高めるために、自己評価を高くする必要は全くないと思っているのです。むしろ、本当は大したことのない自己の評価を無理に高めようとすればするほど、その歪に飲まれて自己肯定感が落ちる可能性もある気がしています。つまり、自己肯定感を高めたくて、自分はスゴいぞ!とか、自分はこんなにも愛されてるぞ!とかそういうものを求めるのは、間違っているんじゃないかなあと思っているのです。

 なので、僕はそういうことをしませんが、最初に書いたように、僕はこの方法で今はたまたま上手く行っているというだけのことなので、他の人はどうかは分かりません。とにかく、それぞれの人が自分に合った方法を見つけるのがいいんじゃないかと思っていて、その目的に一歩でも近づく実感を感じながら、やっていくしかないような気がします。

 

 さて、自己肯定感を持ちたくて持てなくて困っている人がいたら、今この瞬間から持ってみましょう。できたならよかったですね。できないなら、残念ながらやり方が合わないので、別な方法を探すしかありませんね。

大きな本屋やホームセンターに行くと自分が平凡な人間だと思う話

 大きな本屋とホームセンターは似てるなあって思うことがあるんですけど、どういうことかというと、そこには実は自分にとって過不足ない品ぞろえがあるということ、そして、目的を持たないとその事実に気づけないということです。

 

 何か興味を持ったとき、それについての本を読みたいと思って本屋に行くと、棚を見ればちゃんとその関連の本があることが多いです。棚の数は有限で新しい本はどんどん入荷するので、必然的に古い本はどんどん本屋からなくなってしまうものだと思います。なので、探しているのがある特定の本である場合、その本がその本屋には既にないこともあるんですが、ただし、それに関連する別の本は見つかったりもします。本屋に行けば何かしらはあるんですよ。そういう感じの品揃えに保たれているのが大きな本屋なんだと思います。

 つまり、何かについて知りたいと思ったとき、なんとなく手ぶらでも、大きめの本屋に行って関連する本棚を見れば、何かしら参考になる本があるので助かります。これはすごくありがたいことです。そして同時に、自分が知りたいことというのは、ちゃんと既に網羅されている枠組みの中にあるんだなあと、お釈迦様の掌の上を自分が一歩も出ていないことに気づいてしまいます。

 

 ホームセンターも同じです。何かの作業がしたくて必要な工具などを探しにいくと、結構マニアックなことをしたいと思っていても、それに特化した便利な工具が売っていたりします。それを見つけた僕は、そうそうこれが欲しかった!と思ったりします。ありがてえありがてえと感謝しつつ、その便利な工具を手に入れるわけですが、ただ、その工具は僕が欲しいと思う前からずっとその店にあったんですよね。にもかかわらずそれまでは気にしなかったし、目に入らなかったんです。その工具を欲しいと思う状況になるまでは。

 

 気づいてみれば世の中は既に意外と至れり尽くせりで、自分の行動と発想は、だいたいその範囲に収まってしまっています。人間ですから個性はあるにはあるでしょうが、僕の個性はさほど特殊でも特別でもなく、既に存在する枠に収まっているんだと思います。つまりは、平凡な人間です。そうであることは別に嫌ではなく、よかったと思います。世の中は枠の中に収まっていれば大体生きやすいからです。

 

 もし仮に身長が5メートルあったら、特殊で特別で明らかに普通の枠に収まっていないですが、おかげで生きるのが大変になる気がします。家も特別に天井が高いものでなければ腰を曲げて生活しないといけませんし、自動車や電車にもとても乗りづらいでしょう。

 社会は、平均的な人からある程度のマージンをとった枠の中に収まる人(それが世の中の大勢を占める)にとって都合がよく作られがちなので、特殊で特別であれば、生活がしにくくなってしまう可能性が高まると思います。特殊で特別であるというメリットもあるでしょう。しかしながら、デメリットもあるということも無視できないのです。

 

 さて、僕のように平凡な人間が、とりたてて何かをしようなどと思っておらず普通の生活をしているとき、世の中に必要とされるものの範囲は極小になってしまう気がします。世の存在する多くの本や工具について、それが必要でないシチュエーションにいる場合には、無価値と判断してしまう可能性が高いです。無価値ということは、つまりなくてもいいということで、実際、何かについて知りたいとか、何かを作りたいとか思わなければ、それらの価値に僕はずっと気づかなかったかもしれません。あってもなくても同じであったかもしれません。

 自分にとって無価値のものを排除していっても、人はきっと気づかないでしょう。毎日通る道で何かの建物の解体工事をしている様子を見たとき、そこにそもそも何があったのかを上手く思い出せないことがあります。それは毎日見ていたものの、そこに通うでもなく、思い出もなく、ただ存在していただけで、自分にとって無価値だったからこそ思い出せないんだと思います。なくなったとして、「なくなったんだな」と思うだけで、だからどうということもありません。

 ただ、もし、何らかの目的を持ち、その価値に後から気づいたときに、それは手遅れになってしまっています。手遅れになったとき初めて、それがそこにあったということが豊かであったことに気づけるのではないでしょうか。そして、一生それに気づかずに終わるものの方が多そうです。

 

 僕が今書いている文章を読んで「自分が価値を見いだせないものでも、実は今気づけないだけで価値があるものだから頑張って残すべきだ!」という意味合いを読み取った人がいるとしたら、それは間違いです。もし、そう読まれてしまったのだとしたら多分僕の書き方が悪いですね。

 僕はそれらを残すべきだとは全く思っていません。ただ、なくなったものの価値にあとで気づいたとき、既になくなってしまっていて悲しいなあと思ってしまうということです。そして、世の中は色々なくなりつつも、意外と代替になる別の何かは残っていて、僕にとっては実はそれで過不足ないと思うということだけです。

 

 色んなものがなくなります。そして、なくなっても問題なく生きている自分がいます。なくなって悲しいなあと思うことはあります。でも、生きるのに問題はありません。代わりの何かが十分にあり、それで過不足ないからです。それは僕が平凡だからでしょう。平凡でよかった。

「BILLY BAT」の最終巻を読んで思ったことについて

 先週「BILLY BAT」の最終巻が出て読んだので(連載でも読んでましたが)、とりあえず今の時点で思っていることを書きます。

f:id:oskdgkmgkkk:20160927001445j:plain

 

 正直なところ浦沢直樹の「BILLY BAT」という漫画がどういう漫画なのかということをいまひとつ諒解できぬままに連載を読んでいました。物語の部分部分における登場人物たちの行動や感情、状況の展開には興味を引かれ、「ああ、面白いなあ」と思いながら読んではいたものの、では、この漫画がいったい何を描いているのか?今読んでいるこの展開は全体の物語の中で何の意味を持つのか?ということが上手く掴めないままにただただ連載を追っていくような感じだったのです。

 

 この物語の中心にはBILLY BATという漫画があります。それは様々な描き手の手を経て長い間描かれ続けた漫画で、その歴史の祖を辿れば、太古の昔にある一人の原始人が見たコウモリの姿に由来します。後にビリーバットと呼ばれるその存在は、物語の描き手を始めとする様々な人々の元に姿を現し、様々な意味ありげなことを伝えては、人々を惑わします。ビリーバットの登場する漫画は、さながら予言書のように、その後に起こることを言い当ててしまったりします。果たしてビリーバットという存在とはいったい何なのでしょうか?ビリーバットは人の歴史と共にあり、そしてどこへ向かうものなのでしょうか?

 

 さて、最終巻を読み終わって思ったことは、この漫画は「漫画を描くということ」、そして「その漫画を誰かが読むということ」そのものを物語にしたものではないか?ということです。

 ビリーバットの描き手は、ビリーバットにせかされるように漫画を描き、そして、その内容が現実になってしまいます。その力は過去にすらおよび、ビリーバットの力は過去を描きかえることもできてしまいます。なぜビリーバットにはそんな力があるのでしょう?その謎は作中では明確には描かれませんが、僕の解釈では、それはこれが「漫画だから」です。

 当たり前だろうと言われればその通りなのですが、漫画だからこそ、そこには現実とは異なる独特の時空の観念があると思うのです。漫画では基本的に「過去とは現在よりも後に生まれるもの」です。つまりどういうことかというと、物語の冒頭、第一巻の最初こそが漫画の時空の上では最も古いものであり、その後に冒頭以前の過去が描かれたところで、それは時系列では過去だったとしても新しく生まれたものと考えられるということです。

 そのように過去が新しく描かれることで、より古い現在が別の意味を持つことがあります。これはモンタージュの技法のようなものです。同じシーンであったとしても、その前に何を見たかによって解釈が変わってしまうかもしれません。新しい過去が付け加えられたことで、古い現在が初読のときと異なる解釈ができるようになるかもしれません。それは作者によって予め決められていたことかもしれませんが、場合によっては後付の設定かもしれません。

 でも、それは読者には関係ないのです。作者が空白にしておいた過去を、途中でようやく具体的に埋めたとしても、それは読者からは不可知の領域で、最初からあったことと同じになってしまうでしょう。もしかすると、それは設定に矛盾を持つようなもので、辻褄が合わないことから、新しく作られた過去と気づいてしまうものかもしれません。でも、それは間違っているのでしょうか?

 設定の矛盾があったとして、それは過去が現在よりも昔にあるはず、つまり変えられないものであると思い込んでいるからそうなのであって、漫画の時空において過去が現在よりも新しいものであるとするならば、それは矛盾ではなく、過去が変わったということと捉えられるかもしれません。もしかすると「BILLY BAT」が描いているのはそのようなことではないかと思いました。

 

 人の歴史と寄り添うビリーバットは「人間が生き残っているのはもうこの時空だけだ」というようなことを言います。他の並行世界では人間は絶滅してしまい、この世界だけが最期に残ったものであるというのです。これが「漫画」であるという解釈をした場合、それが意味することは、漫画家・浦沢直樹がこの物語を描いているということに他ならないのではないでしょうか?

 この漫画を原稿にする前であるならば、そこには無数の可能性があったはずです。どのような登場人物が、どのように行動し、どのような結果を招くか、そこには無限の選択肢があったはずです。しかし、実際に描かれたものはひとつです。それが、この物語であり、この時空です。他の無数のありえたかもしれない世界は、作者・浦沢直樹がそちら展開を選ばず、こちら展開を選び取ったということから、消えてなくなってしまいました。描かれたものが全てなのです。他はあったかもしれませんが、もうないのです。

 

 では、ビリーバットとは何でしょうか?それはこの物語の大まかな行先を指し示すインスピレーション、あるいはプロットとも言えるものではないでしょうか?「BILLY BAT」が最初に描きはじめられたとき、この物語はどこに向かいどのように終わるべきか、大まかにでもそのプロットがあったはずです(漫画によってはない場合もあるでしょうが)。行く先を指し示す水先案内人がビリーバットだとして、漫画家はその通りに漫画を描こうとするはずです。しかし、漫画は必ずしもプロット通りに進むものではないかもしれません。

 

 僕はこの前、頑張って漫画を描いてみたのですが、その作業は完全に難航してしまい、最終的に最初に考えた話に到達することができませんでした。それはろくに漫画を描いたことのない僕の実力不足ではありますが、同時に自分自身の描く漫画の読者としての、納得できないという感情の結果でもあります。物語の筋を立て、キャラクターを作ってお話を進めていったとき、プロットとしてはこちらの方向に舵を切るべきですが、どう読んでもキャラクターの感情としてその方向に行くという下地が整っていないように思えて描けなくなってしまったのです。なので、そうせざるを得ないように状況や言葉を後付けで重ねてみるのですが、そうすれば辻褄は合うものの、思ったように話が進めることができません。

 このキャラクターはなぜここでこのようなことを言うのか、そしてその結果、別のキャラクターは何を思うのか、読者としてみれば、その辻褄が合わなければ気持ち悪く感じます。話の筋だけを優先させ、無理矢理に舵を切れば、そのためにキャラクターたちが支離滅裂な行動をとるように読めてしまうからです。描く前は空白であったキャラクターたちに何かを喋らせ行動させようとすると、描いたことで立ち位置が安定する代わりに自由度が失われ、僕には上手いこと制御できなくなりました。とはいえ、なんとか描き上げ、最終的に自分の中でなんとか辻褄は合わせましたが、結果的に物語は最初考えていたところと全然違うところに到達してしまいました。

 これを「キャラが勝手に動いた」と言うかというと、全然そんな高等なものではなく、もっとレベルが低いそれ以前の話で、最初にもっとちゃんとキャラクターを含めてお話を考えておけよというだけのただただ拙い話です。そして、プロの漫画家さんはこの、「キャラクターとして破綻させずにプロット通りに話を進行させる」ということをちゃんとやっているのだなあと僕自身の技術なさを痛感したという話です。

 どうでもいいですが、そのとき描いた漫画はコミティアに出したあと、ネットにもアップしてみました。

www.pixiv.net

 

 複数の漫画家さんのインタビューなどを読む限り、長期連載の漫画では、しばしば、当初の予定とは異なった話の進行が生まれるということがあると思います。あるいは、当初はもっと短くするはずだった話が、非常に長くなってしまったりしたという話も目にします。

 ビリーバットがプロットだとするならば、作中の漫画家たちはそれに沿いつつも、新しい何かを生み出している存在と言えるかもしれません。ビリーバットの指示に従っているように見えて、実際にこの物語を紡いでいるのは、各々のキャラクターたちなのです。彼らは物語に動かされる立場でありつつ、その物語を作っている当事者たちなのです。

 

 ビリーバットの結末は、物語の途中で既に作中漫画として示されていたものに沿っています。到達すべきとろこは既に示されており、後はどのように到達するかです。ビリーバットには「白いビリーバット」や「黒いビリーバット」がいて、それぞれが別々の人を動かすための指示を与えていると話されます。しかし、最終巻ではそれは元々ひとつであるとも語られます。

 物語の登場人物たちが異なる意図のもとに動かされつつも、その実、それはひとつ所に向かうためのものであるということは、物語を作るということそのものかもしれません。こうあるべきとして示されたビリーバット託宣に従い、それに沿うべきか、沿うのだとするとどのように沿うべきなのか?あるいは、そこから外れた道を選ぶこともまた必要なのではないか?そのような葛藤が、「BILLY BAT」の物語の中にはそのまま描かれているのではないかと思いました。

 

 これは漫画です。漫画とは、作者が描き、読者が読み、連載というその相互作用の中で、予め綺麗に完成されていたものだけではなく、作者自身にもどこへ向かうのかが分からないものもあり、そして、分からないのに最終的になぜか綺麗に収まってしまったりもする不思議な物語であったりすると思います。連載という荒波の中を何年も泳ぎ、最後までたどり着いたのがこの「BILLY BAT」であり、それはその結末だけではなく、何年もの間、作者と一緒に泳いできた読者の体験そのものでもあるかもしれません。

 

 この物語は、作中漫画のBILLY BATが人に影響を与え、未来を変える力を持つという結末を迎えます。作中では特に「紙の本」に対するこだわりが描かれ、それを反映するように実際の「BILLY BAT」は電子書籍上での展開を行っていません(浦沢直樹作品は電子書籍になっていません)。作中の描写を読む限り、それは、少なくとも今現在の本としての届く範囲の広さへの意識があるのではないでしょうか?

 つまり、ネットに接続し電子版を読める人々と、それ以外であれば、今のところはまだまだ後者が多いということです。読むための電子機器を持ち、ネットに接続して決済をすることができる人は実はまだまだ少なく、そして、電子媒体で購入した本は気軽に他人と貸し借りもできません。そして、スマホでは単ページの表示になりがちで、見開きのページを作者の意図通りに読むこともできません。

 漫画というものが描く作者と読む読者の関係性によって作られるものであるならば、今現在の電子書籍はまだまだ狭い世界です。その意味で、紙にこだわるということは、より広いところに到達し得るものとしての本に対する、何かしらの感情があるのではないでしょうか?その試みが上手くいくかは分かりませんが、僕には理解できるものだと思います。

 

 漫画が人に対して影響を与えるということは、自分が描いた漫画がいかに人に届いたかということを元にして、漫画を描く行為にもフィードバックされるというような、相互影響があるものではないかと思います。「BILLY BAT」が描いているものは、そのような「漫画」そのものの在り方、「漫画が生み出されること」と「漫画を読むということ」によって生み出されるもののことなのではないかと思いました。そこにあるのは描いて描いて描きまくることで切り開くという漫画家のこと、そしてそれを一生懸命に読んで自分自身の一部とする読者のことなのではないかと思います。

 

 もちろん、これらの解釈は僕が勝手になんとなく思ったので、「これが正解だし、こう読むべきだ」というようなものでは全くありません。ただ、僕は漫画を読んでこういうことを思ったということは事実なので、こう思ったということを書きました。

 最終巻を読んだ後、まだ最初から通読もしてはいないのですが、近々NHKの番組の「漫勉」の10月6日放送回で、「BILLY BAT」の最終回が描かれた執筆作業が流れるということで、それを見た後だと、影響を受けて今と解釈を変えてしまうような気がしたので、取り急ぎ、今の自分がこの時点で読者として何を読んだか(それはとても個人的なことです)を記録しておこうと思ってこの文を慌てて書いた感じです。

 

 とても面白い漫画でした。

 

(追記)もうちょっと細かいことの話も書きました。

mgkkk.hatenablog.co